澄んだ風が吹いていた。
廃ビルの屋上。埃まみれのスラム街とは思えないほどクリアな空気の中で、三人の少年が、青空を急ぐ雲を見つめていた。
「本当、良い風が吹くんだな、ここ」
ぽつりと漏らす珂波汰に、四季が頷いた。
「うん。僕もここの空気が好きだった。もっと早く思い出して、もっとここに来ていればよかった」
四季の視線が隣に移る。それにつられて、珂波汰も視線を向けた。
そこには、那由汰の姿があった。珂波汰が生み出したファントメタルの幻影ではない、正真正銘、本物の那由汰の姿が。
「やっぱ良いよなぁー、ここ。色々あったのが全部吹っ飛んでくみたいだ。つっても俺は、ほとんどベッドの上で寝てただけだけど……お前らは本当に、色々あったんだろ?」
「……うん、色々あった」
那由汰の問いかけに、四季は嚙みしめるように頷いた。
メタルの侵食の末期症状を起こした那由汰を助けられず、ふさぎこんでいたこと。西門に拾われ、The Cat's WhiskersとしてParadox Liveに参加したこと。珂波汰の作り出した那由汰の幻影との邂逅、動揺し、自分を責めながらも、西門に、神林に、リュウに支えられて過去と向き合ったこと。
「僕は弱かった。ずっとずっと逃げていた。でも、そんな僕を支えて、繫がってくれる人たちが居たから、ラップを続けて来れた。そして……やっと、那由汰くんと再会できた」
「俺も、色々あった」
空を見つめながら、珂波汰も記憶をたどった。
「自分で思い出しても、腐ってたよ。最初、BAEのSUZAKUには、ダセー絡み方したな。自分で作った幻影の那由汰にまで𠮟られて……俺は那由汰が居ない時でも、那由汰に助けられてた。いや……強がってたけど、正直、色んなモンに頼って生きてきたんだろうな」
バカみたいに熱く真っすぐに、音楽と情熱でぶつかってきたBAEの連中、遠回しに珂波汰の記憶を取り戻す手助けをしていた依織や、馴れ馴れしいくらいの明るさで支えようとした善たち、悪漢奴等の面々、そして─……。
「そんで、四季。那由汰と友達になってくれたお前にも、たぶん俺は助けられてたんだろ」
「僕は……何もしてないよ」
四季の声に、以前のように自分を卑下する響きはない。
それをわかって、珂波汰も小さく微笑む。
「あーあ、二人とも、俺が寝てる間に、なんか大きくなったよな」
なんて言いながら、那由汰は口を尖らせる。
苦笑する二人に、わざとらしくジト目を向けて見せる那由汰。
「でも、本当に良かった。那由汰くんが帰ってきてくれて」
「ああ。マジで……優勝したことよりも、たんまり頂いた賞金よりも、かけがえのないもんを手に入れた。ありがとな、那由汰。俺の前に、帰ってきてくれて」
「よせよ。それこそ寝てる間の俺は、何もしてないし、何もできてなかったんだし……まあ、でも……」
那由汰は目を細めて、屋上の手摺から下を覗きこんだ。
かつてのことを思い出して、四季が息を吞む。「大丈夫だよ」と、那由汰は申し訳なさそうに笑いながら呟いた。
「俺が……、本物の俺が参加できなかったのは、もしかしたら罰だったのかもな。珂波汰に心配かけて、四季を泣かせた。あの時の俺はきっと、一人で勝手に、一番選んじゃいけない道を選んじまってたから」
「……那由汰……」
那由汰の背中を見つめて、珂波汰が呟く。そんな声に、那由汰は眉を下げた笑顔で振り向いて、語る。
「なあ二人とも、聞いてくれるか。俺が二人を苦しめちまった……あのころの話」
那由汰が向き合う。視線の先には、自分の半身。そして、友の下げる、懺悔のロザリオ。ぽつぽつと、那由汰が過去のことを語りだす。珂波汰が知らなかったこと、そして四季が知らなかったこと。那由汰だけが知っていた、あのころの全て。
「あのころ、俺は─」
風の中で、懺悔が始まった。
そう─ことの始まりは、埃まみれの裏路地。
あの夜、息を切らした那由汰の手を、珂波汰が必死に引っ張って駆けていた。
「─待てやぁ! ガキ共、逃がさねえぞぉ!」
品のない声が、背後から響いてきた。
振り返った那由汰の瞳に、何人かの男たちが映った。手には錆びた鉄パイプのようなものを握っていて、見るからに物騒だ。
行き止まりに当たったら不味いな、なんて思った瞬間、珂波汰が声を上げた。まるで那由汰の頭の中が分かっているようだった。
「大丈夫、あいつら図体でかいからよ。この道はついてこれねえよ」
「分かってる、心配してないって。珂波汰と一緒だから」
「ハッ……そうだな! 那由汰と一緒だから」
「「二人でいれば、最強だ」」
息を合わせて、建物の隙間へ飛びこんだ。
細い二人だからこそ使えた抜け道。暗い夜のスラムでは、大人の目からは消えたように見える。
隙間の奥まで入りこみ、身を寄せ合って息をひそめた。
緊張に震えた那由汰の手を、珂波汰がぎゅっと握りしめる。力いっぱい握り返すと、二人で支え合うように震えが止まった。
やがて、男たちの足音が、遠くへと通り過ぎていく。怒声が聞こえなくなってから、ようやく二人、溜息をついた。
「……─ん」
いつの間にか、気が付くと、見慣れた天井を見上げていた。
安アパートの中は、まだ暗闇に包まれていた。たぶん日付が変わって、一時間か二時間といったところ。闇の中で見上げても分かるくらいにボロ屋だが、それでも那由汰は「俺たちの家だ」という安堵に溜息をついた。
「っつ……」
布団の中で身じろぎすると、ピリッとした痛みが頰に走った。
それをきっかけに、那由汰はその晩のことを思い出した。幻影ライブのラップイベント。優勝し、賞金を頂いて帰る途中、参加者とその取り巻きに襲われた。
「那由汰、痛むのか?」
すぐ隣から声がした。
寝返りを打つように顔を向けると、間近に珂波汰の顔があった。暗闇の中でも目を凝らせば、心配そうに下がる眉が見えた。
「少しな。殴ってきたやつ、バカみてぇに指輪つけてたから」
「あの野郎……」
狼が低く唸るような、珂波汰の声が響く。
けれどすぐに、間近で伝わる空気は優しくなって、伸ばされた珂波汰の手が、那由汰の頰を包んだ。掌の温度が心地よくて、那由汰はその手に自分の手を重ねた。
一組の狭い布団の中、お互いの存在を確かめ合うように触れた。
額を合わせ、吐息の混じる距離で、ヒソヒソ内緒話をするように声を出す。なんのことはなくて、直ぐ近くのお互いにだけ伝わればいいと思っているからだ。ガキでも住みつけるスラムのアパートなんて、ちゃちな造りだ。それでも、どこか暖かかった。
「あいつら、ほんっとクソダセぇよな。バトルで負けて、ガキに因縁つけて殴ってくるとか。どうしたってガキのラップに負けたのは変わらねえっつーの」
悪態をつく那由汰に、珂波汰も頷く。
「俺がディスったの図星だったんだろ。〝ストリート育ちです〟みたいなツラして、街のボンボンじゃねえか。親の金で買ったアクセじゃらじゃらつけて、ぬくぬくした家の中で、浅い音楽やってんだ。逆立ちしてたって負けねえよ」
くすくすと、笑い声が布団の中に響く。
光も射さない静かな部屋で、たった二人。声を重ねて、指を手繰って、二人で一つ。
双子だけが感じあえる、同じ血と、声と、熱を分かち合う安心感。まるで世界に、二人以外は何もいないような感じ。そういう時間、二人は自分たちが無敵に思える。
ひとしきり笑ったあと、那由汰は穏やかに目を閉じて呟いた。
「あー……寒いし、腹減るし、周りの連中クソばっかだけど……それでも、施設にいたころよりは、ずっと自由だ」
「ああ、そうだな。あそこは……いや、あの施設だけじゃない。今までの俺たち、クソなんてもんじゃなかった」
乾いた声で、珂波汰も応えた。
スラムの娼婦が、誰の種かもわからず産んだ双子。
親子の愛情なんてなかった。嫌なことがあると腹いせのようにぶたれて、嫌なことがなくたって意味もなくぶたれた。「ガキ付きじゃ男も寄り付かない。飯代もかかる。堕ろせたらどんなに良かったか─」それがあの女の口癖だった。
「それに比べたら、今はたまにラーメン食えるもんな。最初食った時ヤバかったな……あんな美味いもん、この世にあんのかって」
「珂波汰、ほんとラーメン好きな」
「那由汰もギョーザ好きじゃん。あとハンバーガー」
「ハンバーガーだけは、あの女もたまに買ってきたよな。冷たかったけど」
「施設じゃアレすら食えなかったもんな」
母親とも呼べない女と暮らし続けていたある日、頼んでもないのに助けが来た。
スーツ姿の大人たちが、国のナントカって政策に従って、女の元から双子を連れ出し、孤児を養う施設へ入れた。だが、あの女との日々が最悪だったら、施設での日々はその次に悪かった。
乾いたパンと味のないスープ、野菜くずの載った皿。瘦せこけて鬱々とした施設の子供たち。ロクに仕事もせず、子供が騒ぐと蹴り飛ばす大人たち。
どこも、自分たちの居場所じゃなかった。大人なんてクソばっかだった。自分たちがこの世に産まれたことを、誰一人歓迎していなかった。
それに比べたら、二人だけでいられる小さなアパートの一室は、遥かに幸せだ。
「……珂波汰」
那由汰が珂波汰の手を握りしめる。笑いながら、珂波汰も握り返す。
温かい。柔らかい。血が通う。ここに在る。
「俺たち、ずっと一緒だよな」
「当たり前だろ。ずっと一緒だ」
閉じた幸せ。穏やかな世界。
そのころの二人はまだ、時間が止まったような、優しい停滞の中にいた。
目を覚ますと珂波汰がいなかった。
カーテンは閉まったままで、那由汰は隙間から射しこむ太陽の光に顔をしかめながら起き上がった。もうずいぶん明るかった。
すっかり昼になってしまったようで、枕元に「少し出かけてくる」と書置きがあった。
─近頃、どうも珂波汰は一人で出かけることが多いな。
そういう疑問が那由汰にはあった。珂波汰に聞いても、妙にはぐらかされるばかりで不満だったが、ラップをやるために家の中に増えた機材や、新しい物になった裁縫道具は、うっすらと疑問の答えになっていた。
秘密でバイトでもしているとして、それにしたって水臭い話じゃねーか。そう口を尖らせてみる那由汰だったが、実際、生活水準が上がっているのはありがたい話なので、文句も言いづらかった。
「……ま、隠し事に関しちゃ、今は俺も人のことは言えねーか」
乾いたパンの耳をかじって、那由汰も家を出た。砂糖でもあれば、ラスクと言い張れたかもしれない。
さて、その日は那由汰のほうはバイトの用事がなかった。
暇だし、珂波汰に新しいステージ衣装でも見繕ってあげたい─その半分以上は自分がおしゃれな珂波汰を見たいだけなのだが─と考えた那由汰は、節約のためにスラムと街の境目あたりを目指して出かけた。どうやら近隣にちゃらんぽらんな散財オヤジが住んでいるらしく、まだ使えそうな古着がごっそり捨ててあることがあった。
拾ってきただけでは丈が合わないので、多少詰めてリメイクするのが那由汰の楽しみだった。これは非常に経済的だ。「じゃあそれだけで服が賄えるんじゃねえの?」と珂波汰に問われたことがあったが、やっぱり新品もないと華がない。
施設を出て、ある程度自由に〝服を着飾る〟ことを覚えた時、那由汰は「珂波汰ってなんてオシャレが似合うんだ!」と、それはもう感動したものだ。こればっかりは人生かけて楽しんでいきたいと思っていた。
「─あ?」
ところが、うきうきした気持ちで路地を曲がると、何か物騒な光景に出くわした。
「ケンカ、っていうには……一方的だな」
どちらかと言えば、カツアゲに見えた。体の大きい、いかにもガラの悪そうなチンピラが、やけにナヨっとした少年の胸倉を摑みあげていた。
絡まれているほうの少年は、見るからにお上品な服装で、スラムには似つかわしくない風貌だった。くせ毛がかった栗色の髪で、体は細いが、珂波汰や那由汰とは違って、単純にナヨナヨしているように見えた。
「場違い坊ちゃんが迷いこんでカモられたってとこか? 自業自得だろ。あんなのに因縁つけるほうもダセーけど……」
溜息をついて通り過ぎようとした那由汰だったが─絡んでいるチンピラの顔に見覚えがあった。
「……あいつ」
かすかに頰が痛んだ。
それは那由汰たちに因縁をつけてきたラッパーたちのリーダーで、那由汰を殴りつけた張本人だった。
そう気づくと、ふつふつと怒りが湧いてきた。せっかく珂波汰と二人、勝利に浸っていい気分で帰るところを台無しにされたのだ。本当なら帰り道、雷麵亭のラーメンにギョーザをつけて、二人でお祝いするつもりだったのに。
─今、スキだらけだな、こいつ。
そう気づいてからは早かった。那由汰はなるべく足音を立てずに物陰から近づくと、チンピラの股間めがけて、後ろから思いっきり蹴り上げた。
「─ぎゃうんッ!」
かなり汚い悲鳴が聞こえて、心地よかった。チンピラが生まれたての子鹿のように震えながら倒れると、かなりスカっとした。
「ダセー真似ばっかすっからだよ、クソが」
おまけに唾も吐いてやった。なるほど、珂波汰に頼らず一人でケンカしたのは珍しいが、これは気持ちいい。相手が嫌な大人だと最高だ。
爽やかな気持ちでその場を後にした。サッカーでシュートを決める時くらいに蹴ってやったから、しばらく動けやしないだろう。路地を一つか二つ抜けて、お目当ての場所にたどり着いた。すると、やっぱり古着がたんまり捨ててあって─。
「あの!」
背後から声をかけられて、那由汰はビクっと肩を震わせた。
「……なんだ、お前かよ」
そこには、先ほど絡まれていた少年が立っていた。
汗をかいて、息を切らしていた。走って追ってきたらしい。
「なんだよお前。このへんウロついてると、お前みてーなの、またカモられんぞ」
「いやっ、あの……」
「……落ち着いて話せよ。どんだけ焦ってきたんだよ」
「お、れっ……おれっ……」
「俺?」
「違います、僕…………お礼が言いたくて…………」
「……はぁ?」
お礼。感謝。そんなもの、那由汰にとっては珂波汰との間にしか存在しない概念で、だから正直、ポカンとした。
「いや、別にお前助けたわけじゃねーし。たまたま俺がムカつくやつだったから」
「でも、僕は助かったから。ちゃんと、お礼が言いたくて」
「はぁ~……?」
なんだこいつ。ていうか正直怖い。知らない生き物だ、と那由汰は一瞬で理解した。お人好しとかそういう概念とは、その時初めて触れ合った。
「だから、別にいいって。俺これからこの古着運んで帰りてーから、とっとと消えてくれ」
「古着? それ全部?」
「悪ぃかよ」
「じゃ、じゃあ、それ僕に手伝わせてくれないかな! 運ぶの!」
「はぁ? なんでてめーが?」
「だから、お礼をさせてほしいんだよ」
「そんな話を信用できっか、バカ」
那由汰はすぐに警戒した。一瞬で「家を突き止めて盗みに入るつもりか?」とか「あとで因縁つけて金をせびるつもりか?」とか、いくつもの疑問が頭に浮かんだ。
しかしその少年は、悪だくみなど生まれつき不可能だとでも言わんばかりの、くしゃくしゃの顔で、お礼がしたい、と同じことを繰り返す。
「だって……本当に……本当に助かったから。助けてもらって嬉しかったから、今度は僕が助けてあげたくて……!」
「あのな。本心から、そんな子供向けの絵本みてーなセリフ吐く奴は、この世にいねーんだよ。何企んでんのか知らねーけど帰んな」
「そ、そんな……」
「どうしても手伝いたいなら、お前が一人で運べよ。この量を全部だ」
土台無理な話を、那由汰は提案した。ポリ袋に詰められた古着はけっこうな量だ。選んで持っていくならまだしも、少年の体格で全部丸ごと運ぶのは無茶だ。つまりは見え見えの意地悪だった。
の、だが─。
「うん、わかった。任せて! ……よい、しょ……」
「あ? ちょ、おま。バカ! 無理だって!」
言うが早いか、少年は透明ポリ袋に詰めて放棄された古着の山を持ち上げていた。
ところが、レザー製品も含めてもっさり詰まった袋はやっぱりけっこうな重さで、貧弱そうな少年はやっぱりイメージ通りによろけていた。
「うわわわわ……あ~……あっ、あああ……」
「うわーっ! このバカ何やってんだ!」
思わず、那由汰はよろける少年の後ろに回って、袋を支える形になってしまった。普段は自分がふらついて珂波汰に助けられることばかりなので、これはまったく新鮮な体験だったが、全然嬉しいものじゃない。
少年と二人で支えて、ようやく安定した。文句の一つでも言ってやろうと顔を傾けると、少年はポリ袋越しに顔を向けた。
まさかの笑顔だった。
「やっぱりすごく重たいよね。ごめん、一人じゃ辛そうだけど、二人なら運べそうだよ」
「……」
「どうしたの? ……えーっと、これどこに運んだら……」
「今、貧乏なサンタみてーな恰好だぞ、お前」
「えっ! ひ、酷くない……?」
気づくと那由汰は笑ってしまっていた。
なんせ、助けるつもりもないのに助けてしまった奴が、頼んでもいないのにお返しにきて、結局また那由汰が助けている。そのくせ、なんか偉そうに「僕が来たからもう安心」という顔で笑顔を向けるのだ。可笑しくって仕方ない。
「やるからにはしっかり運べよ、貧乏サンタ」
「び、貧乏サンタって……僕、闇堂四季っていうんだけど」
「気が向いたら覚えててやるよ。スラムの中まで行く。でもお前がカツアゲされたら、その時は俺だけ逃げるからな」
「あの、君のことは何て呼べば」
「那由汰。たぶん、もう会わねーから覚えなくていい」
そういうことで、二人は大きなポリ袋を一緒に担いでいくことになった。それは貧乏サンタクロースというよりは、間抜けな泥棒の逃亡のようだった。
「ひぃ……ひぃー……」
「おまっ……体力なさすぎだろ……よく手伝うとか言えたな……」
「那由汰くんこそ、息切れしてるし……」
「うっせー……俺はもっと、頭使って運ぶ気だったん、だよっ……」
なんせ病弱な那由汰と貧弱な四季の組み合わせは、力を合わせたって弱かった。双子のねぐらまでまだ十分は歩くというところで、二人してバテて腰を下ろした。
「今、さっきの奴に襲われたら逃げられねーな……」
「……そ、その時は僕が、那由汰くんのこと助けるから」
「バカか? 脳みそ腐ってんのか? お前やられてたじゃん」
「そ、それでも……助けるんだよ、うん」
なんとも頼りない宣言だった。珂波汰の千分の一ほどの頼りがいもない。呆れるやら笑えてくるやら、けれど不思議と悪い気はしなかった。
そのころの四季というのは本当に普通の少年で、普通過ぎて、スラムの暗闇の中で見るには眩しくて、お人好しすぎた。
学校で習った道徳をそのまま実践してるような愚直さで、けれど那由汰には珍しい人間だった。そういう〝無条件の善意〟のようなものは、双子だけで生きてきた短い人生の中で、本当に初めて出会うものだった。
「シキだっけ」
「うん、春夏秋冬の四季」
「いやそこまで聞いてねーけど。お前さ、街のほうに住んでんだろ? その服って、学校の制服ってやつだろ」
「ええと、そうだよ。中学生なんだ。たぶん那由汰くんともそんなに離れてない、かな」
「お前、なんでこんなとこ来てんの?」
「……それは……」
「一応手伝ってもらったから言っとく。二度と来んな。お前ドジだし間抜けだしノロマすぎて、カツアゲされるだけなら幸運だ。たぶんそのうち死ぬぜ」
「ひ、酷い言い方だなぁ……」
「事実だろ」
それはまあ、那由汰なりの善意のお返しでもあったし、率直な真実でもあった。四季のようなヌクヌク育った人間が平和に観光できるほど、スラムは優しくない。那由汰と再会するまで無事だったのが奇跡のようなものだ。
だからもし、なんの理由もなしにスラムに来たのなら、それは単なるバカだ。那由汰たちが生きている環境をナメられているのなら、腹立たしさすらある。だから尋ねたし、忠告した。
四季は少しの間、考えるように顔を上げていた。廃墟のような建物の隙間から覗く、狭い青空を雲が流れている。裏路地からは、太陽は直接見えやしない。
少しして、四季はぽつりと話し始めた。
「お父さんの形見がね、怖い人に取られちゃって」
「オトウサン?」
那由汰は目を丸くした。それは那由汰にとって、まったく知らない存在だった。
「うん。このくらいの……小さなロザリオなんだけどね。お守りにしてたんだけど、目立つのがいけなかったのかな……ロザリオを持って行った人、スラムのほうに帰ったんだ。別にオシャレなアクセサリーってわけでもないから、どこかに売られてたりしないかな、ってさ」
「父さんの形見が、そんなに大事なのか?」
「うん。家族の思い出だから」
「ふーん、そっか。お前の父さんが居ねーのは分かったよ。母さんは?」
無意識に質問していた。那由汰は口に出してから、自分がそんなことに興味を抱いた事実に驚いた。四季は一瞬、困ったような笑みを浮かべた。
「お母さんも死んじゃったんだ。交通事故……二人とも、僕を守って……」
「……子供を守って?」
命がけで子供を守る親なんて、おとぎ話より信じられなかった。珂波汰が今になったって信じているサンタクロースのほうが、まだ現実味があった。
那由汰にとって、母は憎しみの対象だ。父に至っては顔も知らないし、幼いころから存在しなかった概念だ。けれど家族が大切なのは、わかる。
もし─珂波汰が死んだら、想像もできないくらい、那由汰は苦しむだろう。そしてもし、その形見が盗まれたら……きっと那由汰だって同じことをする。
「……今は一人か。兄貴は居ないのか?」
「お兄さんは居ないよ。一人っ子なんだ」
それは、那由汰には途方もなく悲しい告白に聞こえた。両親が居なくて、兄弟も居ないなんて、想像するだけで絶望だ。けれど四季は、明るく笑って見せた。
「でも、僕は幸運だったんだ。施設に入れてもらって、そこから学校に通ってる」
「は? シセツかよ。俺もいたけど、クソだろあそこ」
「……すごく良いとは言わないよ。でもご飯はくれるし、学校にも行かせてくれる。だからさ、助けてもらったら助けたいんだよ。……ずっと助けてもらってきた、命だから」
那由汰は、四季という少年に対して、同じようで違う人間だと思った。同時に、違うようで同じ境遇だとも思った。
那由汰はその時まで、世界には珂波汰と自分、それ以外の区分けしかないと思っていた。自分たちという内側と、外側。その二種類。
でもこの世界には、自分たち以外にも、父を失い、母を失い、施設に入って……でも、まったく違う人生を歩んでいる奴がいるらしい。
ポリ袋を持ち上げながら、那由汰は色々なことを考えていた。
子供を守る親のこと。兄弟の居ない孤児のこと。施設の中で生き続けること。他人との関わり。
─助けたいんだよ。ずっと助けてもらってきた命だから。
四季の言葉が、頭の中で巡った。ぽつぽつと考えながら、二人組の情けないサンタクロースは、スラムの道をよたよたと歩いていった。
「お帰り、珂波汰」
「ただいま」
結局、珂波汰の帰りは夜になったので、那由汰は先にねぐらで待つ形になった。
お土産ということで、珂波汰はハンバーガーショップの紙袋を携えていた。開けてみると、大きなバンズにパティが二重に挟まった、ちょっと豪勢なやつだった。
「すっげ、ごちそう」
喜びながらも、那由汰は「どうしてこんな贅沢」と言いたい気持ちがあった。
別に二人とも倹約家というわけでは無い。那由汰は特に洋服で金を使うが、珂波汰だってトラックメイク用の機材やレコードには金を使う。だから、押し入れの中にある貯金箱代わりの空き缶は、いつだって軽いはずだ。
それが近頃、別になんでもない出費が多いというか─生活水準が上がったのは、確かなことだった。
やっぱり、珂波汰もバイトでもしてるんだろうか。
そういう疑問を尋ねるタイミングを、那由汰はずいぶん前に逃していた。聞けば、自分の隠し事も話さなければならなくなる気がして。
「そういやさ。今日、あいつ見かけたよ。昨晩のヘボラッパー」
だから那由汰は、自分の外出に関する話題を振ってしまったのだが、それがどうも珂波汰を心配させてしまったらしい。
「……何もされなかったか?」
「いや、油断してたから仕返ししてやった。後ろから股間に蹴り入れて─」
「……勝手にバカやってんじゃねえよ!」
急に抱きしめられて、那由汰は一瞬困惑した。
けれど、珂波汰の腕が、肩が、小刻みに震えていたので「ああ、心配をかけちまった」とすぐに気が付いた。悪いことをしたと思った。那由汰にしてみれば、珂波汰が一人で何かコソコソしているのは承知していて、それがたぶん自分たちの生活を助けていることも理解していて……思い返すと、母とも呼べない女の元でも、施設でも、ずっと、珂波汰が守ってくれていたことをわかっていた。あの家畜小屋みたいな施設からだって、一人で逃げ出すなんてできなかった。珂波汰が手を引いてくれなければ。
だからちょっとくらい、自分だけでやってやりたかったのだ。それが、こんなに心配させるとは思っていなくて、やっぱり自分は弟で、甘ちゃんなのかもしれないと思った。
「ごめんな、珂波汰……もうしない」
「……絶対だぞ。俺がいないところで、危ないことするな」
「うん」
「俺には、那由汰しかいないんだ」
「うん。ごめん」
─俺には那由汰が居ればいい、とは何度も言われた。那由汰も珂波汰が居ればそれでいいと思った。でも「那由汰しかいない」というのは、悲しい響きに聞こえた。
この分だと、もう一人出会った〝変な奴〟の話は、内緒にしておくべきかな、と思った。
そういう調子で、那由汰の隠し事は、ひとつひとつ増えていった。
そんなことがあってからも、しばらく双子は穏やかに暮らしていた。
何か、変化のきっかけがあったとすれば、街路樹が葉を落とし始めたころの、ある日の会話だった。
「うお、マジか……!」
急に、珂波汰が素っ頓狂な声を上げた。
敷きっぱなしの布団をソファ代わりに、寝間着にしたヨレヨレのシャツに身を包んだまま、拾ってきたらしい今月号の雑誌を開いていた。音楽雑誌としてもクリエイター向きのディープな物で、作曲論だの、DAWソフトのレビューだのが載っている。
洗濯物を干していた那由汰は湿った手をエプロンで拭いて、珂波汰の背後から雑誌を覗きこんだ。
「どうしたんだよ珂波汰」
「これだよこれ」
指さした先を視線で追えば、黒いボディに妙にカラフルなキーのついた、ゲーム機のような物が載っている。
「これって、サンプラー?」
「そうだよ、デカいレコード会社も使ってるような本格的なメーカーのやつ!」
「へー、パソコン無しで使えんだ。高いんじゃねーの?」
「前はもっと高かったんだよ。でも今回は高ぇモデルの機能抜きだして、ちっこくしたヤツなんだ。元の半額になったのにできることが多いんだ」
那由汰はボロのエプロンを脱ぎながら、雑誌を覗きこもうともっと近くへ寄った。確かにプロシーンのステージにも堪えうるような音が作れる、それだけの機能が揃っているように見える。
「……それでも高いな」
那由汰は珂波汰の背に寄り添いながら、正直な感想を述べた。半額になったと言っても、やはり高い。桁を数えると片手で足りない。それは二人の生活においては、絶対に出てこない価格帯だ。
おぶさる様に首に腕を回すと、珂波汰はその手を優しく撫でた。
「高いよなあ」
その諦めまじりの声音が、鼓膜にへばりつくようだった。
二人の出費を切り詰めて、貯金をして、一年か二年か……その間に値段が下がるにしても、簡単じゃない。そもそもギリギリで生活しているのだ。一年後にこのねぐらに住んでいられるかだって、保証なんかなかった。
けれど、買えば珂波汰は使いこなすだろう。
実のところ、珂波汰は頭がいい。勉強はしないけど、生きていくために必要なことや、HIPHOPに関しての知識とか、技術の吞みこみは早い。
中古品の鉄くずみたいなサンプラーや、ありもののトラックなんかじゃなくて、本気で音楽を追求するための高性能な機材があれば、珂波汰はもっと存分に才能を発揮できる。
何より─ラップしている時の珂波汰は、本当に楽しそうだから。
「……欲しいよな、珂波汰」
「まあ、正直言えば。でもやっぱ今すぐってのは厳しいな。ラーメン何杯分だよ、って」
「……だよな」
「サンタクロースでも来てくれれば良いんだけど、来た事ないよな。やっぱ俺、良い子とは言えねーからなぁ……」
考えるより先に、那由汰は珂波汰を後ろから抱きしめていた。
珂波汰の背に胸を強く押し当てた。そして、珂波汰の胸の左側を、包むように掌を添えたら、心臓の鼓動が響いてきた。同じリズムだった。
「……あ、はっ……なんだよ。くすぐったい」
じゃれつく弟に、珂波汰が笑う。
同じ背丈で重なった体の、同じ位置にある鼓動が、ステレオスピーカーみたいに二つ、同じビートを刻んでいる。
双子。同じ遺伝子を二人で分け合った、一つの命。そういうものだと確かめる。
ずっと分け合ってきたつもりだ。血も肉も涙も、幸も不幸も愛情も。きっと同じ細胞と一緒に、命も運命も分け合った、生まれる前からずっとずっと。
同じなのに、たぶん、珂波汰のほうが那由汰を助けていた。ほんの少し遅く生まれて、ただ〝弟〟だからというだけで、きっとずっと那由汰が助けられていた。同じ血が流れている、とくん、とくん、という音を重ねていると、それをもっと強く感じた。
─助けたいんだよ。助けてもらってきた命だから。
四季の言葉を思い出す。思い出したところで、今まで珂波汰に助けてもらったことの全てを返していけるとは思わない。
でもやっと見つけた、HIPHOPという〝好きなもの〟くらい、珂波汰には我慢してもらいたくない。
─俺、たぶん頑張れば、もっと稼げるんだよな。
そういう思いはいつしか、那由汰の胸の中で、強く育ち始めていた。
少しずつ、街が秋の風に包まれ始めていた。
サンプラーのことがあってから、珂波汰はいっそう一人で出かけることが多くなっていた。稼ぎを急いでいることは、明白だった。
そういうことで、珂波汰と離れる時間が増えるにつれ、那由汰の生活にもいくつかの変化が生まれつつあった。
まず一つは、四季と会うのが増えたことだ。
あれから、またスラムまで来ている四季を見つけて、那由汰が口を酸っぱくして注意して……かと思ったら、たまたま貧血を起こしたところで、本当に四季に助けられてしまった。それからというもの、ずるずると四季との交流が続いていた。
その日も那由汰と四季は、廃墟と廃墟の間にできた隙間のような一角の、放置された廃材を椅子代わりに話をしていた。
「スゲエじゃん、四季! このレコード、どこで見つけたんだよ」
「ふふ。この間、那由汰くんが教えてくれたお店にあったんだ」
「マジかよ。……あそこ、安いのはいいけど、ゴミ屋敷みてーだろ」
那由汰とつるむようになってから、四季もだいぶスラム慣れが進んでいた。
さすがにケンカなんてできないが、因縁をつけられないような立ち回りだとか、なるべく人目につかず動けるような路地の歩き方を、那由汰に仕込まれた。元々そういうのは、那由汰が生きていくために覚えた術だった。
「でも、宝さがしみたいで楽しかった。クシャミが止まらなかったけど」
「あっはは、だよなー。あそこ汚すぎ。でもあの店に、こんな真っ当なレアものが転がってるとはなぁ」
「良かったら那由汰くん、聴く? 貸すよ」
「良いのかよ、買ったばっかだろ?」
「あはは……じ、実は、那由汰くんに見せたくて勢いで買っちゃったけど……ほら、僕は施設暮らしでしょ? レコードプレイヤーが無いの、完全に忘れてて……」
「なんだよそれ。四季ってそういうとこマジ抜けてんだよなぁ」
頭を搔く四季を見ながら、那由汰はケラケラと笑った。
「しょうがねーな、今度ウチのプレイヤーで一緒に聴かせてやんよ。それこそ、あのゴミ屋敷みたいな店で買った、安くて古いポンコツだけどな」
「ありがとう、楽しみだな。……そういえばあのお店、ごちゃごちゃだったけど、そういう音楽用の機材はいっぱいあったね。あの一角だけは専門店みたい」
「店主がラッパー崩れらしいぜ。だから安く済ませたい時は重宝すんだけどなー……大体アンティークだ。安くて、パソコンがなくても使えるようなのは良いけどよ、カタログで見るようなメーカーの最新型ってのは、並んでないよな」
「那由汰くんは最新のが欲しいの?」
「ああ。雑誌で見たやつを探しててさ。プロ御用達って感じの」
「そっか……確か、那由汰くんもやってるんだもんね、幻影ライブ」
「ま、一応な」
「すごいなあ……流行ってるのは知ってるけど、僕はああいう怖そうなのは、からっきしだから……」
「稼ぎになるからだよ。今はあちこちのライブハウスで、小さい大会やってる。ガキでもスキルさえあれば賞金狙いに行ける……食っていく手段には丁度良かった」
「でもすごいよ。やろうと思ってできるものじゃないし」
「つっても、俺を引っ張ってやり始めたのは珂波汰だよ。機材なんか弄ってるのもそうだし、曲を作るのもそう。双子つっても、そういう才能って珂波汰のほうにあると思ってる」
「だけど、那由汰くんは衣装作ってるんでしょ?」
「……まあ、うん」
「双子って言ったら、お兄さんも同じくらいの背丈でしょ? こないだ運んだ古着は全部大人用だったから、あれをリメイクするんだとしたらすごいよ。うん、那由汰くんもすごい。お兄さんとは違うかもしれないけど、すごい」
「そんな褒めるんじゃねーよ……ほんと、チョーシ狂うやつ」
悪い気分ではなかった。
そのころの四季は、まだ必要以上に自分を卑下する性格ではなかったが、やっぱり自己評価は高くなくて、でもその分、人を素直に〝すごい〟と言える少年だった。
那由汰の世界には、今まで珂波汰しかいなかった。
ライブハウスで与えられる拍手は気持ちよかったが、それは珂波汰のラップに与えられた物なんじゃないか、という疑問は常にあった。だから、四季の言葉は単純に嬉しかった。
体が弱く、守ってもらっているという意識のある那由汰にとって、他人の承認は本当に本当に、嬉しかった。
「四季はやらねーのかよ、ラップ」
「僕はさっきも言った通り、あの怖そうな世界には入っていけないかな、って……」
「俺は意外といけると思うんだけどな」
「え……な、なんで?」
「四季ってさ、なんか、一回曲聴いたら音外さねーじゃん。ちょっと前にライブハウスの直録り音源聴かせたろ? あれ、鼻歌で再現した時スゲーって思った」
「や、あんなのホント、ちょっと口ずさんだだけで……」
「でもたぶん、あると思うぜ、センス。機会があったらやってみろよ」
「……う、うん。でも一人じゃできないし、僕なんかと一緒にやってくれる人が居たら」
─自分が一緒にやったらどうだろう。
話しながら、那由汰は自問していた。ふわりと、頭の中にビジョンが浮かんだ。珂波汰と那由汰と、四季。珂波汰の作ったトラックで、音感の良い四季がMCとして参加して、那由汰が衣装をコーディネートして……。
「……いや、それはダメだ」
「え、何? 那由汰くん何か言った?」
「なんでもねえよ」
やっぱり双子の間に、何かを挟むというのは気持ち悪い気がした。cozmezは二人じゃなきゃいけないと思った。
珂波汰とじゃなきゃ意味がない。自分と珂波汰じゃなきゃ意味がない。そればっかりは理由を超越した、絶対条件のはずだった。
四季と一緒にいるのは楽しい。けれど、その時点の那由汰は、cozmez以外の音楽というものを考えることはできなかった。が。
「……なあ四季、少し寄り道していって良いか」
「うん、いいけど……どこへ?」
「ヒミツの場所」
だから、代わりというわけではないが─那由汰は四季を、自分のお気に入りの場所。あの廃ビルへと、案内することにした。ラップはダメでも、四季と共有できるものも、何か欲しいと思ったのかもしれない。
頷く四季を連れて、路地を抜けてから、道とも思えぬ道をたどって一件の廃ビルを目指した。少し階段が崩れている場所もあって、四季はおっかなびっくり那由汰についていったが……屋上へたどり着くと、目を輝かせた。
「わぁ……!」
夕刻のそこは、色とりどりの景色がまじりあう場所だった。
茜色から濃紺へとグラデーションする空に、ビーズを散らしたような星が輝き始めていた。頭上を遮るものは何もなく、眼下にはごみごみとした街が広がっていて、ビルが作った歪な地平線の果てに、太陽が沈んでいくところだった。
「なあ、いいだろ。ここの屋上」
そうだね、と応える四季の声音に、那由汰は満足げに笑って見せた。
「俺、こっから見る空が好きなんだ。下にある汚ぇもん見なくて済むしよ」
「うん」
「夜もけっこう良いんだ。街の明かりが、フロア一杯客の入ったクラブみたいでさ。俺のお気に入り。…………珂波汰も知らない、秘密の場所」
「えっ……そうなの?」
四季は驚いた様子だった。そのころには、四季は那由汰にとって、珂波汰がどれだけ大切な存在なのか、よく聞かされていた。そんな珂波汰も知らない場所に、自分が来ていいのかという戸惑いが見えて、那由汰はくすりと笑った。
「でも、なんでそんな場所に……珂波汰くんじゃなくて、僕を?」
「……んー。俺さ、今まで珂波汰以外にゆっくり話すやつとか居なかったから。内緒話、できる場所も欲しいなって」
「内緒話?」
首をかしげる四季に、那由汰は少し迷ってから、屋上の柵を背に振り返った。空はすっかり星柄のカーテンを引いたように染まって、太陽は落ちていった。
「何か月かするとクリスマスだろ? その日、俺たち誕生日なんだよ。でも俺たち、誕生日とかクリスマスとか、そういうの祝う余裕なんかなくてよ。ぶっちゃけ俺にとったら、寒いだけの日なんだよ」
「うん」
四季の相槌は最小限だった。その環境に深く踏みこまないでくれることは、那由汰もありがたかった。
「でもさ、珂波汰って……サンタクロースは、まだ信じてんだよね」
「…………えっ? ええっ?」
「あは、まあそういう反応になるよな。俺もさ、施設の意地悪なガキがわざわざ教えてこなきゃ、まだ信じてたかもしれねー。でもさ、珂波汰はまだ信じてんだ」
「……そっか」
四季は施設での生活を想像した。自分のいる施設とは、また違う環境だったのだろう。夢をわざわざ壊すような悪意のある場所で、那由汰が夢を失っても、珂波汰はまだ夢を持ち続けている。それがどういうことかを考えた。
「俺さ。今年、サンタクロースになりてーんだ」
言ってから、那由汰は少し恥ずかしくなって、頰を搔いた。言うにしても、もっと何か言葉の表現とかそういうのがあったんじゃないかと思った。
けれど四季は笑わずに、ただ微笑んだ。
「那由汰くんは、お兄さんの夢を守りたいんだね」
その時、四季は那由汰の中にも無かった、最も那由汰が欲しかった言葉をくれたのだ。
「サンキュー、四季」
お礼を言いながら、那由汰は少し、かじかんだ指先をさすった。血の巡りの薄い、白い指先が震えていた。
そのころ、少しの寒さが強く骨身に沁みるようになっていた。それが那由汰に訪れつつあった、もう一つの変化だった。
「……おいおい、マジか。これ、まるごと音響機器の店かよ」
「うん。この街の専門店だと、ここがかなり大きいと思うよ。エレキギターとか電子楽器とかも扱ってるみたい」
次の日、まるでお返しとばかりに、今度は四季が那由汰に街中を案内していた。
街中の店と言えば、那由汰が利用するのはディスカウントのアパレルショップや古着店、珂波汰と寄るバーガーショップや雷麵亭くらいなもので、そもそも手が出ないと分かっている、新品だらけの楽器店や電気店というのには無縁だった。
ライブハウスのステージ裏で見るような機材まみれの店内を、エスカレーターを使って昇っていくのは、那由汰からするとちょっとしたテーマパーク気分だった。5階あたりまで昇ると大きな売り場があって、メーカー別に展示されたコーナーをいくつか見て回ったところに、それはあった。
「あった! これだ、珂波汰が欲しがってたやつ!」
「……えっ、これ?」
思わず四季が驚きの声を上げる。それはやはり、四季から見ても明らかに「高い」と言わざるを得ない代物なのだ。
「……やっぱ、四季から見ても高いよな?」
「うん、これはちょっと、僕のお小遣い合わせても……」
「いや、何当然のように四季まで金出そうとしてんだよ」
当然助けようとしてくる四季に呆れながら、那由汰は背筋を伸ばして溜息をついた。けれどそれは諦めの溜息と言うより、覚悟を決めたような表情だった。
「俺だ。俺が珂波汰に返さなきゃいけないんだ」
「でも……これ買えるお金稼ぐのって、そうとう大変じゃない?」
「分かってるよ。でも、四季も言ってたろ」
那由汰は目を細めて四季を見つめ、それから、からりとした明るい顔で笑って見せた。
「助けたいんだよ。今まで助けてもらってきた命だから」
「……那由汰くん」
そのセリフを言われては、四季もそれ以上反論はできなかった。それを分かっていた那由汰は、少しズルいことをしたかな、と思いながら、言葉を続けた。
「大丈夫だって。実は、俺も前からバイトしてんだ。それ、もうちょっとたくさん受けさせてもらうようにしてさ、払いが良くなるように頼んでみるよ」
「え、そうだったの? 那由汰くん、運動は苦手なんじゃ」
「体力いらねーやつだよ。なんかさ、病院みたいなとこで検査に協力する感じ。ファントメタルの反応データ取るんだってさ」
「……それって、治験なんじゃない?」
「そーそー、そんなの」
実のところ─内緒のバイトを行っていたのは、珂波汰だけではなかった。
かつて那由汰は、一人で出かけることが増えた珂波汰の跡をつけたことがあった。
結局、珂波汰は見失ってしまったのだが……その際に知り合った人物の紹介で、那由汰もバイトを紹介されたのだ。
それが、アルタートリガー社による、ファントメタルの治験だった。
四季は少し不安になった。治験と言えば、実験段階の製品を実際に投与して、そのデータを取るものだ。普通、那由汰のような成長途上の少年が対象に選ばれることは無いのではないか。
「……それは、やめたほうが良いんじゃないかな。もし、体に影響が出たら……」
「大丈夫だって。つーか、変な影響出るような実験したらよ、それ計画した会社だってヤバいだろ」
「それはそうだけど……。ねえ、やっぱり僕もバイトするよ。そうすればさ……」
「だーかーら、これは俺がやらないとダメなんだって。金を稼ぐってところでは、さすがに四季の手は借りらんねー。大丈夫、無理はしねーよ」
「……分かった、約束だよ。僕は手伝わないけど、絶対、無理だけはしないでよ」
「分かってるって。……その代わりってワケじゃないんだけどよ」
「その代わり?」
「…………また、古着運ぶの手伝ってくれよ。しばらく服に回す金なんかねーから」
「それは……、もちろん。そのくらいは、お安い御用だよ! むしろ手伝いたい!」
那由汰は実感した。四季は優しい。でも、闇雲に守ろうとするのとは違う。それは言葉なくとも通じ合う双子の関係とは、また異なった繫がりだ。
家族じゃない。利害じゃない。ただ一緒にいて、他愛もなく話して、同じ空を見上げて、それでなんとなく楽しい。特別な理由なく、そう思える関係。
こういうの、友達って呼ぶのかな。那由汰はそう、ぼんやり考えていた。
そのころ、那由汰はまだ友達という概念に慣れていなくて、まだまだ珂波汰と四季という狭い繫がりしか知らない世界で生きていた。
だから、頼ること、寄りかかることの加減が、少し分からなかった。
その日から、那由汰の治験の報酬は、いっそう高額なものになった。
時が流れて、季節が巡った。
街路樹はすっかり裸になって、風は乾いて冷たくなった。
那由汰と珂波汰の二人で過ごす時間は、たぶん目に見えて減っていた。そのぶん、那由汰は四季と会う時間も増えていたし、珂波汰は自分のやるべきことに集中していた。おそらく双子にとって、一番〝それぞれの時間〟を過ごした時期が、そこだった。
そして、十二月の二十四日。
雪の降る、寒い日が来た。
その寒気だけで目が覚めてしまいそうな、その早朝。
「─那由汰ぁ!」
目覚ましになったのは、珂波汰の大きな声だった。
「……どうしたんだよ珂波汰ぁ、大声出して」
「ばっか、寝てる場合じゃねーよ! サンタだよ、サンタ! 来たんだよ、俺たちのところにも!」
「……はあ?」
枕元に目を向けると、ラッピングされた大きな四角い箱が置いてあった。前の日の晩に那由汰が設置した通りだった。
「スゲーじゃん。中身なんなの?」
「待てよ、今開けてみるから」
勢いよくラッピングを剝がそうとして、思いとどまって丁寧に包装紙のテープをめくっていく珂波汰が可愛くて、那由汰は思わず笑いをこらえた。宝物を扱うように、慎重に慎重にカラフルな紙を開いていくと、格好つけたパッケージが現れた。
「……マジかよ! あのサンプラーじゃねーか!」
「え、マジで。スゲーじゃん、高性能なやつだろ」
「スゲーなんてもんじゃねーって! これでどんだけ本格的な曲が作れるか……マジで? マジでサンタ来たのか?」
「それ以外考えられないだろ。そんな高いの俺たちじゃ買えねーし、わざわざプレゼントしてくれる物好きなんて……サンタくらいじゃね?」
「マジか……ほんとに来てくれたんだ」
「たぶんさ。珂波汰が頑張ってるから、ちゃんと見ててくれたんだよ」
「いや、俺だけじゃねーよ。きっと那由汰も良い子にしてたからだ」
「……あはは、そっか」
笑いながら、那由汰はごろん、と布団に寝転がった。あんまり珂波汰の喜ぶ様子を眺めていると、笑顔から戻らなくなってしまいかねない。
いや、昨日の夜からずっと我慢していたのだ。四季に手伝って運んでもらって、押し入れの奥の隅に隠しておいた。その間中、珂波汰の喜ぶ顔を想像して、ずっとずっと笑ってしまいそうだった。
「どうしたんだよ那由汰、こんなスゲーことあったのにテンション低いぜ」
「いやいや、ちゃんとアガってるって。朝早ぇーから眠いだけ」
「そうか? ……また具合悪くなったんじゃ」
「ちーがーうっつの。……こんな時間に起きたら、そりゃ眠いだろ。ちょっと二度寝させてくれよ」
それ自体は本音だ。夜中出かけた珂波汰が帰ってきたのを見計らって設置するのは、眠気との勝負だった。まったく、サンタクロースも骨が折れる。本物がいるとしたら大変な仕事だろうな、と那由汰は感心していた。
「そっか。じゃあ、那由汰が起きたら一緒に弄ってみようぜ」
「はいよ」
「……」
「……珂波汰?」
「やべー……」
きょとんとした那由汰が体を起こそうとすると、珂波汰がぎゅっと抱きしめてきた。
「ちょ、どうしたんだよ珂波汰」
「嬉しすぎてどう表現したらいいのか、わかんねーんだって」
「……それで、これかぁ」
笑いながら、那由汰は珂波汰を抱きしめ返した。慣れない喜びが、珂波汰の小さな体の中で行き場をなくして、熱になっている。ばくばく高鳴る鼓動を抑えてやるように腕を回して、ぎゅう、と包みこむ。
「……あれ。那由汰、ちょっと手冷たくね?」
「バカ。珂波汰が布団ひんむいてはしゃいでるからだよ。冬の朝のこのアパート、どんだけ寒いと思ってんだ」
「っとと、そっか。悪い」
それから、冷えた手を温めあうようにまた二人で布団にくるまって、こんなにめでたい朝くらいは、ゆっくり二度寝しようということになった。それまで離れていた分の時間、いっぱい、めいっぱい、お互いの熱を感じていようと思った。
一年に一度やってくる、十二月の二十四日。
それは生まれてからその時までで、きっと一番素敵な冬の日だった。
たとえ、そのために選んだ道が、後戻りのできないものだったとしても─その時の那由汰は心から、良かった、と思っていた。
「それじゃあ珂波汰くん、喜んでくれたんだ」
クリスマスが過ぎて、乾いた寒風が吹く、あの廃ビルの屋上。那由汰はいつものように四季とそこで会い、サンタの真似事の結果報告をした。
「おお、ばっちりだよ。もう、すっげーはしゃいじゃってさ」
「そっか……良かったね、那由汰くん」
四季もまた、嬉しそうに笑っていた。人の嬉しいという気持ちを、自分のことのように一緒に感じられる。それが四季の温かさだと、那由汰は思った。
「俺さ、今までサンタクロースって、何が楽しくて、雪の降る寒い夜に駆けずり回って、わざわざガキにプレゼント配るのかなって思ってたよ。でもなんか、ちょっと気持ち分かったんだよな」
「意外と天職なのかもね、那由汰くんの」
「やだよ、天職ったってサンタじゃ金になんねーよ」
二人の笑い声が、くすくすと風の中に響いていた。
ふと、風が止んだ時─四季は、ぽつりと尋ねた。
「ねえ、那由汰くん」
「ん?」
「あのバイトのことだけど、まだ続けてるの?」
「ああ、うん」
「……辞めたほうが良いんじゃないかな、もう」
那由汰も、そう言われるような気はしていた。珂波汰にサンプラーを贈るという目的は果たした。けれど、だから辞められるかというと、話は別だった。
そもそも─ステージ衣装代や家賃の足し、洗濯や裁縫にかかる諸々の出費、押し入れの中の貯金。そういう細かな生活の助けとしては、ずっと使ってきた物だったのだ。
特に治験のペースを上げてからは、いっそう生活は楽になった。珂波汰の稼ぎに手を付けてまで衣装の質を上げる必要もなくなったのだ。
「無理。あのバイト、払いが良いんだ。これ以上、俺のことで珂波汰に迷惑かけたくねーし……」
「でも、きっと珂波汰くんは迷惑だなんて─」
「四季にはさ、珂波汰のことわかんねーだろ。会ったこともないのに」
しぃん、と、静寂が支配した。
言ってはいけないことを、言ってしまった気がして、那由汰は眉を顰めた。けれどもう譲ることのできない思いがあった。
「それじゃなくたって、珂波汰はずっと、俺だけのために生きてきたんだ。サンプラー一つくらいじゃ全然、釣り合わないくらい……ずっとずっと、俺を助けて生きてきたんだ」
「……だから、那由汰くんはこれからずっと、珂波汰くんだけのために生きるの?」
「間違ってるって、言いたいのか?」
「……ううん。そんなこと、僕には言えない」
四季は首を横に振った。でもその瞳にはまだ、澄んだ、まっすぐな光が灯っていた。
「でも、僕だって助けたいんだ」
「だから、四季に金のことは……」
「お金じゃないよ。それが那由汰くんのプライドだったら、僕は踏みこまない。でも……僕も少しくらい、那由汰くんのために生きてみたいよ」
「……四季」
「だから、本当に、本当に困って、どうしようもなくなった時は僕を頼ってよ。僕は……那由汰くんのこと、友達だって思いたいから」
「……ったく、会った時から変わんねーやつ」
ふん、と那由汰は意地を張るような態度でそっぽを向いて─それから、我慢できなくなったように、くすり、と笑った。
「分かったよ。本当の本当に、どうしようも無くなった時は……四季、お前を呼ぶ」
「……うん!」
「その時はまあ、できる範囲で助けてくれりゃいいや。四季、正直頼りないし」
「えっ、ひ、酷いなあ。……頼りがいがあるとは言えないけど」
「ははっ、悪い。ま、覚えてたら、くらいで頼むわ」
「……約束だよ、那由汰くん」
「おう、約束な。約束」
そんな約束を思い出すのが、あんな瞬間でなければ良かったと思う。
「─あ?」
それは、四季とのあんな会話も忘れそうなくらい、穏やかに時が過ぎてからの─とある、何でもない日のこと。
珂波汰の居ない、夜のアパートの部屋で、それは起こった。
そのころ、全ての変化は緩やかに回っていると思っていて、だから那由汰は薄々と感じながらも、まだまだ自分には時間があると思いこんでいた。
けれど、本当の変化は、急激に訪れるものだった。
ステージ衣装に使おうと思って、買ってきたばかりの服。自分の丈に合わせれば、珂波汰の丈にも合うから、少し裾を詰めようと思って針を取った時だ。
なぜか指先から、ぽろり、と針が落ちてしまった。
人差し指の先に、感覚がないことに気づいた。
そこは以前、治験のバイトの際に使った指だった。何か試作品とかいう、無垢のシンプルなファントメタル製の指輪をつけたんだったと思う。
爪の中を見ると、うっすらと変色していた。血が通わない青ざめた肌というよりは、奇妙な鈍色で─、
「え、あ」
頭の中で、ぱきん、と音がした。
凄まじく気持ち悪い自覚症状があった。その音とともに、何か自分の中から〝記憶が欠け落ちた〟ような感覚があった。じんじんと頭が痛んだ。吐き気が襲ってきたが、吐いてしまったらまた何か〝欠ける〟ような気がして、必死にこらえた。自分の中から何がなくなってしまったのか、ぐるぐる頭を巡らせた。でも自分でも分からなかった。たぶん、何かを忘れてしまったような気がしたのだが、何を忘れたのか分からなかった。
一瞬で、決定的に〝自分が欠けた〟ことだけを理解した。
それは想像以上に恐ろしいことだった。もし、自分が自分じゃなくなった時、それを自分では気づけないということが、とてつもない恐怖として襲ってきた。
「あ、ああ……! あ、やだ、珂波汰。珂波汰っ……」
しばらくのたうち回ってから、何度か深呼吸を繰り返すと、ようやく症状が治まった。
けれど恐ろしいのは─症状が治まっても、〝欠け落ちた何か〟は戻ってこなかったことだ。間違いなく、ぽっかりと何かが失われたままだった。
次に、この発作が来たら、その時、自分は生きていられるのだろうか。
「………………」
落ち着いてきた頭が、様々なことを考えた。たった今、限界を迎えた際に、那由汰は珂波汰を求めた。でも─、
「…………珂波汰に見せて、どうすんだよ」
もし自分が逆の立場だったらどうだ。目の前で、自分の片割れが苦しんで、もしかしたら目の前で死んで─いや、最悪なのはそれじゃない。
もし珂波汰の目の前で……自分の中から、珂波汰との記憶が欠けるようなところを見せたら。もし、自分が珂波汰のことを分からなくなったら。もし、自分の体がメタルにまみれて動くこともできなくなったら。
そして、もしそうなった自分が、〝死ぬことすらできなかった〟としたら。
これからの珂波汰の人生に、全て背負わせてしまう。
きっと、HIPHOPなんてやってる場合じゃなくなる。だって、珂波汰は那由汰を見捨てないから。どんなに足手まといになっても、背負い続けて行くと分かっているから。
「……ダメだ。最後の最後まで、珂波汰に背負わせたくない」
冷静な頭ではなかったけれど、それだけはダメだと感じていた。
「そんな、重荷には……なれない」
頭を抱えながら、那由汰は震えていた。耳の奥で、ぱき、ぱき、と微かに音が鳴るような気がして怖かった。怖くて、怖くて、けれど、やらなければならないことは浮かび始めていた。
でも、怖くて、怖くて。その覚悟を決めるのは、やっぱり怖くて。
だからそんな時に、思い出してしまったのだ。
まだ、最期に縋れるものがあったことを。
四季との─友達との、約束を。
「那由汰くん、どうしたの? 急に会いたいだなんて……」
そして、あの夜がやってきた。風の強い夜だった。
急に呼び出したのにも拘わらず、四季はすぐに、あの廃ビルの屋上へとやってきた。少し息を荒らげながら─たぶん、急いでやってきてくれた。
その時、もう那由汰の頭は、かなり朦朧としていた。
「ごめんな、四季」
謝罪が、最初に口をついて出た。
「どうしても、最期に会っておきたくて」
「─え?」
四季は戸惑った顔をしていた。無理もないと思った。急に言われたって、四季だって困るだろうことは分かっていた。
「あと、前に借りたレコード、返してなかったろ? ほら、その足元に置いてあるヤツ」
「……それなら、どうして直接、僕に渡さないの? ……ねえ、どうしてそんなところに立ってるの? 強い風でも吹いたら、危ないよ」
「吹き飛ばされて落ちそう、だろ?」
「那由汰くん……?」
焦りがあった。急いで、伝えたいことを伝えなければならないと思っていた。
「ごめんな、やっぱ四季の言ったこと、当たってたわ。俺、もうダメなん─」
「那由汰くん!」
肺を破ったような咳が出た。ああ、畜生。もう少し頑張れよ俺の体。まだ、もう少しだけ時間をくれよ。まだちゃんと言わなきゃいけないことがあるだろ。那由汰はそんな風に、必死に自分の体に言い聞かせた。
「…………この腕、見てくれよ」
袖をまくって見せると、四季の目には驚愕と、怯えが宿った。無理もない。そのころにはもう、指先から広がった変色は、片腕をまだらに染めるほどに体を侵していた。
「メタルの侵食、もう止められないんだ。あっという間に、こんなに進んじまった。…………こんな姿、珂波汰には見せらんねえ。そんなことしたら、今まで以上に迷惑かけちまう─」
四季が何か言っていた。
「だから、終わらそうと思うんだ」
四季が何か言っていた。
「俺、四季と出会えてよかった。楽しかった」
四季が何か言っていた。耳がぐわんぐわんと、雑音しか拾わなかった。
ごめん。ごめん。謝らなければいけないと思った。その時はもう、頭の中ががちゃがちゃして、目の前の景色もぼやけていて、何も聞こえていなかった。
「ありがとな」
違う。お礼じゃない。
謝らなきゃいけないんだろ。
「─ごめん。俺、弱ぇからさ……独りじゃ無理だったんだ。けど、最期はここにするって決めてて……」
薄ぼんやりと滲む景色の向こうに、四季の顔が見えていた。
ああ、ごめん。そんな顔をさせたかったわけじゃなかった。もっと言いたいことがたくさんあって、もっと感謝したいことがたくさんあって。
風が、そっと体を押した時には、重力を忘れていた。
「あ─」
空を仰げば、滲んだ視界の向こうで、星がきらきらと煌めいていた。
「─空が、きれいだ」
良かった、最期に見られた景色が、こんなに綺麗で。良かった。珂波汰に背負わせないように、終わらせることができて。良かった、最期に見届けてくれる、友達がいて。
最期くらいは、ちゃんとできた。
苦痛でぼんやりした頭に、そんな満足感が満ちて。重力から解き放たれて、体がビルから空に舞っていく。辛いもの、苦しいもの、全部置いていくみたいに─。
走馬灯のように過去が見えるのは、本当らしかった。手摺を乗り越えて落ちる短い時間に、ぐるぐる、ぐるぐる、色々なものが巡った。珂波汰のこと。珂波汰のこと。ところどころ虫食いみたいに欠けたけど、珂波汰のことばかり思い出した。
ああ、いいや。
これで終わりでも、最期にまだ、珂波汰の思い出を抱いて逝けるんなら、良い。
「─那由汰くんッ!」
─あ。
脳のどこかの回路が、偶然繫がってしまったようだった。落ちていく瞬間、ぼやけた意識の中で一瞬聞こえた声に、視界が明瞭になった。
四季がいた。
その瞬間まで、四季のそんな表情を見たことは無かった。那由汰にとっての四季は頼りないけれど、決して弱くはなかった。暖かな笑顔をくれる少年だった。
なのに、落ちていく一瞬、目に入った四季の顔は……涙でぐしゃぐしゃだった。
悲痛と、後悔と、絶望が、全て涙になって溢れたような顔。
─四季にそんな顔をさせたのは、自分だ。
ビルから落ちる最後の瞬間、那由汰の網膜に焼き付いたのは、綺麗な空でもなく、楽しかった思い出でもなく─自分の行いが引き起こした結果だった。
「─ああ、ああ……」
結局、根っこのところは何も変われていなかった。
助けられるばかりじゃダメだなんて、身の丈に余る無理をして、自分の体を痛めつけて、結局最後は他人に押し付けた。最期の最後まで、人に押し付けた。四季に背負わせた。暖かな笑顔の似合う、その顔を歪めさせた。
四季は、これからどうなる。目の前で見つめた死を背負って生きていくのか。
珂波汰は、これからどうなる。たった一人で、このクソみたいな世界を生きていくのか。
その瞬間に、那由汰はやっと気づいた。
これは、誰一人幸せにできなかった、終わり方だ。
「…………あ。ああぁぁ……! 畜生…………畜生……っ!」
空が遠のいていく。背中に地面が近づいてくる。
ダメだ。このまま死んじゃダメなんだ。それじゃ、結局、呪いばかり残していく。
謝らないといけないことが、まだたくさんある。
感謝しなきゃいけなかったことが、まだたくさんある。
満足感なんて、とうに消えていた。バチバチ軋む意識の底から、栓が壊れたように湧いてきた後悔が、頭を満たしていた。
死にたくない。死にたくない。まだ死んじゃダメだったんだ。
ごめん、珂波汰。ごめん、四季。謝らせてくれ。もっと、もっと。ああ、畜生。何も摑めるものがない。落ちていく。自分から全部、命まで、勝手に手放して。
珂波汰。やっぱり俺、いい子じゃなかった。
でも頼む。神でも悪魔でも良い。サンタクロースだって構わない。叶ったらこれから先の人生、クリスマスプレゼントなんて一つも要らないから。
だから、もう一度。
たった一人の兄弟のために、ちゃんと頑張らせてくれ。
かけがえのない友達のために、ちゃんと謝らせてくれ。
どうか、もう一度─。
「─そこから先は、話した通り。俺は病院に運ばれて、アルタートリガーの連中に治療された。皮肉な話で、ファントメタルの適合率が高いせいで限界になった俺の体は、その特性のおかげで、手厚く治療されたってわけだ」
長い、長い懺悔だった。
いつの間にか空の色は変わっていて、夜の帳がビルの向こうまで降りていた。
冷たい風を、肺一杯に吸いこんで、那由汰は続けた。
「俺が助かった理由があるとすれば…………たぶん珂波汰と、四季のおかげだったんだ」
「……でも結局、那由汰くんを助けられなかった。あの時、僕は手を伸ばせなかったんだよ。ごめん、那由汰くん……僕……」
「謝んな!」
那由汰は強く否定し、首を横に振った。
「届いてたんだよ。四季の手は。体じゃなく、心には」
「……え?」
「あの時、四季が呼んでくれたから、俺は最期の最後で〝死にたくない〟ってことに気づけた。その時、確かに……体の中を食い破っていくメタルの毒に、抵抗できたんだ」
「……那由汰くん」
「ありがとう。それと、ごめん」
そうして、那由汰は深く頭を下げた。
シンプルだけれど、悲痛なまでの想いが籠もった謝罪であることを、四季は感じていた。友達だったから、伝わった。
「四季を傷つけた。珂波汰を一人にした。どんだけ謝ったら許されるのか、わかんねーけど……俺にできることがあったら、二人とも、なんでも言って欲しい」
「…………」
四季はしばし、そんな那由汰の姿を見つめていた。
ふと、四季の視線が、隣にいる珂波汰の視線と交錯した。その目は、「四季の選択に任せる」と言っているようだった。
やがて、四季は言うべき言葉を決めた。
「じゃあさ……那由汰くん」
「……なんだ?」
「僕、ちゃんとラッパーとして競い合ってみたいな。〝本当のcozmez〟と」
珂波汰も、那由汰も、思わず一瞬〝ぽかん〟とした。
「結局、Paradox Liveで競い合ったのは、幻影の那由汰くんが居るcozmezだった。それに、僕も最初のうちは、まだラッパーとしての覚悟ができてなかった。それって、すごく勿体ないんじゃないか、って。あと─」
それから、四季はおずおずと笑みを浮かべて、今度はしっかり、手を伸ばした。
「─The Cat's Whiskersだって、凄いチームなんだよ。ちゃんと見せたいな、二人そろったcozmezに……ステージに立つ、僕たちを」
そして拳を握る様に、突き出して見せた。
穏やかすぎて─それが挑戦状だと、気づくのに時間がかかった。
珂波汰と那由汰と、二人、顔を見合わせて……先に、珂波汰が笑った。
「っは! だってよ、那由汰。……お前の友達、良い性格してんじゃん」
少し遅れて、那由汰も笑った。
「……ったく、マジでな。こいつ、こういう奴だったんだよ。バカみたいに真っすぐで、妙に図太くて」
「でもよ。最初にやりあった時の〝MC名無し〟より、今のほうが怖ぇな」
「四季はラッパー向いてると思ってた。度胸が伴ったら、なおさら」
「そうだな。そんな奴のいるチームが相手じゃ─今度は〝本当のcozmez〟で迎え撃ってやらねぇと」
「……っは、そういう流れかよ。分かった……今まで寝てたぶん、働けっつーことな!」
珂波汰と那由汰。
同じ顔、同じ命を分け合った二人が、拳を突きだし、四季の拳にぶつける。今度はそれぞれが手を伸ばしあい、届いた感触が、確かにあった。
四季は、胸の高鳴りを感じていた。Paradox Liveが始まった時、cozmezの存在に怯えていた時とは違う、心地よい緊張感。
その時、四季はついに真のcozmezと……友達としてじゃない、ラッパー同士として向き合っていた。
「那由汰とだから、意味がある。見せてやろうぜ」
「珂波汰とじゃなきゃ、意味ないもんな。見せてやるよ」
二人、四季に拳を合わせたまま。
触れ合った肌から、振動を伝えるように、声を重ねた。
「「─二人でいれば、最強だ」」
夜空には、星が煌めいていた。
いつかの夜よりも、遥かに明るく、力強く─鮮明に、輝いていた。