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 雨の降る夜だった。
 Paradox Liveの一件以来、平和がBar4/7に満ちていた。雨で客足が少ないその日は特に、穏やかな時間の流れる夜だった。
「……匋平。最近はよくピアノを弾くようになったね」
「まあな。雨の日はどうも、弾きたくなる」
「はーい! リュウくんもっとバトルBGMっぽいのリクエストします! 黒ぶち魔王DX最終決戦のテーマ!」
「なんだその珍妙なリクエストは……」
 西門はグラスを傾け、神林はピアノを奏でる。リュウは黒ぶち魔王DX─猫を頭に載せて、ソファに転がっている。
 やがて、神林がピアノを弾き終えると、いよいよ雨音だけがバーを支配した。
「四季のやつ、ちゃんと傘持って行ったろうな」
「リュウくんカバンに傘入れてあげたから大丈夫! 小さくて銀色でオシャレ!」
「シェイカーが一つないと思ったらお前か、リュウ……」
 The Cat's Whiskersにとって変わらない日々のようで、Paradox Liveを経て、いくつか確かに変わったことがあった。
 まず……四季がよく出かけるようになった。
 那由汰との一件における過去と誤解の解決に伴い、四季はcozmezの双子と遊ぶことが多くなった。四季を苛む全てがなくなったわけではないが、間違いなく笑顔は増えた。生来の気弱さはあるものの、明るさを取り戻しつつある。
 もう一つ。最も西門と神林を悩ませていた、バーの土地買収の件が解決した。
 Paradox Liveの終了と共に、不動産会社の態度が露骨に軟化した。アルタートリガー社の影響であることは、明らかだった。
 優勝して賞金を手に入れることはできなかったものの、十分余裕をもって土地と店舗を買い取ることができた。結果として、店を守るという目的は達成されたのだ。
 そういうわけで─The Cat's Whiskersの問題は、多くが解決したと言っていい状態だった。
 けれど、それはあくまで今あるものを、何とか守っただけの話。
 もう戻ってこないものは、確かにあった。
「なあ西門」
「なんだい?」
「お前の中の椿さん、笑ってるか」
「……ああ。だから匋平も、ピアノが弾けるんだろう?」
「……まあな」
 神林の視線は、窓の外を向いた。静かにこぼれ落ちる雨垂れが、窓ガラスに縦線を描いていく。
 確か、あの夜も……。
 あまりにも穏やかで、平和な夜。優しい雨のリズムが、大事な店だけは確かに守ったのだという実感と共に、神林を、西門を……遠い過去の記憶へと、誘っていった。

 確か、あの夜も雨が降っていた。
 人の声も、ビルの明かりも滲ませるように、雨音が夜を包んでいた。
 街はまるで喪に服したように静まっていて、外を歩くのがどこか罪深く思えるような、そんな夜だった。
 濡れたアスファルトの道を、捨て猫のように歩いている青年がいた。
 水を含んだ安いシャツと、ボロのスニーカーを引きずって、重い足取りで道を行く。濡れた前髪が視界を覆っても、見えていないかのようだった。
 視界は狭く、足元に落ちて、どちらが前かもわからぬような足取りで、それでも不思議と迷いはなく、まっすぐに進んでいた。
 雨の中。聞こえそうもないピアノの音が、なぜだか耳に届いていて。
 それに従って歩くうち、一軒の店にたどり着いた。
 Bar4/7。看板の名前は、その時は目に入らなかった。
 バーの扉は、狭く重い。それは外の世界と店の中を隔てるためだ。
 知る人に言わせれば、バーとは〝Hideout〟なのだと言う。店の中に入った客を守るために、入り口は狭く作られている。そしてバーテンダーとは〝優しい止まり木〟を意味する。バーは、疲れた者を優しく休ませるためにある。
 だからきっと、そのピアノの音は、バーの厚い扉を通して、彼の耳に届いたのだろう。
 その優しい音は、扉の向こうから聞こえてくる。
 そう確信して、彼は重い扉を、寄りかかるように押し開いた。
 そこに─椿の花が咲いていた。
 聞いたこともないような、優しい旋律があった。春の太陽よりも柔らかい、暖かな明かりが満ちていた。
 白く細い指で鍵盤を叩く彼女の姿は、彼にはまるで天使に見えた。
 その日の夜、彼は、本当の意味で〝音楽〟に出会った。
 そのころは悠月椿と呼ばれた彼女と、西門直明という名の男。バーに突然現れた、まだ年若い青年に、二人は少し驚いて、それから優しく微笑んだ。
 中に入って扉を閉じた時、世界と隔たれた店の中には、泣きたくなるほど暖かな、空気と音が満ちていた。
 まだ十七歳の神林匋平の、人生が変わりゆく夜だった。

 十九歳になった神林は、バーの扉の重さが好きだった。
 まだ暑さの残った外の空気から、快適な空調の室内へと飛びこめば、目当ての人物はすぐに見つかった。
「西門。時間いいか」
「ここに勤めてそこそこ経つけれど、そんなに堂々とバーに来る未成年は、お前くらいだよ。匋平」
 笑いながら神林を迎えた西門は、バーカウンターの一番奥の席を顎で指す。それから、ライムジュースとグレナデン・シロップ、それにシュガー・シロップを少々シェイクして、丸氷を入れたゴブレットグラスへ。最後にソーダを注いで満たす。
「サマーディライトでございます」
「かっこつけてるけどジュースじゃねえか」
「酒を出すわけがないだろう?」
「ライムのスライスくらい飾れってんだよ。つーか勝手に作るし」
 頰杖をついた神林は、少し不貞腐れた顔でグラスをつまむと、その赤いノンアルコールカクテルで唇を濡らした。酔いはしないが、さっぱりとした味わいは心地いい。
 喉がある程度潤うと、神林は饒舌に喋りだした。
「金曜のイベントは手ごたえがあったな。良い気分だった」
「ああ。やっぱり私たちにチル系の音楽性は合っていたと思うよ。私も気持ちよくリリックが書けたしね。匋平も、また表現が一皮剝けたんじゃないか」
「まあな。あのトラックは間違いなく最高傑作だ」
 会話の合間に、神林が上機嫌にグラスを傾ける。しかし、グラスを持つのが様になるものだ。バーで働くのも似合うだろうな、と西門は目を細めた。
「ピアノの伴奏にフィンガースナップのビート、あれは想像以上によくハマった。屋根から落ちる雨垂れのイメージ……」
「いちいち褒め方が理屈っぽいんだよ。まあ、言語学なんてのを学んでると、そうなるのかもな……院のほうは大丈夫か? けっこう忙しそうなイメージあるけどよ」
「暇と言えば噓になるけどね。XXXXとしての活動に割く時間は十分にある。むしろ、リリックを作る助けになっているくらいだ」
「……確かに、最近のお前の詞は特にノってる」
「相棒に太鼓判をもらうと安心するよ」
「それに加えて、あのトラックだ。正直、どこの誰にも負ける気がしねえ。……知ってるか? こないだのイベント、海外の注目度も高いらしいぜ。このまま行けば海の向こうでも─」
「武雷管みたいに一気に知名度が上がる、かい?」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「そりゃあ、ある水準以上のチャンスを摑むには、運が必要になってくるのは確かだ」
「そういう前置き、どうにかならねぇのか? 目はギラついてんじゃねえか」
「弱気に聞こえたかな」
「実力なら足りてるつもりだ、って言えよ。まどろっこしいんだ、お前の言葉は」
「匋平には伝わるからね」
「ふん。俺はお前ほど謙虚じゃねえ」
 また、グラスに口を付ける。甘ったるい信頼の言葉から逃げるように、ライムの酸味で舌を満たす。
「もう少し素直な言葉使えよ。すました顔で、燃えてるくせに」
「高温の炎は、静かに灯るものだよ」
「行くつもりなんだろ、武雷管を超えるとこまで」
「当然」
「そう妙に謙虚な言葉を付け足すのは気に食わねえ。俺の音とお前の言葉があれば、手が届く夢だ。運とやらも捻じ伏せられる」
「ずいぶん、あのトラックが気に入ったみたいだな。最初はもっと攻撃的なラップを好んでいたはずなのに」
「当たり前だ。良いものは良い。チル系だろうがなんだろうがな。サンプリングも上手く行ったが、何より椿さんのピアノが─」
「あら、なあに? 私の噂話?」
 低く響く二人の男の会話に交じった、高く細い声に、神林は思わず顔を上げた。
「─やあ、椿」
 西門が、女性の名前を呼ぶ。
 低く優しい西門の声に、もう一つ、愛しさを込めた響きが宿る。
 西門の声と神林の視線の先。二人にとって、特別な人がそこにいた。
「……つ、椿さん!」
 西門に遅れて、神林の唇は、どこかぎこちなく、その名の形をなぞった。
 悠月椿─そのころは西門椿と名乗る女性を、一言で表すのは難しい。
 だが一文字を選ぶならば〝凜〟だろう、というのは西門の談だ。
 ビロードのような髪も、雪のような肌も美しい。
 けれど、彼女の魅力というのはそういう見た目の話ではなくて、手を少し伸ばしたり、脚を一歩踏み出すような、そういう所作一つ一つの洗練された美しさ─澄んだ美しさだと、神林は思う。
 背筋に一本、しなやかな芯が通ったような人で、それは内面の強さの表れでもある。だから彼女を指す時、神林は美人よりも、綺麗な人だと言いたくなる。
 そんな彼女が、西門と神林の姿を見ると……それこそ椿が咲くように、喜色鮮やかな笑みを浮かべるのだ。
「こんばんは、匋平くん。少し久しぶりね」
「ああ……驚いた。今日は店に出てたんだな」
「うん。しばらくは自分の楽曲づくりに専念してたから、顔を合わせる機会なかったものね」
「ということは、納得のいくものができたとか?」
「まだなんだけど……いい加減、研究に根を詰めすぎだって直明さんに𠮟られてね。このバーにもご無沙汰していたし、気分転換を兼ねて」
「没頭している時の椿は、ベッドで寝る間も惜しむからね。書きかけの楽譜を枕にして、五線譜のインクが頰に写った顔を何度も見ていちゃあ、苦言も言うさ」
「もー、直明さん! ……そこまではバラさなくていいでしょう」
 椿は眉を八の字にして笑いながら、𠮟られたという相手─肩をすくめる西門─を見つめて、滑らかな髪を、指先で静かに払った。
 そんな所作の一つも、バーの明かりの下で見ると、不思議な艶があって、目を惹くものだ。だから神林は、ピアノを弾くために作られたような、細く長い薬指。その根元に収まる白銀の指輪を、つい見つめてしまった。
 そうすると不意に、グラスを磨く西門の指先に意識が向いた。同じデザインの、白銀の指輪。
「それで、私の話だったの?」
「ああ─」
 椿が話の続きを始めて、何が悪いわけでもないのだが、神林はまるで悪戯が見つかった子供の様にこめかみを搔いて、答えた。
「─その、椿さんのおかげで、良いトラックができたなって話を……」
「ふふ、ありがとう。送ってもらったデータ聴かせてもらったけど、ジャズのスイングにも似た変拍子、本当に素敵だった。やっぱり匋平くんには、天性の音感があると思った」
「……でもサンプリングソフト弄ったのは西門なんだよなぁ~……」
「機械を使ったのは私でも、確かに匋平の曲だよ」
 謙遜する神林に先回りするように、西門が続ける。
「マニュアル通りに機械は弄れるが、私にはあの音源をHIPHOPのビートへアレンジするセンスはないからね。やはり椿の音への理解は、匋平のほうが上かもしれない」
「あ~、やめてくれやめてくれ。どんだけ褒められても、ソフトに打ちこんでもらったんじゃあ、子供の宿題みたいで格好がつかねえよ……クソ、覚えねえとなぁ」
 西門のフォローに、神林はバツが悪そうに頰を搔いた。照れているのは確かだが、まんざらでもないのは表情ですぐにわかった。
 まあ、機械に弱いという神林の短所は、このころは特に酷かった。
 厳密には、機械と言うよりデジタルに弱いのだ。ピアノの調律は繊細にやってのけるのに、デジタル腕時計の時刻合わせすら丸一日できなかったのだから、相当なものだ。それでいて、今時マニア好みの手巻き時計なんかは上手にメンテする。─匋平くんは、感覚が物質的なんだよね─とは、椿の評だ。椿に言わせれば、それは音を空間的にとらえる才能でもあるという。
 その才能は、西門もわかっている。わざわざ打ちこみを任せたことを言う必要も無かったはずだし、先ほどまでは神林も機嫌よく自画自賛していた。ひねくれたことを言うのは椿の前だからだと……西門は、そこも理解している。
 今度、もっとアンティークなサンプラーでも探してこようか、西門はそう考える。
「それはもちろん、匋平もパソコンが使えれば、もっとできることが広がるんだろうけど……それを補って余りある物がある。なんでも一人でできる必要はないさ。そう思わせてくれたから、私は匋平とXXXXを組んだんだ」
「べた褒めだねぇ、直明さん。でも私もそう思うよ」
「信頼してるんだよ。匋平は私の〝夜叉〟だからね」
「ちっ。そう言われちゃ……何も言えねえじゃねえか」
 拗ねたように口を尖らせる神林を、微笑ましげに見つめる二人。その視線から逃げるように、神林はグラスを一気に呷った。
 MC夜叉と、MC修羅。二人の伝説的幻影ラッパー、武雷管。
 西門にとっての〝MC夜叉〟。それが神林の、ラッパーとしての在り方だ。
 かつて武雷管のライブを見に行って、衝撃を受けたあの日。
 武雷管への憧れを口にする西門に、一緒にラップをやってやる、と神林が持ち掛けたのが、XXXXの始まり。
 ─夜叉の圧倒的な才能、これを支えているのが修羅の知性と理論なんだよ。この二人だからこそ、武雷管の音楽、あの圧倒的なパフォーマンスは生まれるんだ。
 ─だったら、俺があんたの〝夜叉〟になってやるよ。だから西門、俺と組め。俺があんたを〝修羅〟にしてやるよ。
 あの日、二人の〝憧れ〟が〝目標〟へと変わった。
 そしてまた、椿もそこで音楽の理想形を見つけた。
 ─武雷管の音楽は特別。〝ヒトとヒトをつなげる音楽〟。自分の境界がなくなって、心が、魂が見えないどこかで確かに繫がる。なんて素敵なことなんだろう。
 それ以来、椿もまた、〝ヒトとヒトをつなげる音楽〟について模索し続けている。
 全ては武雷管から始まった。
 その日の感動が夢へと変わり、目標になり、この瞬間に続いている。
 だから……西門が〝私の夜叉〟と呼んでくれることを、神林は誇りに思う。
 それ以上、謙遜などできないのだ。だから代わりに、空になったグラスを差し出した。
「西門、おかわり」
「私も同じの貰おうかな」
「椿さんも? ミックスジュースだぜ、これ」
「いいの。直明さんの作るミックスジュース好きだから」
「ノンアルコールカクテルと言ってほしいなぁ……」
 カウンターにかける二人を見て、笑いながらフルーツナイフを用意する西門。顔を上げた神林が、その様子を指さす。
「はぁ? おま、ざっけんな……椿さん、こいつ俺だけの時はライム切らなかったんだぜ。こんな顔してゲンキンだよな、眼鏡のくせに」
「匋平が二杯目を頼むのは知ってたからだよ」
「噓つけ。なあ椿さん、こいつぜってー椿さん用だからってサービスしてんだぜ。眼鏡のくせによ、まだ新婚だからってやることがスケベなんだよ」
「新婚はともかく眼鏡は関係ないだろう、眼鏡は」
「あはははっ」
 二人のやりとりを見て、さも可笑しそうに椿が笑う。凜と整った椿の顔が、こういう時は幼く見える。それから、その目が穏やかに細められて、神林に向けられる。その視線に少しどきりとして、神林は頰が熱くなるのを感じた。
「直明さんも面白いけどさ……ほんと、匋平くんは良い顔するようになったね」
「は……なんだよ、急に」
「久々にバーに来たからかなぁ。匋平くんに初めて会った時のこと、思い出しちゃって。あのころの匋平くんは……もっと、何も近寄らせたくない、って感じでさ。世界中を恐れているみたいに、刺々しい声と冷たい目。調律しないまま叩いた鍵盤の音みたいに、ギザギザしてたけど─」
 思い出に浸る椿の前に、ゴブレットグラスが置かれた。鮮やかな赤い液体に、緑のライムの切れ端が飾られていた。
「─今はとても柔らかい響きが伝わってくる。なんだろう……クラシックで言えば、トロイメライかな。そんな感じ」
「……椿さんのそういう喩え方、相変わらず分かりづれぇけど……擽ってぇこと言われてんのだけはわかるわ」
「椿の共感覚的な表現を意訳するのは、いつも苦労するよ。そのために言語学を専攻したようなものだね」
「二人ともなんか酷いこと言ってない?」
 からかわれる対象が、神林から自分に代わってしまって、今度は椿が「むぅ」と口を尖らせた。「綺麗だな」と「可愛い人だ」という感想が、同時に神林の頭に浮かぶ。
 ふと、思考を始めた頭が、勝手に昔のことを思い出す。
 家庭の不和。預けられた施設の人々の冷ややかな目。大人というものを信じられず、野良犬のように生きていたころ。しまいにはヤクザにまでなって、それでもなお、満足できる何かを得られない……そんな生活を送っていた過去。
 毎日、毎日、どこか、隙間風が胸を吹き抜けて行くような日々─そして、その日々の果てに出会った、優しいピアノの音色。
 かつての神林の痛々しさを、神林自身が一番自覚している。
 だからこそ、あの夜自分を導いてくれたピアノの音が、椿が、西門が、どれほど自分を助けてくれたかも、よく分かっている。
「とにかくさ。二人が一緒に音楽してること、嬉しいんだ、私」
 仕切り直すように、椿がグラスを口元に寄せる。赤い夏色のカクテルを舌に滑らせ、喉に抜けていく爽やかさを感じていく。それからしみじみと、嚙みしめるように呟く。
「やっぱり音楽は、ヒトとヒトをつなぐんだ、って」
 その言葉は、椿の夢だ。
「たぶん直明さんと匋平くんが、一番証明してくれている。武雷管のライブを見に行ったあの日以来、色々考えてきたけれど……私、結局はそう思ったんだ」
「そうだね。匋平は、遠くから眺めるしかないと思っていた武雷管という存在を、目標に変えて、繫いでくれたんだ。……感謝してもしきれないよ」
「……最初にそれを証明したのは、あのピアノなんだけどな」
「えっ?」
「なんでもねえよ」
 それきり、神林も照れ隠しのようなことは言わなかった。ただ口にあてたグラス越しに、カウンターを挟んで笑いあう二人の姿を見つめていた。
 椿という女性に対し、神林が抱いていた感情は、穏やかな親愛ばかりではない。
 椿は神林にとって、雨夜の雲間から射した月明かりだった。
 価値がないと思っていた自分を認めてくれた。ピアノを弾かせてくれた。「その才能は特別だ」と、言ってくれた。青年が大人になっていくにつれて、その感情を恋と自覚するには十分な時間が過ぎて─その恋が叶わないことを悟るのにも、また十分すぎる時間があった。
 けれど、それでも良かった。
 椿が導いてくれた道で、西門が手を取ってくれた。
 あの日、ピアノが聞こえなかったら。あの日、声をかけてくれなかったら。あの日、武雷管のライブに連れて行ってくれなかったら……。
「修羅と夜叉を目指すだけじゃない。武雷管、超えるんでしょ」
「おう」
「勿論だ」
 微笑む椿に、西門と頷く。
 二人がいたから、神林は今ここで、音楽という道を歩いて行ける。椿も西門も、神林にとっては、あてのない夜道を照らしてくれた、優しい明かりだ。感謝なんて二文字では、とても足りるものではない。
 椿の笑顔が見たい。けれど西門の笑顔も、神林は守りたい。
 だから……笑いあう二人を眺めている時間が、何よりも嬉しい。
 胸に痛みを抱えても、悲しい瞳を浮かべても、彼らのために祝福の拍手を贈れるなら……それは彼らに人生を救われた、神林匋平の誇りだ。
 そんな神林の胸中を、西門も薄々は気づいていた。だからこそ、気を遣うような真似は無粋だと思っていた。
 ただ椿の笑顔を護り、三人でこうして語らう時間、彼女が幸せであると示すこと。椿との結婚が間違いでなかったと、証明し続けること。それが西門にとって、神林の誇りへ報いることだった。
 彼らは、愛しい一輪の椿を挟んで……そんな時間が、優しい連弾の音に包まれるような暖かな夜が、どうか永遠に続けばいいと、静かに願っていた。
 きっとそれが、彼らにとって、もっとも幸せなころだった。
 言葉なく響き合う、不器用な男たちのセッションが、穏やかな日々を奏でていた。

 きっかけは、それから数日後のことだった。
 その日は、珍しい来客があったことをよく覚えている。
「……オヤジ? なんでまたここに」
「おう。たまには洒落た酒でも飲もうかと思ってな」
 その日、Bar4/7に訪れたのは、和装に身を包んだ中年の男。
 西門は「珍しい装いだな」程度に思っていたが、カウンターにかけていた神林の反応を見て、それがかつて神林が身を置いていた組の長、翠石であることをすぐに察した。
 翠石は神林の隣にかけると、ウォッカ・マティーニを一杯注文した。「ステアでなくシェイクでな」と付け加えると、それが有名な映画のレシピであることを知っていた西門は、笑いながら頷いた。
 オリーブではなくレモンピールの飾られたグラスが出てくると、翠石は上機嫌そうにグラスを神林の方へよせて乾杯し、その音をきっかけにして、神林から話し始めた。
「オヤジ、ご無沙汰してます」
「いやぁ、そんな久々でもない気がするけどな。依織のヤツがお前のこと心配で心配でしゃーないらしくてなぁ。顔でも見て報告したろかと思って」
「は? ……あいつ、別れ際には飄々としてた気がしますけど」
「ま、依織もまだ青いからな。ああ見えて割と気にしとるんよ。同期の桜やしな」
 翠石の言葉を聞きながら、神林の脳裏には組での記憶が巡っていた。
 施設に居場所はなく、野良犬のような生き方しかできなかったころ。チンピラ紛いの生活をしているうち、翠石組に拾われた。
 その当初から、よく絡んできたのが依織だった。
 二人して競うようにガムシャラに働いたこと。些細なことから始まった殴り合いのケンカで、まとめてオヤジに絞られたこと。花見の席で二人でやった芸がスベりすぎて逆に笑われたこと。
 そしてXXXXの活動に注力するため、組を抜けるか悩んでいた時。「どうせやるなら本気でやれ」と、覚悟を後押ししてくれた、あの日の背中。
 たぶん、友達と言っていい間柄だった。思い出が、ずいぶんと鮮やかに巡る。
「……オヤジ、今日は一人すか? ……組の連中は?」
「ツレは他所の店で遊んで貰っとる。大勢で押しかけるとこちゃうやろ、ここ」
 翠石は笑顔で、きゅっ、とグラスを傾ける。
 レシピ通りに作られたカクテルは、作られたその瞬間から劣化を始める。最も美味い瞬間を楽しむなら、手早く味わうのが正しいことを知っている所作。こういう客相手だと、西門も気分がいい。
「ゆうて、しょーじき依織のことは建前や。自分がお前の顔見たくなったっちゅーのが本音よ」
「そんな……あんな不義理を押し付けた俺なんかを、いつまでも気にかけなくても」
「っかー! 根っこの卑屈なとこは変わっとらんな。男が道を定めて堅気に戻ることを不義理ってのはちゃうやろ。今日はなぁ……お前のラップが良かったっちゅー話もしに来たんやぞ」
「えっ、聴いたんすか? 俺の……俺たちのラップを?」
「おー、こないだのなんちゃらフェスってのは大きい祭りやったろ。権田とか飯島もええ曲や言うとった。竹中なんぞサングラス外して泣いとったで。故郷に置いてきた息子のこと思い出したとか言うて」
「はぁ? なんっ……なんすか、組の皆で聴いてたんすか? ……恥ずっ……」
「アホ! 恥ずかしいことあるかい!」
 翠石が、ぱしんっ、と膝を打つ。
「男が自分の〝これぞ〟と思った生き方で、立派に結果出したんや。胸を張らんかい、胸を! 実に立派な舞台やった。満員御礼っちゅーのはアレのことやな。千客万来のまねき猫をやった甲斐があったわ」
「それは……ありがとうございます、マジで」
 もちろん神林とて、嬉しいに決まっている。
 だが「HIPHOPで生きていきたい」なんて勝手を言って、組を抜けてしまった負い目が、神林には残っていたのだ。
 それが、わざわざ事務所に集まって、大勢でライブを見て褒めてくれたというのは、嬉しくも有難くもあり……何よりどうにも、保護者参観のようで気恥ずかしいのである。
 そんな神林の様子を分かっていて、翠石もまた声を穏やかにした。
「……正直心配な気持ちもあった。でもな、〝あの音〟を聴いたら安心せざるを得んわ。あの日お前が言うた〝俺の音を信じてくれた男のためにも、本気になりたい〟って言葉……今になってようやく実感がある。ええ相方持ったな、匋平」
 ふいに視線を感じて、神林が顔を上げた。
 カウンターの西門が、ニコニコと笑っていた。
「なんだテメー」
「いや、私も嬉しいなと思ってね」
 完全に確信犯だ。二人の様子を見てカラカラと笑った翠石は、マティーニグラスを空にすると、ゆっくりと席を立つ。
「ま、そういうわけでな。お前の顔も見たかったけど、そっちのあんちゃんの顔も見てみたかったっちゅーこっちゃ。二人ともええ顔しとるし、酒も美味かった」
「あ、オヤジ……もう行くんすか」
「おう、満足したからな。次は現場で生音聴きに行くさかい、皆で行けるようデカいハコ取れや」
「……ウッス」
 神林がそそくさと立ち、出口の扉を開く。〝ええってええって〟と手を振りながら、翠石は上機嫌で夜の街へと歩いて行った。
 その背中を、目を細めて見送る神林へ、西門が声をかける。
「初めて会ったが、良い人だね」
「ヤクザやってんのが噓みてぇだろ。でも怒ると怖ぇぞ、マジで」
「説得力あるなあ。そんなに怒られてたのかい?」
「うっせぇ」
「ははっ……でも、私もあの人に聴いてもらいたくなった。大きなイベントに出ないといけないね」
 新たな道へ進むことを案じ、その成功を祝福してくれる人がいる。幸せなことだ。
 西門は改めて、神林と共に音楽を始めたこと。彼とHIPHOPという道を歩いていこうと決めたことを、正しかったと実感していた。
「つーかよ、西門。オヤジが来て忘れそうだったが、今日は次の曲について打ち合わせに来たんだぜ。客足も途切れたし、そろそろ良いか」
「ああ。……結局、3番のトラックをブラッシュアップしていきたいんだろう?」
「だな。挑戦になるとは思う。けどその分、ハマればすげえもんができる、って手ごたえがある……1番か2番をベースに作っていくのが、今までのXXXXらしいのは確かだ。だが、一つ一つ壁を越えなけりゃ─」
「─武雷管に、世界には届かない、か」
「笑うか?」
「まさか。なるんだろう? 次の時代の、修羅と夜叉に」
「へっ、そうこなくっちゃな」
 にや、と笑いながら、神林はポケットからいくつかのメモを取り出した。そこにはトラックに関するいくつかのアイデアや、神林が表現したいイメージが書かれていて、西門がその感覚的な閃きを言語化することによって、XXXXの曲作りは進んでいく。
 だが、その相談はそこで途切れた。
「ああ、でもすまないけど……少し後にしよう。裏のフルーツパーラーに用があるんだ」
「あの深夜営業の店か」
「そう。品質のいいレモンの仕入れができなくてね、少し回してもらったんだよ。店を閉めてからお礼を言いに行くつもりだったんだ」
「構わねえよ。義理は大事だ……ってオヤジも言ってたからな」
「ありがとう。これでも飲んで待っていてくれ」
 そう言って、神林の前に置かれたのは、黒褐色の炭酸を注いだロンググラス。微かにライムが香るものの、アルコールはない。
「コークじゃねえか!」
「お酒は二十歳になってから」
 そう言って、西門は上着を羽織って店を出ていった。「いくらノンアルコールと言っても、さすがにガキ臭い」と、神林は一人ごちながらグラスを傾ける。
 口に含んでみると、なるほど、アルコールはないがきちんとカクテルだ。コーク本来の甘さとは違うものが混じっている気がする。
「……なんだっけな。ノンアルコールアレンジだからカクテル名を当てても仕方ねえんだろうけど、〝キューバ・リブレ〟だったか」
「〝ラムコーク〟でしょ」
 ひょっこりと、店の奥から椿が顔を出して、神林は思わずむせそうになった。
「っつ、椿さん。いたのか」
「うん、今日も一曲弾いたんだけど、少し体ダルくてね。なんだか、匋平くんのお客さんも来てたみたいだし、二階の部屋で大人しくしてた」
「体ダルいって……また根詰めてんのか? 西門のやつも心配してたし、ちゃんと寝ないとダメだろ」
「ちょっとね」
 そう、椿は困ったような笑顔で返した。
 思えばその時点で、微かな違和感はあった。
「それより……匋平くんのそのカクテル。たぶんノンアルコール・ラムコークのつもりじゃないかな、って思うの」
「ああ、ラムコークってか? 確かに甘さはそういう感じだけど、ノンアルコールカクテルでのアレンジなんて聞いたことねえよ。だいたいラム酒を使ってねえのにラムコークってのもな。どうしてそう思う?」
「匋平くん、ラムコークのカクテル言葉って知ってる?」
「……ああ」
 カクテル言葉。花言葉のように、カクテルにもそういう物がある……椿に教わったのを思い出す。
 ラムコークのカクテル言葉は〝貪欲にいこう〟だ。
「ちっ……だから、遠回しなんだよあいつ」
「内心、ギラギラしてるくせにね」
 くす、と笑いながら、椿もカウンターにかける。
 隣り合う形になって、神林は少し緊張を覚えた。
 西門はそう遠くへは行っていないはずだが、まだ戻りそうにない。
 一瞬、胸の奥にちくりと痛みが走る。妙な考えが浮かぶ前に、自分が自分を咎めようとする痛みだと、神林はわかっていた。
 そんな神林の胸中を知ってか知らずか、椿は西門の話を続けた。
「だから良かったと思うよ、匋平くんがいてくれて。私じゃ、あの人に大きな夢は抱かせられなかったんじゃないかな」
「いや、もとはと言えば、椿さんのおかげだろ」
「私の?」
「ああ。椿さんが俺の音を〝特別だ〟って言ってくれた。才能があるって認めてくれたから、俺は自信をもって西門に向き合えたんだ……それに……」
 その続きを言う事に、微かな躊躇いがあった。
 けれど神林はもう、今しかないと思った。
「俺、言ったよな。武雷管のライブを見た時……〝生まれて初めて、音楽を聴いて幸せになった〟って。あれ、少し間違いだ。昔の俺は、幸せってものの形が分からなくて、言葉にできなかったけど本当は……」
「……本当は?」
「……最初は、椿さんだよ! あの日、椿さんのピアノが……雨の夜に聴いたあのピアノが、俺を救ってくれたんだ」
 顔を見ては、言えなかった。
 神林は、前髪で表情を隠すようにうつむいて、絞り出すようにそう口にした。ただピアノへの感動を、感謝を伝えるだけで、心臓がクラブのスピーカーのように煩くて、血潮は焼けたように体中を巡っていた。
 それは神林にとって、自分を許せるギリギリの形の─告白だったから。
 椿は少しの間、夜の猫のような瞳をぱちぱちと瞬かせ、それから穏やかに瞼を伏せて、笑いながら問うた。
「匋平くんは、もうピアノは弾かないの?」
「えっ……」
 神林は、心臓を握りしめられたように感じた。
 そのころ、ピアノには、もうずいぶん触っていなかった。
 最後にピアノを弾いたのは、西門と椿の結婚式……二人を祝福するために、一曲を贈った。それ以来、神林はピアノと距離を置いていた。
 それを神林は、青い恋心との決別だと思っていたから。
「匋平くんのピアノ、とても素敵だった。ああ、彼には私にはない才能があるんだなって、そう感じたもの。ピアニストにだってなれたと思う」
「……ありがとう。でも、今は西門とやるHIPHOPが、俺の音楽だからよ」
「それは素敵なこと。でもね……だからって、捨てなくていいものもあるんだよ。君のピアノは、君の音だから」
 そう言って、椿は店の隅に置かれた、古いグランドピアノを見つめた。
 椿が休みがちな間にも、万全に調律してあったピアノ。誰がやっていたのか、椿には分かっている。
「最新機器が弄れなくても、音楽は作れる。楽器は便利だよ。手書きの楽譜でも、直録りの音でも、私の音源を使わなくても……音楽はもっと身近で、鼻歌のように気楽なの。ピアノは、きっと匋平くんと、直明さんを助けてくれる」
 椿は席を立つと、客席の椅子を一つ引っ張って、ピアノの前に置いた。
「どんな形でも……音楽は、ヒトとヒトをつなぐと思うから。だから匋平くん、直明さんのこと、よろしくね」
「よろしくね、って─」
 そして、椅子が二つならんだうちの片方へ腰かけると、椿は神林へと手招きする。
 少し戸惑ってから、神林は椿の隣に腰を下ろした。
 蓋を開くと、椿の白い指が、鍵盤の上を踊った。
 知っているでしょう? と囁くように、椿は優しくピアノを弾く。神林が初めて椿と出会った日、バーに響いていた、あの曲。
 少し間があって、恐る恐る神林は鍵盤に手を伸ばし、連弾を始めた。
 優しいピアノの旋律が、静かなバーの中に満ちていく。同じリズムで叩かれる鍵盤が、和音を奏でて溶けていく。
 不思議な感覚だった。言葉を交わすより、肌に触れるより、深く深く通じているようだった。同じ空気の震えの中で、同じ感動を分かち合っていた。
 境界が曖昧になって、繫がっていく。心が裸になって、魂が溶けあっていく。
 西門と二人、XXXXを結成したあの日。武雷管のライブで感じたあの感覚。それに等しいものが─それより愛しいものが、そこにある。
 音楽は、ヒトとヒトをつなぐ。
 椿の理想。椿の夢。その実感がここにある。
 鍵盤をたどる運指のテンポで、椿の感情を感じる。受け取ったその旋律を、鍵盤越しに返す。椿の音を継ぐように、ひとつひとつの旋律を紐解いて、神林自身の音にしていく。簡単なことだったんだ。こんなに近くで、お互いを感じる。
 やがて、椿の演奏がフェードアウトした。実際のところ、楽譜通りに弾いたその曲は、そこで終わるはずだった。
 けれど神林は、自然と〝その続き〟を弾いていた。
 そこから先は、神林だけの演奏だった。椿からバトンを受け取ったかのように、その先を続けるようなメロディを奏でていた。
 その旋律を聴きながら、椿は満足そうに笑った。
「……─やっぱり、君の音は、素敵だね」
 椿の呟きに、返事はなかった。
 それくらい、神林は音に浸っていた。
 メロディが次々に溢れていく。奏でる中で色づいて、新しい音が無限に生まれていく。
 いつまでも、いつまでも。
 終わることなく弾き続けられる気がした。
 その曲が永遠に続いていく気がした。
 そしてその旋律が、最高潮の響きを─

「─え?」

 神林が、呆けたような声を出すまで、静寂が支配していた。
 突然の不協和音で、その曲は終わった。鍵盤をいっぺんに、出鱈目に叩きつけたような不快な音が、演奏を打ち切ってしまった。
 何が起こったのか、理解に時間がかかった。
 見えているものの意味を考えようと、頭が切り替わらなかった。
 椿が─……鍵盤を塞ぐように、倒れていた。
 何も頭に入らなかった。静かな店の風景も、糸が切れたような椿の体も。扉が開いたことにも気づかなくて、いつの間にか帰ってきた西門が、椿に駆けよってくるのがスローモーションで見えていた。椿の名前を呼ぶ声が、くぐもって聞こえていた。
 急に、悪い夢に迷いこんだのかと思った。
 だったら早く、覚めてくれと思った。
 けれどそれは、むしろ現実の幕開け。夢の終わりの、始まりだった。

 ─治験に参加していたんだね。
「…………うん、ごめんね。直明さん……匋平くんにも、迷惑かけちゃった……」
 迷惑なんてことはない。ないんだよ。
 でも、どうして─ファントメタルの治験なんて。
 君がファントメタルを使っていただなんて、私は、気づかなくて……。
「……ゆめ、見られると思ったんだ……」
 ─夢?
「…………ファントメタル。幻影ライブ……可能性、ある……って……ヒトとヒト……音楽で、つなぐ……溶け合って……」
 椿の夢は、素晴らしいよ。
 でも、今は休もう。大丈夫。君の夢はまたゆっくり追えばいい。
「……直明さん……ごめんね……ごめん……」
 いいんだ。謝らなくていいんだ、椿。もう喋らないで。
 体を休めれば、元通りだ。また一緒に音楽の話ができる。
 ……できるんだろう? 落ち着いて治療しよう。退院したら、旅行に行こう。空気の良い山のコテージか何かを借りて、自然の音に浸るんだ。ピアノのあるところがいい。木の葉のたてるパーカッションで、リズムを刻もう。夜は私がカクテルを作るよ。月を見ながら乾杯しよう。それと、それと─……。
 少し眠れば、きっと、全部元通りになるから。
「……ごめん……ね……」
 謝るな! 大丈夫に決まってる!
 メタルの侵食? 末期症状? 噓だ。そんなの聞いたことがない! 何かの間違いに決まっているんだ! 椿が、椿が─……。
 ……─助からないなんて、噓に決まっている。
「……」
 そうだ、椿。匋平がね、凄い曲を作りそうなんだよ。まだ洗練されていないけれど、きっとあれがトラックとして完成すれば……海外でも通用する。間違いなく、世界を摑める、そういうものだ。なあ椿、匋平は約束通り、私の〝夜叉〟になってくれたよ。
 ついに来たんだ、憧れだったものに、手が届くところまで。一緒に行こう! 君に見せるよ、私と匋平の夢が繫がった場所を……。
「…………よう、へい……くん……」
 そうだ、匋平だ! 私たちに夢を見せてくれた匋平だよ! 彼も君を心配している!
 だから……見てくれ、椿。……笑ってくれ、椿。私たちはとうとう、次の〝夜叉〟と〝修羅〟に……武雷管に、追いついて─、
「……………」
 椿……?
「……………………………だれだっけ」

 雲のない、よく晴れた日だった。
 病院の傍には川が流れていて、川を横切る橋の上には、湿った風が吹いていた。
 欄干に寄りかかって、神林は水の流れを眺めていた。
 椿が倒れてから、一週間が経っていた。
 最初は驚いたが、西門と神林が運んだ時には単なる貧血だと説明された。けれど、疲労の蓄積が目立つから、入院して療養させるとのことで、椿がかかっていたのはアルタートリガー社の出資している大きな病院なのだから、それは正しい処置なのだと思った。
 それにしても、一週間というのは長引いている。神林の胸中にも不安が湧いていた。
 だが、弱気はいけない。最初のうちは、神林も足しげく見舞いに行った。
 しかし椿に「通い過ぎ」と𠮟られた。「人の心配ばかりしてないで、やるべきことやりなさい」と、ベッドに寝かされた椿は、そう言った。
 椿が退院した時、しょぼくれた顔をしていては、きっとまた𠮟られる。
 だから今日は、病室へ行った西門を待っている。西門もずいぶん椿を心配していた。無理もない。彼らは夫婦なのだ。西門と椿の時間を邪魔するのも本意ではなかったし、それ以来、神林は見舞いには行っていなかった。
 せめて、帰ってきた西門を元気づけてやろう。
 そのための手段は、神林のポケットに収まっている。
「おう、西門」
 病院の方から歩いてきた西門に手を上げる。西門は、少し遅れて気づいたように、ゆっくり顔を上げた。
「─匋平。悪い、待たせたね」
「いや、いいよ。椿さんの様子はどうだった?」
「だいぶ無理をしていたから、体力は衰えているが……たぶん、近く、退院できるよ。気を遣ってくれて、ありがとう」
 希望のある返事だが、ずいぶんと曖昧な内容だな、と神林は思った。
「……西門、お前も疲れた顔してんな。心配なのは分かるけど、お前まで倒れんじゃねえぞ?」
「そうかい? 自分では分からないけどね……」
 無理からぬことだろう、と神林は思った。
 西門は、ずっと椿の傍にいた。それが過労で倒れたとあれば、自分を責める。西門はそういう男だ……。神林はその時点では、その程度に考えていた。
 だからせめて、元気づけてやろうと思ったのだ。
「なあ西門。お前に見せたいものがあるんだ。きっとお前の憂鬱を吹き飛ばしてくれる」
「……見せたいもの? どうした、急に改まって」
「すげぇぞ。なんだと思う?」
 少し勿体つけて、神林はポケットから、一通の封筒を取り出した。
 洒落た作りの封筒に、西門は見覚えがあった。西門のところにも、同じ封筒が届いていたからだ。だから驚いたのだが、神林はそれを勘違いした。
「海外からの招待状だ!」
 神林の声は、喜びに弾んでいた。
「武雷管が解散する前に出演した、アメリカのフェスがあっただろ? そこのオーガナイザーが俺たちの音楽を聴いたらしくて、ぜひ幻影ライブをやって欲しいって!」
「…………」
 西門は絶句した。
 まさか─夢への切符が、こんな時に届くなんて。
「……西門?」
 不思議そうな神林の声。西門のために〝夜叉〟になると言ってくれた相棒は、夢へのチケットをその手にして、西門へと手を伸ばしている。
 かつて「俺と組め」と告げてくれた、在りし日と同じように。
 でも、その手を取るには、あまりにも変わってしまった。
 全てが、決定的に変わってしまっていた。
 なぜ、今なんだ。なぜ、こんな時に叶ってしまうんだ。なぜ……今ここに、椿が居られないんだ。
 西門は呪った。その瞬間に訪れた全ての運命を、幸も不幸も全てを呪った。千載一遇のチャンスがもたらす筈の歓喜は、ひび割れた西門の心には、痛みにしかならなかった。
「おい、どうしたんだよ。いい話じゃねえか! これに出れば俺たちの名前も一気に広まる。そうすりゃ椿さんだって─」
「すまない」
 反射的に、声が出ていた。
 西門は自分の声を聞いて、自分で驚いた。考えるよりも早く、謝罪が口をついていた。
 そして、その一言が西門自身にも、全てを悟らせてしまった。
「今の私には、無理だ」
 その声が……西門自身の、心の折れる音だった。

 川のせせらぎだけが響いていた。
 橋の上で、神林は一人、じっと水の流れを眺めていた。西門が去ってから、どれほどの時間が経ったのか、もう覚えていなかった。
 いくつもの「なぜだ?」が頭を巡った。
 西門はどうしてしまったのか。もう、あの日の情熱はそこにないのか。或いは……椿の容体は、そこまで悪かったのか。どこで、何を間違えてしまったのか。
 いずれにせよ、現実はそこにあった。
 西門は去り、夢は終わった。
 湿った風が、空っぽの胸を通り抜けていく。
「…………」
 もう、そこにいる意味はない。
 けれど神林は、ただ、橋の下を見つめ続けていた。どこまでも流れていく川の流れ、その先を見つめ続けていた。
 川の流れは、いずれ海へ出て、遠い国へたどり着くのだろう。
 けれど、神林たちの夢は、もう……。
「……─なあ、どうしてだよ、相棒」
 思考とは関係なく、言葉が漏れた。
「俺たちの夢は、終わったのか。俺たちの音はもう、終わったのか」
 綴る。紡ぐ。言葉の羅列。
 いつの間にか、神林の耳に川のせせらぎは届かなくなった。
 代わりに……頭の中に、ピアノの音が響いていた。思い出の中でだけ、ずっと奏で続けられている、ピアノの音。椿がくれた、ピアノの音が、ずっとずっと響いていた。
「なあ、相棒。覚えてるか。どこへだって行けると思った、あの日のこと」
 ぽつり、ぽつり、言葉を漏らす。
 その言葉は、自然とリズムを刻む。神林の中に響くピアノをトラックにして、いつの間にかリズムに乗っていた。
「なあ、相棒。どうすればよかったんだ。俺たち、どこかで間違えたのか……?」
 韻を踏むわけでもない。
 激しく響くわけでもない。
 ただ、溢れ続ける心が言葉になったら、それが波紋のように響いていく。
 ポエトリー・リーディング。そう呼ばれるラップがある。
 音楽の中で、ただ詞を読み上げていく、静かなラップ。意識していなかったが、神林の独白は、そういうものになっていた。
「なあ、相棒。返事してくれ。雨も降らない静かな街が、今は……とても、寒い」
 神林はただ、向き合っていた。自分の中の悲しみに。自分の中に響くピアノの音に。
 それは単なる独り言だったかもしれない。自分を慰めるための弱音だったかもしれない。
 けれど、雄々しく歌い上げるだけがHIPHOPではない。
 悲しみもまた、ラップになる。
「─お兄さん、泣いてるの?」
「……っ」
 子供の声が聞こえて、神林は我に返った。
 いつの間にか、傍らに子供が立っていた。患者衣に身を包んだ少年だった。色の白い瘦せた体で、ぼさぼさの髪が伸び放題になっている。
 どこから来たのか。まさか、椿のいる病院から抜け出してきたのか。一瞬で様々な疑問が神林の頭を巡ったが、まず、神林は目元を拭った。
「……どうした坊主。お前、どっから来たんだ」
「遠くからだよ。ずっと遠くから」
 神林は、少年の靴がボロボロであることに気が付いた。
「遠くから。会いたい人に会いに来たんだ」
「友達でも捜してんのか?」
「ともだち?」
 少年は〝ともだち〟という単語を初めて聞いたかのように、おぼつかない発音で繰り返した。それだけで、神林はその子が何か、世間から隔絶されたような、特殊な事情を抱えていることを察した。
「ちがうよ。僕、お兄さんを捜してるの」
「お兄さんって、俺を?」
「ううん。そうじゃなくて……別のひと〝おせわのお兄さん〟を捜してるの。僕に優しくしてくれたお兄さん。同じ、しせつ? に居たんだけど、いなくなっちゃったから」
 施設という単語を聞いて、神林はおぼろげながら、少年の境遇を理解した。自分の過去にも重なったからだ。
 ロクでもない施設から、懐いていた〝おせわのお兄さん〟とやらが居なくなって、自分も脱走して捜しに来た……たぶん、そんなところだろうと解釈した。
「……そうか。お前、施設にいるのか。嫌だよな、あそこは」
「うん、みんな嫌なことするよ。でもおせわのお兄さんだけ、優しくしてくれた。いなくなっちゃって寂しかったから、おせわのお兄さんに会いに来たんだ」
「……だったらその〝おせわのお兄さん〟とやらを捜さないとだろ。俺に構ってる暇なんか、ないんじゃねえか」
 普段の神林なら、もう少し少年の事情に踏みこんだかもしれない。しかしその余裕が、その時の神林にはなかった。突き放すような言葉を選んだ神林は、自己嫌悪を感じてうつむいていた。
 けれど少年の言葉が、神林の顔を上げさせた。
「でも、歌が聴こえたから」
「歌?」
「うん。だって今、お兄さん歌ってたよね」
「…………俺が?」
「うん」
 少年に言われて、初めて気が付いた。
 自分の言葉が歌になっていたこと。ラップになっていたことに。
 そして、結局……こんな失意の底でも、西門がいなくなっても、自分はラップを捨てられないのだと、神林は気付かされた。
「それにね─」
 驚く神林に、少年は続けた。
「─ピアノも聴こえたの」
「……ピアノ、だって?」
「うん、昔、おせわのお兄さんが聴かせてくれたの。綺麗な音が出るやつ、あれピアノっていうんだよね。ふしぎなんだ。お兄さんが歌ってると……少しだけ、歌のむこうで、ピアノが聴こえたんだ」
「……」
「……お兄さん?」
「…………お兄さん、泣いてるの? どこか、痛い?」
「……ああ。……ああっ……! 胸が、少しな……」
 神林は、目頭の熱さを止められなかった。胸の奥から、一気に想いが溢れて、それがいくつもの涙となって、頰を伝っていた。
 気づかされた。
 音楽は、神林の中に響き続けている。ずっと、ずっと、響き続けている。
 たとえ西門が去っても、夢への道が途切れても、かつて響いた音は消えることなく、かつて抱いた夢も褪せることなく、ずっと神林の中にある。
「ねえ、大丈夫……?」
 心配そうに、少年が神林の方を見る。
 その次の瞬間─、
「─あっ、お兄さんだ!」
 そう言って、少年は神林の背後へと駆けだした。
 神林が、涙で滲んだ視線で少年を追うと……その先に、白衣を着た若い男の姿があった。
 男は驚いた顔で少年を見ると、震えた手で、少年をきつく抱きしめた。
 おそらくは、彼が〝おせわのお兄さん〟なのだろう。
 ……それは、奇跡に近い確率だったのではないか。
 とても世間のことなど知らなそうな少年が、患者衣のまま駆けずり回って、当てもなく人を捜して……たまたま、この橋の上で、捜していた〝お兄さん〟と出会えるものだろうか。
 偶然、神林がこの橋にいなかったら。偶然、神林が口ずさんだ歌が、少年を引き寄せなかったら。この奇跡は、きっと起きなかった。
 〝おせわのお兄さん〟は神林に気づくと、しばし考えた様子の後に、静かに頭を下げた。少年もまた、神林に手を振っていた。
「……坊主、これからどうするんだ」
「お迎えの人が来ると思うから……それまでは、おせわのお兄さんと一緒にいる」
 ……少年は、きっと施設に戻されるのだろう。
 少年の言葉と、〝おせわのお兄さん〟の表情を見て、神林はそう思った。
 この奇跡は、今しか続かない。線香花火のように儚いきらめきに違いない。
 それでもこの瞬間、少年の求めた縁は、少年の求めた形で、再び繫がれた。
 歌と、ピアノの奏でる音楽を、拠り所にして。
「……なんだよ。……やっぱり、椿さんの言った通りじゃねえか」
 涙で濡れる頰を持ち上げて、神林は笑う。
 そして、歩き出した。
 去り行く神林へと、少年は声を上げた。
「……ありがとう、ピアノのお兄さん! ……ピアノのお兄さんにも、また会えるかな」
 神林は、少年の声を背に受けながら歩く。
 そして、ゆるく手を振って返事をした。
「ああ、また会えるさ。俺がこれからも、ずっと音楽を続けていく限り」
 それは確信だった。
 答える神林の中に、もう迷いはなかった。
「音楽は……─ヒトとヒトを、つなぐんだからよ」

 病室には、ピアノの音が流れていた。
 西門が、何か欲しい物は無いかと尋ねると、椿は「音楽が聴きたい」と答えた。
 病室でプレーヤーを使って良いものかと聞けば、「個室ですから」と、医師が許可を出した。その対応が、せめてもの特別扱いのようで、西門を苦しめた。
 傾きだした陽に照らされた、二人きりの病室。ゆったりとしたピアノの音が、茜色に染まった壁に響いている。穏やかに横たわる椿の傍らに、うつむく西門の姿があった。
 四分の四拍子で、椿との時間が流れていく。
 一小節、一拍ずつ、椿との時間が過ぎていく。
 ピアノを弾くために生まれたような、白く長い指を持つその腕は、針で管に繫がれて、なんらかの気休めのような薬剤が、絶えず注入されていた。
「……後悔は、してないよ」
 人工呼吸器に覆われた唇で、椿はそう呟いた。先刻に比べれば、幾分か容体は落ち着いていて、回復の希望はあるのではないか、と思わせるように、はっきりと喋った。
 けれど、ところどころ変色した肌に繫がれた機材は、いかに騙し騙しその命を繫いでいるのかを、痛いほどに西門へ教えていた。何か、かなりの量の薬剤が投与された。そんな化学物質が椿の体を巡って、仮初の正気を保たせていた。
 時折、医師が訪れて、椿に繫いだ機材を弄り、何か熱心に数値をメモしていく。椿は助からないと告げたその口で「ご安静に」と言って去っていく。
 患者の命を慈しむのではなく「この際だから良いデータを取ろう」という態度が透けて見えて、そのたびに西門は、頭のどこかが狂いそうになる。
 けれど、それでも椿は、言うのだ。「後悔はしていない」と。
「ヒトとヒトを……つなぐ、音楽。メタルには、そういう力があった。私の研究協力は、たぶん…………役に立ったと思う……」
 椿の協力した研究の成果もあるのか、幻影ライブの質は年々向上している。この病院で取られたデータも、将来はメタルの侵食抑制技術に活かされるらしい。
 それは間違いなく、幻影ライブを、ヒトとヒトをつなぐ音楽を、さらに未来へと進めていくことだろう。
 だからって─、それが、なんだというのか。
 ピアノの音が耳に障る。穏やかなメロディが神経を逆撫でる。
 椿があれほど愛した音楽は、椿の命を救ってはくれない。椿がこれほど身を捧げた研究成果は、椿の命を救ってはくれない。
「……悲しいのはね。……思い出が、少しずつこぼれていくこと」
 西門は、返事ができなかった。
 口を開いたら、泣きだしてしまいそうだったから。けれど、椿の言葉がどこへ向かおうとしているのかは、理解していた。
「……出会った時のこととか、初めてのデートとか……結婚式のこととか、ちょっとずつ、ちょっとずつ、滲むみたいにこぼれていく。…………ピアノを弾いてくれた、あの子のことも、名前も思い出せなくて……」
 こんな姿を、神林に見せるわけにはいかない。彼との夢を、一方的に終わらせたのは西門だ。最後まで、自分が終わらせなければならない。西門はそう思っていた。
「だから……ごめんね、わがまま言って…………」
「良いよ、椿。分かってる」
 口を開いたら、やっぱり涙が出た。
 涙に湿った、震えた声で、椿の名前を呼びながら、その手を握った。腕には、太い針が痛々しく食いこんでいる。椿は、眉を八の字にしながら微笑んだ。声がきちんと伝わるように、西門は椿の人工呼吸器を、ウエディングドレスのヴェールをめくるように、優しく外してやった。
 椿の青い唇が言葉を紡ぎ、ピアノの音の中へ溶けていく。
「…………一番大事な物だけは、なくしたくないから」
 それが椿の最期の願いであることを、西門は分かっていた。
 だから、せめて……せめて、思い出を亡くすばかりでは、悲しすぎるから。
「……ありがとう、直明さん」
 重ねた唇は、冷たかった。
「…………また、ピアノ……弾くから、ね…………」
「ああ。…………………………─お休み、椿」
 鍵盤を叩くように優しく、西門は、生命維持装置のスイッチを切った。
 その日、西門は全てのスイッチを切った。
 情熱も、愛情も、友情も、夢も。ありとあらゆるもののスイッチを切った。
 そして、神林が椿の死を知らされたその時に……西門は、一方的にXXXXの解散を告げたのだった。それが西門にとっての、最後のけじめのはずだった。

 それから、二年の時があっという間に流れた。
 その日も、雨が降っていた。
 人の声も、ビルの明かりも滲ませるように、雨音が夜を包んでいた。
 街はまるで喪に服したように静まっていて、外を歩くのがどこか罪深く思えるような、そんな雨降りの夜だった。
 そういう濡れたアスファルトの道を、西門は独りで歩いていた。
 椿の死から、XXXXの終わりから、西門はずっと独りで歩いていた。
 あれから西門は、とにかく言語学の研究に打ちこんだ。音楽を捨て、Bar4/7からも距離を置いた後は、それしか残っていなかったからだ。
 周囲からすれば鬼気迫るといった調子で、院でも指折りの秀才と呼ばれた。
 学問のこと以外はずいぶんと無頓着で、酒に溺れながら研究だけに没頭する生活が続いていたが、それが余計に、周囲からの「研究の鬼」という印象を際立たせ、一目置かれる存在となっていた。
 やがて西門は博士号を取得し、院を修了する目処を立てた。
 院の仲間たちは、西門の出した結果を盛大に祝福した。「院の誇りだ」とはやし立て、西門を祝うために酒宴を開いた。
 西門は、振舞われる酒を浴びるように飲んだ。飲んで、飲んで、飲み続けた。
 院の誇り。西門博士。
 得られた勲章はどれも、西門が心から欲しかったものではなかった。
「…………残ったのは、こんな物だけか」
 酒に溺れることは日常茶飯事だったが、その日は特に飲んだ。頭がくらくらと揺れて、心臓が脈打つたびに痛んだ。
 どこへ向かっているのかも分からない、ふらふらした足取りで夜道を歩いた。どこへたどり着いたって構わなかった。行きたい場所など、今の西門にはなかった。ただ、雨に打たれていたい気分だったのだ。
 けれど……不思議とその足は、懐かしい道へと進んでいた。
「……私としたことが……」
 西門は、濡れた前髪の奥で、自嘲気味に笑った。
 見慣れた景色だった。その道を真っすぐ進んでいけば、やがて懐かしの、Bar4/7にたどり着く。
 だが今更訪れたところで、なんだというのか。
 Bar4/7は、年老いたオーナーと、西門と、椿だけで営んでいた店。もう残っているわけがないのだ。西門は、あの店を見捨てたのだから。
「だが……それも良いか」
 どうせなら、あの店があった場所を、見に行こう。
 そして、本当に何もなくなったことを確かめよう。
 あのころの全てを手放したこと、何一つとして守れなかったこと……全てが終わったことを、もう一度目の当たりにしよう。
 そして。そこまで考えて……。
「…………?」
 雨に、別の音が混じった気がした。
 西門は耳を澄ませた。その音が、なぜか懐かしかったからだ。
 少しして、西門はそれが、何の音だったか気づき、目を見開いた。
「…………ピアノの、音」
 間もなく、西門は雨の中を駆けだしていた。
 道を行くにつれて、音は鮮明に聞こえてきた。その旋律に誘われるように、西門は走った。走らずにはいられなかった。
 それは、椿のピアノの音だったから。
「……バカな……」
 はたして─その店は、そこにあった。
 Bar4/7。
 潰れたと思っていたはずのその店は、何も変わらず、残っていた。
 夢でも見ているのか。雨に冷えた体が見せた幻覚なのか。震えながら、西門はバーの扉に手をかけた。寄りかかる様に、重い扉を押し開いた。
 そこには─……。
「……椿?」
 一瞬、確かにそう見えた。
 バーの隅にある椅子に腰かけて、ピアノを奏でるその姿が、指先を繊細に踊らせて、鍵盤で奏でるその音が、あまりにも同じだったから。
 西門が瞬きすると、椿の姿は幻影のように消えた。
 ピアノを弾いていたのは、かつて亡くした愛しい人ではなかった。
 けれど─……。
「おせえよ、相棒」
 かつて別れた最高の相棒が、そこにいた。
「……匋平、どうして……。それに、この店……」
「バーカ、決まってんだろ」
 何も、終わっていなかった。彼が、終わらせていなかった。
 Bar4/7は、そこにあった。相棒は、ずっと待っていた。
 そして、
「音楽は、ヒトとヒトをつなぐんだよ」
 椿の音は、ずっと続いていた。
「…………っ」
 涙で前が見えなくて、西門は必死に手を伸ばした。神林は迷うことなく、その手をもう一度摑んだ。
 西門の胸の奥で、椿の声が聞こえていた。
 ─また、ピアノ弾くからね。
「……約束、守ってくれたんだな」
「なんだって?」
「…………なんでもない」
 それからは、西門の心に、音楽が響いていた。
 いつまでも、いつまでも─響いていた。

 ─そして。Paradox Liveが終わった今も、音楽は響き続けている。
 あの日、西門が捨てたはずの音楽を、神林が拾って大事にし続けてきた。そのおかげで、Bar4/7は今もここにある。
「ありがとう、匋平」
「なんだよ、藪から棒に」
「言いたくなったんだよ。今、まだこの店で、雨の音を聴いていると思うとね」
「……ふん、そうかい」
 やがて、雨音の向こうから足音が聞こえてきた。案の定、濡れネズミになった四季を、西門が笑って、神林が唸って出迎えた。
「すみません、遅くなっちゃいました……!」
「大丈夫だよ。今日は雨で、まだお客さんも来ていないからね」
「あーあー、良いからとりあえず拭け。風邪ひいたらどうする」
 やいのやいのと、しばらく静かだったバーの中に、賑やかさが戻ってくる。
「あれ? リュウくん寝ちゃったんですか?」
「ん? おー、マジだ。よっぽど暇だったんだろ……しょうがねーやつだな」
 四季にタオルを渡した神林は、部屋からブランケットを持ってくると、とりあえずリュウに被せてやった。
「こいつ、一度寝ると下手したら数日は起きねーからな……」
「でも、凄く気持ちよさそうに寝てますよ……」
「何かいい夢でも見ているのかもしれないね、リュウも」
「リュウのやつ、どんな夢見るんだろうな」
「前は寝言で、〝メカしっきー出撃!〟とか言ってましたけど……」
 リュウの寝顔を囲んで眺めながら、なんとも吞気な会話が交わされる。ああ、平和だな。そういうふうに、そこに居る誰もが思っている。
 そんな平和の中で、リュウはやはり、夢を見ていた。
 誰の記憶なのか、いつの記憶なのかは、リュウにも分からない。けれど夢の中には、いくつかの鮮明な幻影が浮かんでいた。
 痛く苦しいことばかりの、どこかの施設。唯一優しくしてくれた人。ある日、いなくなってしまったその人を捜し、施設を抜け出した探検の旅。疲れ果ててたどり着いた、悲しいせせらぎを奏でる川。橋の上、悲しい歌を歌う、優しいお兄さん。それから、それから、色んな事があって、色んな事がぐちゃぐちゃになって─メガネの優しい人に拾われて、見たことのあるお兄さんと出会って、それから、しっきーが─。
 いくつかのチャンネルがランダムに切り替わる様に、どこまでが現実か、どこまでが夢かもわからない記憶の中で、リュウはまどろみ続けた。
 けれど、夢の中でただ一つ、たぶん確かなものがあった。
「─音楽は、ヒトとヒトをつなぐよ」
「「「え?」」」
 リュウの寝言に、三人は同時に顔を見合わせた。
 それから少し間があって─自然と、笑っていた。
 優しい雨は思い出を湛えて、まだ降り続けていた。まるでずっとずっと鳴り続ける、穏やかなピアノの音のように。