青空に白雲の流れる、晴れた日のことだった。
Paradox Liveにおける賞金、百億円。
それを元手に翠石組の立て直しを夢見ていた悪漢奴等の面々であったが、優勝チームはcozmezという結果で、一連の騒動は区切りを見た。
しかし「転んでも何かを摑んで立ち上がれ」が信条の悪漢奴等。Paradox Liveではトップを逃したものの、見事CLUB paradoxを始めとした人工浮島再開発プロジェクトという大きなシノギを摑みとり、翠石組の再建は大きな一歩を踏み出した。
Paradox Live開催中はもちろん、大会の結果が出てからも相変わらず大忙しの悪漢奴等であったが、ようやく少し暇ができ……その日は諸々の報告も兼ねて、全員で組長の墓参りへとやってきたのだった。
「……ご無沙汰してすまんかったなぁ、オヤジ。とりあえず、やっとええ報告持って来れるようになったさかい、顔見せに来たで」
「このまま努力を続ければ、私たちの翠石組がもう一度立ち上がれるかもしれません、オヤジさん。……ぐすっ……若も本当に頑張ったんですよっ……翠石組の再建だけじゃない、実はその裏でcozmezという前途ある少年たちの行く末まで気を遣っていたんですっ……若は本当に器が大きいっ……私は本当に素晴らしいカシラに出会ったものです……!」
「いや、ええやろその辺は~。誰に説明しとんねん」
「オヤジさんもそのほうが分かりやすいかと思いまして……」
「なんに向けての配慮や!」
「おぉーい! 水汲んできたぞー! 玲央! テメーもバケツ一個くらい持てや!」
「えー、やだよ~。そういう仕事はおサル向きでしょ~」
「花も……こんな感じでいいかな」
依織と善がさっそく墓前漫才していると、紗月と北斎が水桶と花を持ってやってきた。一緒に玲央もいるが、当然のように手ぶらであった。
「お~う、三人ともお疲れさん。……て、北斎? ようあの予算でこんだけ花買って来れたな~。こらオヤジも喜ぶわ」
「玲央が花屋さんのお姉さんと握手したら、安くしてくれた。飾り付けもかわいくしてくれたし、良い人だった」
北斎の言葉で、全員が玲央を見る。紗月は特に複雑そうな顔だった。
「てめぇ、ふつー墓に供える花値切るか!? こんなとこまでチャラつきやがって!」
「え~? 僕ちょっと分かんない。紗月が美人の店員さんと話すの恥ずかしそうだったから、代わりに話したらなんか安くしてくれただけだよ?」
「そういうとこだよ! そういうとこ!」
「あ……ソープフラワーで作ったテディベア入ってる。かわいい」
「墓前の花にテディベアってなんだよ! センスおかしいんじゃねえか玲央!」
「それは僕のせいじゃないでしょ~。サービスだよサービス」
「あーあーもう、お墓でまでこの子たちは……」
ギャーギャー始めた紗月と玲央に、お母さんめいた態度で仲裁に入っていく善。そしてマイペースに花を飾っていく北斎。まったくいつも通りである。
そんな様子を見て、依織は笑い交じりの溜息をついた。
「ったく、変わらんやっちゃなぁ~お前ら。ほら、落ち着いたらお参りするで」
相変わらず、賑やかに騒ぐ悪漢奴等の面々。お約束のドタバタを終えた後は、しっかり墓前に向き合わねばならない。
しかし、いざ墓を目にすれば、表情の強張るものがいた。紗月と、玲央だ。
無理もない。墓参りとは即ち、死を直視する行為に他ならないからだ。
特に、カメラを向けられて発作的なフラッシュバックを起こしてしまうほどのトラウマを抱えている玲央は、墓前に立てるかどうか、事前に依織に心配されていた。
「……お前ら。まだキツかったら、無理せんでもええよ。オヤジも苦い顔させんのは、本意やないと思う」
依織の言葉に、玲央が頷いた。
「ごめん、兄貴。ちゃんと顔見せなきゃ、って思ってたんだけど」
「ええて。ここまで来れたら、オヤジもちゃんとお前らのこと見とる。開けたところで、少し風に当たって来るとええ」
「……うん。ごめん、甘えさせてもらうね。僕の分まで、よろしく」
そう言って、玲央は墓前に手を合わせるのを依織たちに任せ、その場から離れた。
ぬるい風が吹いて、玲央の頰を撫でる。
まだ受け止め切れないこと、顔を見せにいけないこと、玲央も申し訳なくは思っている。紗月は玲央についてこない。きっと、頑張って墓前に手を合わせている。
けれど、辛いことを辛いと認めること、甘えたい時に甘えることが、玲央にとっての、家族への愛だった。翠石組に心から受け入れられた、あの日から。
まだ、翠石組に起きた惨劇とは、まっすぐに向き合えない。けれど逃げ続けるだけでは、あまりに寂しすぎるから。
せめて玲央は、そんな悲しい記憶よりもっとずっと前の……翠石組が、自分の〝家族〟となってくれた日々の記憶に、寄り添っていた。
それは、翠石組に拾われる前の記憶。
誰に助けを求めたのか分からない。
けれど、叫んだその瞬間、颯爽と〝彼〟は現れた。
ガラの悪い男たちに追われ、逃げこんだ路地裏。頼れる者など何もなく、縋れる家族も最早居ない。そんな玲央が、追い詰められた最後の最後、思わず叫んだ「助けて」の一言。届くはずのないその声を聞いて、割って入った男がいた。
見た目以上に大きく見えた背中。優しい声。そして、刃のように鋭い眼。
疾風の如く現れて、嵐の如く大暴れ。そして、玲央を助け出したそのあとは、晴れ間のように微笑んで見せた。
絶望の闇に射した、眩い光。少年にとっての救世主。
それが円山玲央が最初に目にした─翠石依織という〝拠り所〟の姿だった。
話は、玲央が依織に救われてから、しばらく後のこと。
まだ六月の末、その日は真夏を先取りしたようにやたらと晴れていて、少し早く目覚めた蟬の声が、窓の外から響いていた。その当時、十四歳のころの玲央は、翠石組で雑用めいた仕事をしていた。
「……えっと、書類の整理、終わりました」
「おう、お疲れさん。円山はよく働くなぁ。オヤジも頑張るなぁ~って言ってたぞ」
初老の組員が褒め言葉を告げるが、玲央の表情に笑顔はない。
書類棚ひとつ片づけるのに、ずいぶんと時間をかけた。ほんの雑用であるが、猫の手ほどの助けにもなっていないのは、玲央もよく分かっていた。
「あの、他にありませんか……何か……仕事とか……」
「おう、今んとこ特にないな。まー今日はヒマだし、ゆっくりしてな」
「……はい」
そのころの玲央は、現在からは信じられないほどに、過剰に気を遣う少年だった。
翠石組に来る前……玲央には多忙だが優しい母と、多少自堕落だったものの明るい父がいた。
両親の仲には最初からひずみがあったが、それを決定的に壊したのは玲央だった。留守の多い母の愛を確かめたくて、過剰に甘え、わがままを言った。
結果、母は家に帰ってこなくなった。やがて借金を残し、父も帰ってこなくなった。残された玲央だけが、借金取りに追われる日々を送る様になった。
そんな玲央を助けに入ったのが、依織だった。
もうダメだ、と思った時に「ガキ相手にセコい真似してんじゃねえよ」と颯爽と飛びこんできた依織の神々しさを、玲央はずっと覚えている。
何もかも失い、愛情を信じられなくなった玲央にとって、唯一信じられる存在。
家族の代わりの拠り所。それが、依織という男だった。
しかし……まだそのころの玲央にとって、翠石組は心許せる場所ではなかった。腕っぷしもない十四の少年にとって、ヤクザという組織でできる仕事は少なかった。
大人に甘え過ぎれば、愛想を尽かされる。かといって、裕福な暮らしをしていた玲央は、不良上がりの若い組員には馴染めない。ヤクザという職種であっても、若くして「自分の力で生きて行こう」という生き様には、コンプレックスを刺激された。
だけど、他に行き場はなかった。そのころの玲央は、まだ〝置いてもらっている〟翠石組という場所を守るのに、必死だったのである。
だから、玲央は仕事を作ろうとした。必死に、そこにいる意味を探していた。書類整理が終わった後は、拭いたあとのテーブルをもう一度拭いたり、埃も落ちていない床を掃除したり……とにかく、動いていた。
そういう痛々しい姿が、十四歳のころの玲央の全てだった。
「─おう、お疲れさん」
玲央がとうとう手持ち無沙汰になったころ、依織が外出から帰ってきた。
「あ……依織さん。お疲れ様です」
「ったく、呼ぶ時は兄貴で良いって言っただろ? 玲央も俺もオヤジの子分なら、俺たちは兄弟分。ヤクザってのはそういう組織だ」
「は、はい。兄貴」
そのころの依織は、まだ組長を模した関西弁を喋っていなかったが、気さくで面倒見のいい性格はそのままで、いつも恵比寿さまのようにニコニコしていた。そんな依織の前では、玲央も多少は柔らかい表情を浮かべることができた。
けれど、ふと、玲央は部屋の扉が開いたままであることに気づいた。その視線を感じれば、依織もまた開いたままの扉のほうへ声をかけた。
「そうだ、紹介しねーとな……おう、入りな」
「ウス!」
なんだか、暑苦しい声が聞こえてきた。
見覚えのない、ずいぶんと威勢のいい少年が、扉から姿を現した。依織は少年の肩を抱くようにして、玲央をはじめとした、室内の組員たちに声をかけた。
「オヤジにも話は通してある。今日からウチの組で面倒見ることになった、紗月だ」
「伊藤紗月っす! 依織の兄貴の漢気に惚れて来ました! 世話んなります!」
─うわ暑苦しい。と、玲央は真っ先に拒否感を覚えた。
ただでさえ組の若衆とは折り合いが悪いのに、この上また仲良くできなさそうな人間が増えるのか、と憂鬱になった。と同時に、〝依織に惚れた〟というその動機が、玲央に少しもやもやした物を宿らせていた。
一方、組員たちと言えば
「おーこれまた威勢の良い」「今どき珍しいタイプすね」「依織はガキに好かれるなぁ」「犬猫拾ってくるような感覚で子分増やすわコイツ」「しかし顔に似合わず可愛い名前やの」「俺ぁ気に入った。いっちょ立派な男にしてやろうじゃねえか」─……と、割と好評だ。
まあ、玲央が来た時も歓迎ムードだった。この組は基本的に、組員が信頼した相手であれば来るもの拒まぬ組織性らしい。
「押忍! 俺、ぜってー立派な漢になって見せるんで! ヨロシクっす!」
まるで空手部にでも入りにきたかのようなテンションの紗月は、組員一人一人にオーバーアクションで頭を下げていくと、玲央の前で一度止まった。
しばし目線がぶつかった後、依織が口を挟んだ。
「おう紗月、こいつは玲央だ。お前より少し前に、俺のツテで組に入った。一応、少しばかり先輩ってことになるな」
「え? ……でも兄貴、こいつ俺より年下じゃん? 兄貴の言うように組員が兄弟同士だったら、一応俺のほうが兄貴分ってことになんのか?」
……実のところ、紗月のセリフは、自分より幼い少年が組に入っていることへの気遣いと、年上なりの責任感であって、ケンカを売る意図は無かった。
だが、ただでさえ「苦手なタイプ」と思っていたところに、ズケズケとした物言い。まして自分よりも新入り。古参の組員ならいざ知らず、玲央が面白くないのは当然だった。
つまり、玲央は〝かちん〟と来てしまった。
「……へー。紗月ちゃんって言うんだ。僕は円山玲央、よろしくね」
「あ? 〝紗月ちゃん〟?」
「ああ、ごめん。かわいい名前だったからつい。女の子かと思って」
「アァ!? んだテメーコラァ! ケンカなら買うぞオラァ!」
「……あと、一応僕のほうが先に組に入ってるから。君にとっては僕のほうが兄貴分ってことで。あと、兄貴に助けてもらったのも、僕のほうが先だし」
「はぁ!? ざっけんなボケぶっ殺すぞ! テメーが兄貴とかぜってぇ認めねえ!」
「わっはっはっはっは、さっそく面白ぇなお前ら」
二人のやりとりを見て大笑いする依織。組員も組員でその様子を微笑ましそうに見守っている。
唯一、困った顔をして声をかけたのが善だった。
「君たち! 騒ぐエネルギーがあるなら筋トレしなさい筋トレを! スクワットがおすすめだ! 筋肉量の大きい下半身を追いこめば、たいていのイライラはなくなるぞ!」
「や、それはお前だけだぞ、善」
ちなみにこのころ、善も依織を〝若〟ではなく〝兄貴〟と呼んでいた。
「ちょっと兄貴……! 良いんですか、あの子たちさっそくケンカしてますよ? 多感な時期の子たちなんですから、もっと間に入ってあげたほうが……」
「良いじゃねえか賑やかで。それに、こんな玲央、ちょっと珍しいだろ?」
「た、確かに、いつもの玲央君に比べると肩の力が抜けているような……」
「だろ? それより善、オヤジが言ってた、夏祭りの手伝いの仕事、誰に任せるのか、もう決まったか?」
「え、今その話ですか? それが、皆この時期は色々忙しいみたいで……もともと祭りではテキ屋の準備もありますし、CANDYの運営も忙しい時期に入りますしね。町内会長の頼みとはいえ、〝祭りを盛り上げる出し物何かお願い〟というふわっとした仕事は適任者が……」
「んじゃ、ちょうど良いな」
ぽん、と手を叩き、依織が一歩前に出た。
そして、野良猫の縄張り争いのようにぎゃーすか言い合っている二人の肩を叩いて、笑顔で言い放った。
「おーし。お前ら、これから二人でコンビ組め」
「「えっ」」
玲央も紗月もほぼ同時に振り向いた。依織は相変わらず笑顔だ。
「今度やる夏祭り、うちの組も手伝うことになってる。これからお前ら二人が、夏祭りの出し物を考える責任者ってことでよろしく」
「「こんな奴と!?」」
綺麗にハモる紗月と玲央を見て、組員たちは「あ、仲良さそうだなあ、こいつら」という表情を浮かべていた。大真面目に心配する、善以外は。
紗月と玲央は明らかに不満そうに、お互いを睨み合っていたが……依織がそれぞれの肩を叩くと、ハッ、と姿勢を正した。
「今度祭りを手伝うことになってる商店街は、今でこそ寂れちゃいるが、昔っからこの地域を支えてきた老舗ばっかだ。ウチの組もずいぶん世話になってる。そういう義理を人情で返すのが、昔ながらの翠石組のやり方だ。最近下火になってるっつー夏祭りを盛り上げる、心底ワクワクするような面白ぇもんを考えてほしい……これは若いお前らだからこそできることだ。任せたぞ、良いな」
「は、はい!」
憧れの兄貴の組に入り、さっそくの初仕事。「任せた」と言われれば、男なら奮起せずにはいられない。紗月の気合は十分だった。
一方、玲央は─
「…………がんばり、ます」
─仕事だ。兄貴直々に任された、大仕事。失敗できない。自分は普段から組のお荷物のようなものなのだ、もしここで「できない奴だ」と評価されてしまったら……。紗月とは違う、不安から追い詰められていく緊張が、玲央を襲う。
そんな玲央の表情を、依織は目を細めながら見つめていた。
ヤクザのシノギと言っても色々あって、事務仕事が必要になることも多い。
特に翠石組は、パチンコやキャバクラ等の店舗経営が大きな収益源であった。コミュ力と経営力に長けた依織は若手でありながら、既にそういった事業をいくつか任され、事務所内に専用の机をもらっていた。
その日の善は、胸を張って、キビキビと迷わず依織の机にやってきた。
「兄貴、本当に良かったんですか?」
「あ? 何が」
「あの二人を組ませて数日経ちますが、案の定ケンカばかりですよ」
「あー、その話か。なんだ、そんなに心配か、善」
「心配ですとも! もともと紗月君にはケンカっ早いところがありますし、玲央君は色々抱えてるでしょう? ここに来たばかりのころはもっと酷かった。少しずつですが、最近ようやく会話してくれるようになってきたところなのに……」
「大丈夫だって。ガタイのわりに心配性だよなぁ、善は……ああいう時期はな、歳が近くてぎゃーぎゃー言い合える奴がいたほうが良いもんだ」
言いながら、依織は机に並んだ書類の間に、ちょこん、と鎮座する小さな写真立てへ視線を落とす。それに気づくと、善は少し眉を顰めた。
写真には、まだ高校生ほどの若かりし依織が、幼くヤンチャな笑みを浮かべて写っている。そこにはもう一人、依織と同じくらいの年齢の少年……神林匋平がひねくれた顔で並んでいて、善はそれを見るとほんの少しだけムキになるのだ。
そんな善の様子に気づいて居るのか居ないのか、依織は窓の外へ視線を向けた。
「最近は夏日が続いてたが……今日はたぶん、一雨来るな」
「え? 天気予報では晴れと言っていたようですが」
「分かるようになるんだよ、こういう仕事してるとな。……お前はどうだ、善。傷跡、雨が近いと痛まないか」
「ああ」
言われて気づいたように、善は脇腹を撫でた。
「平気ですとも! ここ最近は特に、外腹斜筋を重点的に構ってやりましたからね! 近頃はサイドベントに加えてロシアンツイストがマイブームで、ビルドアップに伴って代謝も上がったおかげか、傷跡ももう薄くなってきましたよ」
「それで大丈夫になんの、お前だけだろうなぁ」
「仮に傷跡が残ったとしても、この傷は……私にとっては勲章ですよ!」
「まあ、善がそう言うのは知ってるけどよ。……だからこそ、本当に〝家族になる〟ためには決定的なきっかけも必要だって、分かってるんじゃないか?」
「……それは……」
そう言われてしまうと、善も口ごもった。
かつて、善は根っから組の仲間というわけではなかった。
子供のころからまっすぐに育った善は元々ヤクザを毛嫌いしており、警察官という職業に就いていた。翠石組と関わったのも、元はとある事情で翠石組の内情を探るという潜入捜査のためであった。
しかし、噓が壊滅的に下手な善だ。警察官としての優秀さに対し、潜入捜査官としてはバレバレもいいところであったが、組員たちは善のまっすぐな人柄を愛し、仲間として迎え入れた。善もまた、内部から翠石組の面々の人柄、そして組長の掲げる翠石組なりの正義に触れるうちに絆されて行き……ある抗争の際、善は依織を身を挺してかばい、銃弾をその身に受けた。
「あの時は驚いたな。警官のお前が、命をかけて俺を守るなんて」
「私はバレバレだったことに驚きましたけどね……」
「バレてなかったと思ったのにも驚きだ。……とにかくよ、中坊くらいのころからヤクザの俺と、元警察官のお前が、今はこうして良い相棒になれてるんだ。玲央と紗月だって、意外と……」
「う、うううううss!」
「あーあーまたそうやって泣く……相変わらず涙腺緩いの、ぜんっぜん直らねぇな」
「兄貴が、兄貴が私のことを、相棒と……神林さんもいたのに私のことを……!」
「お前は元カノを意識する乙女か……」
「ぐすっ、でもですね……やっぱり心配ですよ。上手く二人が仲良くなれば良いですけど」
「いやあ、俺は相性良いと思うがな。尖っちまってる紗月には、守るべきもの。ふさぎこんでる玲央には、頼るべきもの。きっと二人は、互いの足りないものを埋め合える」
「でも……玲央君の抱えている心の傷は、特に深い。それに確か、昔、玲央君を襲った連中はまだ……」
「あー……まあ、それは俺も前々から心配してはいた。そこでだ、善……そんなに玲央が気になるなら、お前に一つ仕事を頼みたいんだが……」
「え、私にですか? ……はい。兄貴の言う事であれば、なんなりと!」
さて、ここまでほとんど登場しなかったが、北斎も既にこのころ、翠石組の事務所に出入りしていた。
といってもヤクザの一員というには微妙な生活で、ふらっと訪れては雑用を手伝って、ふらっとどこかに行っては猫を構って、ふらっと帰って来る。そしてすることがないと、組の近くに居ついた野良猫を構う。そういう生活だった。
若い組員は北斎を見て「実はぬらりひょんなんじゃないか」とか「いや、猫の妖精かもしれん」と噂したりする。一方、古参の大人たちからは、息子扱いされたり孫扱いされたりと、どっちにしろ可愛がられていた。
翠石組の組長たる翠石真悟もまた、北斎を可愛がる一人だった。
「おう、北斎。来てたんか。干し芋食うか」
「いただきます。……あ、組長の服かわいい」
「おー、ええやろこれ。今日暑かったんでな、Tシャツ」
「ねこ」
「虎柄や」
こういった翠石と北斎のやりとりは、なんだか緩い日常マンガみたいで、もっぱら組員の癒やしの種となっていた。なので北斎は、組員に歓迎されていた。
その日、事務所にいた組員は概ね、書類仕事にかかっている様子だったので、北斎は干し芋をかじりながらあたりを見回していた。構えそうな野良猫がいないので、ぼんやりと組員の様子を観察する。
そんな時、北斎はふと、隣の部屋から騒がしい声が聞こえてくるのに気づいた。
「……猫がケンカしてる?」
なんとなくそんな気配がして、北斎は隣の部屋を覗きに行った。
玲央と紗月が、春先の猫のケンカくらいの勢いでケンカしていた。
そういえば、二人のことは依織から聞いていた。何か、依織に頼まれた仕事を協力してやっているはずだが、とても協力の意思があるようには見えなかった。北斎はのろのろとした動きで、こっそり部屋に入って行った。
「だーかーらぁ! 祭りっつったらドカンと派手で漢気溢れるイベントなんだよ! 真夏の度胸試しバンジーコンテストの何が悪いってんだよ!」
「全部悪い! けが人出たらどうするのさ! どうせコンテストやるなら美男美女コンテストのほうがまだ女の子ウケもいいよ」
「ざけんな! そんなチャラついたイベントできっか!」
「はぁ~……紗月ちゃんの発想って、いちいちモテなさそうだよね」
「んだとコラァ! も、も、モテるわ! モテすぎて若干女子の目がウゼーくらいだわ!」
「じゃあ紗月ちゃん、今まで交際経験ある? 定番のデートコースとかは?」
「ぐっ! こ、コーサイケーケンだろ? 余裕だっつーの! デートつったらお前まずアレよ、て、天気のいい公園でな。彼女の作ったサンドイッチを……」
「うわ、噓でしょ? 紗月ちゃん、乙女っぽいのは名前だけにしといたら?」
「てめぇ~~~~っ! 殺す! 今日という今日はぜってーぶっ殺うわああああ!」
怒った紗月が拳を振りかぶった瞬間、ぬっ、と大きな影─北斎が横から現れて、紗月は思わず裏返った声を上げながら飛び退いてしまった。
「お、おお! ビビったぁ……なんだこのデケーの!」
「あ、北斎……」
玲央が名前を呼んだことで、紗月は北斎が組の一員であることを察した。このころ、玲央と北斎はまだ、そう交流があったわけでもなかったが、他の組員に比べれば物静かな分、玲央の苦手意識も薄いようだった。
北斎は二人をちらりと見て、ぼそっ、と呟いた。
「組員同士のケンカ、あまりよくない」
「…………ちっ」
何か言い返そうと思ったが、紗月は振り上げた拳をひっこめた。体が大きく威圧感のある北斎は、驚くほど穏やかに話す。まるで森の大樹のようなその雰囲気は、一過性の興奮を冷静にしてしまう何かがある。結局、声を張り上げるような怒りは収めたものの、玲央にイラついているのは変わらない。紗月は口を尖らせながら抗議した。
「だってよぉ、この玲央ってガキ、俺の意見に散々ダメ出しするんだぜ。自分は何も具体的なアイディア出さねぇくせに」
「僕は組の皆に迷惑かけないように慎重に考えてるんだってば! さっきから紗月ちゃんの考えることって極端だし、真面目にやってほしいのはこっちだよ!」
「この野郎……」
「へ~? 紗月ちゃんは、そうやって反論できないとすぐ怒るんだ」
「なんだとぉ?」
「何さぁ」
「…………」
そんな二人のやりとりに北斎は目を細めて、ぼそり、と呟くように口を挟んだ。
「二人は、どうして組に来たの?」
「どうしてって……」
「俺は、兄貴……依織の兄貴に、助けてもらった」
その名前を聞くと、紗月も玲央もはっとしたように北斎を見た。北斎はそのまま、諭すような優しい声で、ぽつぽつと話を続けていく。
「家族がいなかったから、俺はずっと野良猫と遊んでた。……でも、俺が構うせいで、猫をいじめる人が現れて……みんな、俺を怖がるから。……でも兄貴は、怖がらないで俺を助けてくれた。……だから、ここに来るようになった」
その話を聞きながら、玲央は驚いたように目を開いた。
「……北斎がこんなに喋るの、初めて聞いたかも」
一方、紗月は北斎の話を聞いて、深く頷いていた。
「なるほど……実はよ、俺も兄貴に助けてもらったんだ。ダチのケンカに巻きこまれて年少に入っちまってよ……家族とも離れ離れになって、荒れてあちこちでケンカしてたんだ。そしたらヤクザにまでケンカ売っちまって……そこを助けてくれたのが善兄と依織の兄貴だ。俺ぁ、あの漢気溢れる背中に憧れて、この組に入ったんだ」
紗月が話し終えると、北斎の視線が玲央に向いた。
自然、紗月の視線も向いたので、玲央は〝そういう流れ〟になってしまっていることに気づき、渋々と自分も話し始めた。
「ぼ……僕も、そう。ママが帰ってこなくなってからウチは荒れちゃって……パパが作った借金のせいで、借金取りに追われて……必死で逃げて、もうダメだ! ってなった時……兄貴が助けてくれた。行くとこないなら来ないか、って」
「みんな、兄貴に助けてもらった」
北斎は言葉少なめに、それだけ呟いた。
北斎は、自分も含めた翠石組の新顔の多くが、依織の人柄に惹かれてやってくることを知っていた。だからこそ、そういう話題を振ったのだ。
ケンカっぱやくツッパった態度の紗月と、周囲に壁を作りつつ紗月への対抗心もある玲央。二人は何もかも水と油だ。
だが、依織という共通点さえあれば─北斎なりに、そう考えた結果だろう。
しばし、がりがりと頭を搔くと、紗月はようやく口を開いた。
「……兄貴から任された仕事だ。失敗するわけにいかねーってことは俺だって分かる」
「僕だって……別に文句ばっかりつけたいわけじゃないし」
玲央もそのように、紗月に答えた。
「……しゃーねえ。なあ玲央、センスはお前のほうがあるんだろ? なんかねーのか、こう……祭りをガーッ! と盛り上げる、それでいて翠石組らしいやつ!」
「……えっと、そう言われても」
「なんならミスコンとかでもいいからよ、今度はお前が遠慮なく出してみろよ。〝こういうのがやりたい〟って、もっと具体的なやつ!」
「……」
玲央は言葉に詰まった。そりゃあ、周りを楽しくさせるようなことを考えるのは得意〝だった〟。父に仕込まれた女遊びのテクは、角度を変えれば祭りに若者や女子を集める手段にも使えるかもしれないが、決め手になるとは言えない。
他に何か習ったことと言えば……。
「─はい、ちょいと失礼」
急に気の抜けた声が聞こえてきて、玲央も紗月も北斎も思わず振り向いた。
見れば、翠石が何やら、独特のリズムで歌いながら、部屋の隅から書類を持ち出していた。紗月は思わず姿勢を正し、頭を下げる。
「く、組長! ちわっす!」
「いや、オヤジでええて。どうもナマステ。すまんな邪魔して。どうぞ話して」
「……だ、ダジャレっすか?」
「ダジャレて。なんや自分、知らんのか。今若い子の間でも流行のやつあるやろー。ウチの元組員からもアレやってる奴おるんやけど、曲聴いてたらそれがうつってもーて、つい真似してまうんや」
翠石は目当ての書類を手にするとニカッと笑みを浮かべ「ほな、またな」と軽い調子で事務所へと戻っていった。まったくもって、ヤクザの組長とは思えない飄々とした態度で、緊張していた紗月も肩透かしを食らったようだった。
「オヤジ、なんか流行ってるつってたけど……若者の間でダジャレが流行ってるとかあったか? 俺、何年か年少入りしてたから、微妙に今の流行りわかんねーんだけど」
「……」
「……? おいどうしたんだよ、玲央。考えこんじまって。……なんか思いついたか?」
「あ、いや、でも……」
「良いから言ってみろって!」
玲央が目をそらそうとすると、紗月が肩を摑んで強引に自分の方を向かせた。がっしりとした力強い手は、血の気の多さを表すように熱かった。
「どうせ俺はロクなアイディア出せてねえ。どんな内容でも、お前が思いついたこと言わないと先に進めねぇぞ」
「……じゃあ言うけど」
それでもしばし、玲央は逡巡していた。けれど、これが〝依織に任された仕事〟であることを思い出すと、恐る恐る口を開いた。
「さっきオヤジが口ずさんでたの……ダジャレじゃなくて、ラップじゃないかなって。……もしかしたらだけど、お祭りにも活かせるかも……」
「ラップ?」
「例えば、幻影ライブとかは流行ってるわけで……」
「なるほどぉ!」
その画期的な閃きに、紗月は思わず玲央の肩を思いっきり叩いた。ものすごく痛かったが、玲央は恨めしそうな目をするだけで済ませた。
「でかしたぜ、玲央! そうだよ幻影ライブだよ! それなら俺だってHIPHOPはラップもダンスも好きだし分かるぜ。もし祭りで幻影ライブがやれたら、めちゃくちゃ盛り上がるじゃねーか!」
「ちょ、早とちりしないでよ! そのままやれるわけないじゃん! ラップはともかく幻影は無理! ファントメタルだって使えないのにさー!」
「そうかぁ? でもよ、お前、今〝ラップはともかく〟つったよな。それって、ラップだけならできるってことだろ」
「それは……パパがHIPHOP好きで、僕も教えられたから。ラップできたら女の子にモテるぞーって……」
「なるほど、オヤジの思い出の音楽ってわけか」
紗月の言葉に、玲央は肩をびくりと震わせた。
言われて少し、怖くなったのだ。これは依織直々に任された、きちんと組を通した仕事になる。そんな仕事の発案に、無意識のうちに玲央は、父の思い出を……〝ただ自分のやりたいこと〟を選んでしまったのではないかと。
「……や、やっぱやめよ、紗月ちゃん。これなんか趣味っていうか、道楽っぽいし」
「はぁ? いいじゃねえか、道楽上等。〝ワクワクするような楽しいもの〟を考えて来いって言われたんだぜ。俺だってやろうと思えばラップくらいやれるかもしれねーし」
「で、でもさ、紗月ちゃん……今時地方のお祭りで素人がラップだけやって人集まると思う? 幻影ライブが広く人気なのって、ステージが派手だからだよ?」
「じゃあ幻影出せるラッパー呼べばいいじゃん」
「いくらかかるのさ! タダで参加してくれって言うつもり!?」
「……募集したら一組くらい居ねーかな」
「いーなーい。絶対居ない。紗月ちゃんと公園デートしてくれる女の子くらい居ない」
「てめマジぶっ殺すぞ!」
─そんな会話を隣の部屋で聞きつつ、翠石は「実はアテは居るんやけどなぁ……」とぼんやり考えていた。もちろん元組員である神林のことだが、堅気のラッパーとしてあれこれ苦労した後の神林を組に関わらせて良いものか、そういう遠慮もあって、この場では黙っておくことにした。
あと、単に紗月と玲央のやりとりが面白かったから、ちょっと放っておきたかったというのもあった。
「ともかく! 今時幻影もない素人ラップでお客さんなんか絶対呼べない! そんなのやったって自分たちが楽しむだけで終わりじゃん!」
「自分たちが楽しくねーと、誰も楽しんでくれねーだろ」
紗月の言葉に、玲央は少しハッとした。そう言えば……かつて玲央がHIPHOPを楽しく聴いていたのは……父が楽しそうに、玲央に聞かせていたからだった。
「それに……玲央が言うように幻影が無理なら、幻影の代わりになんか派手なもん置けば客も集まるかもしれねーじゃん」
「また適当言って……派手なものって何さ。幻影の代わりにお神輿でも担ぐつもり?」
「お、良いじゃねーか。それで行こうぜ!」
「でしょ? さすがにそんなの……えっ?」
「〝幻影神輿〟だよ! 幻影ライブがやれなきゃ、幻影みてーにド派手な神輿を作って担ぎながらラップすりゃいいじゃねーか! なんなら幻影ライブより目立つかもしんねぇ!」
─そして、数分後。
紗月はコピー用紙にしばらくペンを走らせてから、玲央と北斎に向けて広げた。そこには何やら絵らしきものが描かれていた。
「どうだ玲央、北斎。分かるか? 俺のクールな絵心が」
「干からびて腐ったキュウリの絵?」
「緑のかたつむり」
「竜だろうが! 竜の幻影神輿の設計図!」
「うっそー!? え、じゃあこのヒビみたいなの鱗なの!? 紗月ちゃんカビ描くの上手だなって思ったのに!?」
「かたつむりのほうが、かわいいと思うけど……」
「うるせえ! さんざん好き勝手言いやがって……じゃあオメーらも描いてみろや!」
「えー……」
ペンを受け取った玲央は渋々、別のコピー用紙に神輿の絵を描いていく。紗月はそれを覗きこむと、片目を細めて首を捻った。
「……いや、蛾の神輿は、ちょっとマニアックじゃね?」
「どう見ても火の鳥でしょ! グラフィティっぽくデフォルメしたやつ!」
「こんなふわふわな火の鳥がいるか!」
「紗月ちゃんのキュウリより全然マシだと思うけどー? ……あー、やっぱ無理だよ無理。僕と紗月ちゃんじゃやりたいことにデザイン力が追っつかないよ」
「プロデザイナーとかイラストレーターとか雇えねーかなぁ」
「だからいくらかかるのさ。神輿の材料代だってあるのに」
「くっそ……せめて身近にスッゲー絵の上手いヤクザが居てくれりゃいいのによー!」
「どんなヤクザなのさそれ。彫師とかならいるかもしれないけど」
「彫師かぁ。俺もタトゥーとか入れたかったし、それも有りっちゃ有り……」
「ん? どうしたの紗月ちゃ……」
ふと、紗月の視線を追って、玲央も顔を向けた。
北斎がコピー用紙にペンを走らせていた。迷いなくすらすらと動くペンは、紗月や玲央の作業と同じことをしているとは、とても思えなかった。
北斎はしばし楽しげに作業に没頭していたが、やがて視線に気づくとペンを置いて、コピー用紙に描かれた絵を二人に見せた。
「虎」
「うっ……上手ぇ!」
「うっそ、北斎こんなに絵上手だったの……?」
「実は、けっこう得意」
ふんす、と鼻を鳴らす北斎は、珍しく得意げだ。
「スゲェじゃねーか北斎! お前が協力してくれれば勝ったも同然だぜ! 俺たちもアイディアは出していくからよ、それを絵でまとめてくれねえか?」
「うん、頑張る」
「でも紗月ちゃん、デザインはできてもそれをどうやって形にするの?」
「あ? デザインができたら後は作るだけじゃねえか」
「……いや、無理。無理でしょ。木材とか、技術とか」
「ああ? さすがに二人じゃ無理かもしれねえけどよ、きちんと設計して、あとは力自慢の兄貴たちに手伝ってもらえば─」
「それじゃダメだよ!」
ぴしゃり、と玲央は断言した。
「……これは僕たちが任されたんだもん。だから、ほかの組員の人たちに迷惑かけられない……神輿作りなんて、どれだけ時間と手間がかかるか……」
「……いや、迷惑とは違うんじゃねえの? それ」
「ただでさえ、僕たち若手だし、新顔だし、ラップやりたいなんて言い出してるのに……どんなものだってやるんだったら、自分たちの手でやらないと、認めてもらえない。結局〝使えない〟やつって思われたら……組に居られるかどうか……」
「玲央、お前……」
紗月を相手にしている時こそ、玲央はのちの悪漢奴等でのような明るさを見せていたが、やはり根っこのところは、常に他人に怯えていた。普段はケンカしながらも、紗月も薄々は、玲央のそういった危うさに気づいていて、だからこそ一線を越えたケンカには発展しなかったのだ。
しばし考えこんだ紗月だったが、結局は承知したように膝を叩いた。
「っし、まずは俺たちでやれるだけやってみっか! 確か善兄が土木仕事で余った木材を運んでるのを見たから、材料はなんとかなるはずだ! 俺ぁそれを確保してくるから、玲央と北斎はデザイン詰めとけ」
「ちょ、紗月ちゃん! そんな、とりあえず動いてみたって─」
「とりあえず動かなきゃ始まんねーだろ!」
そう言って、紗月はばたばたと駆け出して行った。玲央はしばしその背中を見送っていたが、やがて北斎に視線を移すと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんね、北斎。結局巻きこんじゃって……」
「ううん。絵描くの好きだから大丈夫。……どんなの描けばいい? 教えて、玲央」
「ええっと……ちょっと待って、実在のお神輿検索してみるから……」
顔を寄せて、スマホを弄る玲央と、出てきた画像をラフスケッチに起こしていく北斎。
そんな二人の姿を、扉の隙間から、翠石や善、それに依織。そして何人かの組員たちが、そっと静かに見守っていた。
「……チクショー、北斎のデザインは完璧なんだけどなぁ」
紗月のぼやきが聞こえる。
翠石組が所有する建築会社。その木材を保管する倉庫の一角にスペースを借り、さっそく神輿作りが始まっていた。
しかし当然と言えば当然だが─作業は困難を極めていた。
何せ紗月たちには未熟な点が多すぎた。DIY程度ならまだしも、神輿、それも幻影ライブをモチーフにした派手な大神輿ともなれば、素人の手に余る。
紗月は器用で力もあるが仕上げが武骨で、玲央は丁寧に作業するが仕事が遅い。北斎は意外とそつなくこなすが、口数が少なく連携不足、といった調子だ。
結果として、その場にあったのは神輿というより、木製ジャングルジムの出来損ないのような代物だった。
「……やっぱり無茶なアイディアだったのかな。お神輿作るなんて……」
「まだわかんねーって。祭りまではまだ時間あるし、根性入れて毎日作業していけばできあがるだろ!」
「でも、期間いっぱいかけてできあがっても、もし完成品が変な出来になったら……?」
「だーかーら、そういうのは、やってから考えんだよ!」
不安げな玲央を励ますように、紗月は壁に立てかけられた大きな木材を持ち上げる。木肌の色濃いその木材は、神輿に使えば重厚感のある仕上がりになりそうだ。
ところが持ち上げた瞬間、紗月の両腕には、想像していた以上の重量が襲い掛かった。
「うおっ……!」
「あっ、危ない紗月!」
玲央が悲鳴を上げた時には、北斎はもう駆け出していた。だがどれだけ急いだところで、とても間に合う距離ではない。
哀れ、紗月は木材の下敷き─……かと思いきや、不意に木材が軽くなった。
「あれ……?」
ふと紗月が頭上を見上げると、丸太かと見まごうような逞しい両腕が、木材を支えていて……その腕越しに、夏の日差しのように眩しい笑顔が見えた。
「ぜ……善兄!」
「ははっ、ダメだよ紗月君。同じ大きさに見えても、乾燥材に比べて生材はずっと重たいんだ。気を付けて扱わないとね」
重たいんだ、なんて言いつつも、善はそのまま軽々と木材を持ち替えて肩に担いで見せる。玲央や紗月が抱えると大木のようなそれは、善が担げば物干し竿と見間違えそうなのだから不思議なものだ。
「なるほど、余った建材を使いたいというから何かと思えば……そういうことか。オリジナルのお神輿なんて素敵じゃあないか! むっ、このデザインは北斎君が描いたのかい? これは虎だね! 素晴らしい! 肉食獣のしなやかな筋肉の特徴がよくデザインに落としこまれているよ!」
「お、おう……善兄にも好評みたいで良かったぜ」
「それにこの木材を使った作業、トレーニングタイヤを用いた全身トレーニングに近い効果もあるな! 工夫すればバーベル代わりにもなる! 素晴らしい発想だ!」
「いや、それは全然想定してねーけどな?」
「ちょ、ちょっと、善兄」
慌てて玲央が駆け寄った。
「む、どうしたんだい玲央君。というか、この材料はどこに使うんだい?」
「……あの、どうしてここに?」
「どうしてって、決まっているじゃないか。手伝いにきたんだよ、〝私たち〟みんな」
「私たち、って……」
「─おう、待たせたな!」
響いた声に振り向けば、翠石組の組員たちが、ずらりと集まっていた。
大工仕事に覚えのある者、力自慢の者、手先の器用な者……そして全然それらが得意じゃない者まで、わんさかと居る。
「おうおう、ヒヨッコ共、水臭いじゃねぇか。神輿担いでライブなんて面白そうなこと、若いのだけでやるつもりか? 俺らにも一枚嚙ませねぇか」
鉢巻を巻いた組員がのしのしと歩いてきて、北斎のデザイン画を拾い上げる。
「おう北斎。いい絵だが設計図にしちゃ、ちと説明不足だな。これもとにしてウチのお得意様の建築士に図面引いてもらうが、いいか」
「うん、そのほうがきっと、良いお神輿になる」
「おっしゃ。じゃあ俺らは木材の仕分けと成形からやるぞ」「腕が鳴りやすね、兄貴ぃ」「近頃は事務仕事ばっかで体動かしてなかったからな」「あっ、塗装は俺に任せてくださいよ、ペンキ屋でバイトしてたんすよ」「板金は任せな。昔取った杵柄ってやつだ」「力だけは負けやしねえぞ。善! ウチの組で一番の力自慢が誰か決めるとしようや!」「あ、俺ラップもやりたいっす!」「アホ、お前はオヤジの酔いが覚めるくらい音痴じゃねえか」
─……わいわい、がやがやと、あっという間に賑やかになった倉庫内。善も北斎もさっさと作業に加わる中、紗月と玲央は、ぽかん、としていた。
そんな二人の背中を、優しく誰かの手が叩く。
にんまりとした笑みを浮かべて、依織がそこに立っていた。
「あ、兄貴……これ、どういうこと?」
「どういうことも何も、見ての通りだろ。お前らの思いつきが楽しそうだから、みんなワクワクして手伝いに来た。それだけだ」
「……でも、兄貴」
玲央が、不安げに眉を寄せる。
「これじゃ、結局……僕、皆に甘えてばっかりで……」
「玲央。俺はお前らに、どういう仕事を言いつけたんだっけ?」
「……それは……面白い出し物を考えろ、って……」
「そうだ。結果、お前らは見事、組員たちが盛り上がるくらい面白いもんを考えてみせた。皆があんな楽しそうに仕事してんだ。誰がどう見たって合格点だろ」
依織の手が、玲央と紗月、それぞれの頭に置かれる。そのままくしゃくしゃと、髪をかき混ぜるように乱暴に撫でた。
「〝助けたい〟と思わせた奴らには、素直に助けてもらえ。やりたいことがあったら、いくらでも頼っていいし、いくらでも甘えて良い。甘えることも、信頼だ」
玲央も、紗月も、はにかんだような顔で視線を交わした。そうすると、先に紗月が頰を緩めて、笑って見せた。
「……へへっ。だってよ、玲央」
そんな紗月の笑顔に少しの間、戸惑って……それから玲央も、少しだけ、頰を緩めた。
かくして、翠石組による〝お神輿ライブプロジェクト〟は、本格的に始動したのである。
それから、また十数日の時が経った。
焙るような日差しが包む、夏真っ盛りの日。ホテルから出てきた翠石を、クーラーを効かせた車が出迎えた。日除けに被っていたハットを脱ぎ、扇子で顔を扇ぎながら翠石が乗りこむと、運転席から依織が声をかけた。
「お疲れ様です、オヤジ」
「おう、ご苦労やったの依織。ったく、アルタートリガーさんも律儀なこっちゃ。いちいち会食なんぞ組まんでもええのに」
─この時期、翠石組はアルタートリガー社に出資を行っていた。
資金の用途は、ファントメタルの応用研究。聴覚障碍者でも幻影技術を応用してコミュニケーションを行える技術……そういう提案に、翠石は感銘を受けていた。
ともすれば胡散臭く思える話だが、アルタートリガーという大会社の看板、そして翠石組にこの事業を説明に訪れた担当者の態度を、翠石は信用したのだ。
翠石は見る目のある男だ。アルタートリガー社が本気で、彼らの信じる理想のために、ファントメタルを役立てようとしていることは分かった。彼らに利益だとか物欲だとか、そういうものへの執着は感じられなかった。
ただ依織だけは、そんなアルタートリガー社の理想論に、疑問を覚えていた。
「お題目は立派なんですがね。俺ぁあんまり好きじゃありませんね、連中のことは」
「お前の心配も理解しとる、依織。俺もええ加減、具体的な研究結果っちゅーのを見せろって話はしてきた。ヤクザの金として裏の経済を回すよりは、生きた金の使い道になるとは思っとるんやけどな……」
翠石は座席に備えられたリモコンで、カーステレオを操作した。ノリのいいHIPHOPミュージックが流れ出し、車内を満たす。
「オヤジ、玲央がHIPHOP好きなの知ってたんでしょう?」
「おー、なんせ俺も好きやし、HIPHOP」
実のところ、翠石はもとからHIPHOPに対して明るかった。特に演歌なんかから派生した人情系のナンバーはお気に入りで、運転手を任されている依織は、しょっちゅう車の中でそれを聴かされていた。
後から考えれば……悪漢奴等の誕生には、そういう背景もあったように思う。
「俺は正直、どうもまだ、良さが分からないんですけどねぇ……」
「噓こけ。お前も作業中とか口ずさんどるやないけ」
「あ、あれはオヤジのが伝染したんです」
「なんなら匋平のラップとか聴いたったらええやん。筋ええぞ、あいつ」
「はー……ほんと面倒見良いですよね、オヤジは」
「人のこと言えるかい。お前の目論見通り、紗月はすっかり組に馴染んだし、玲央も一時に比べりゃずいぶん素直になったわ。この調子で行きゃ、何も問題ないように見えるわなぁ……表面上は」
「……オヤジには敵いませんねぇ」
「アホ。お前のオヤジやぞ俺は」
翠石がけらけら笑う。つられて、依織も笑った。
「まー、あの噓や隠し事が苦手な善を上手いこと使うてるのは大したもんやけど……なんや、依織。まだあるんやろ? お前なりの懸念。せやから神輿作りの手伝いって形で、〝お前の右腕〟の善を二人の傍に置いとる。一番心配しとんのは、玲央か?」
「善の奴は一から十まで企みを教えたら不器用なやつですが、一しか知らせなくても全力で働いてくれる。ただ、俺のことを信じて……可愛い奴ですよ、まったく」
「〝子分に甘えることも信頼〟か。……はっ、ほんまに器の大きなやっちゃ。で、オヤジの俺には甘えてくれんのかい。拗ねるぞ」
「ちょっ……勘弁してくださいよオヤジぃ……」
翠石の「拗ねるぞ」という言葉に、依織は弱かった。
実際に拗ねて駄々こねられたりするわけでもないのだが、こうなると、なんというか……子供扱いされるのだ。まだ青かった時分の事を持ち出され、やんちゃしてたころの話を酒の肴にされ、めちゃくちゃに構われる。大人の男にはなかなかしんどい責め苦である。
溜息をつきながら、依織はぽつぽつと話し始めた。
「お察しの通り、玲央のことなんですが……実は、あいつの父親が借金を作った連中が、近頃この界隈に戻ってきたらしいんです。それがどうも行儀の悪い連中で……」
「……ほーう?」
「ま、取り越し苦労なら良いんですが……ね」
組員たちの協力を得たことで、夏祭りの準備は順調だった。
玲央と紗月─あと、いつの間にか加えられた北斎がMCを担当し、大人たちが設備を準備する。そういう形で〝お神輿ライブ〟の計画は進んでいった。
翠石組は盛り場の経営で利益を得ている組だ。キャバクラやパチンコ店は勿論、スナックやクラブ経営も行っている。
だから、ステージ設営やライブ企画なんかにも強い組員は多い。お祭り騒ぎに関しては、翠石組はどんな作業であれ得意中の得意なのだ。そんな皆の協力を得たことで、玲央たちはラップの作成に注力することができていた。
「やるからにはMCネームもいるよな! 北斎、お前なんか考えてきたか?」
「風来坊。最初、兄貴が俺のことそう呼んでたから」
「か、かっけえじゃん。だが俺のMCネームも負けてねーぜ。俺は……〝ガイア〟だ」
「が、がいあ……」
「へへ、意味は知らねーけどカッケー名前だろ! 響きが男らしいしよ!」
「……なんか、紗月ちゃんらしいね」
─でも、それ女神の名前だよね? とは言わない気遣いが、そのころの玲央にはまだあった。
トラックメイクは和楽器のフリー音源をベースにし、ここでも北斎が才能を見せ、紗月と玲央でリリックを仕上げる。その間に組員たちの神輿作りも順調に続き、夏祭り本番まで二週間というころには、組み上げられた木材は、すっかり神輿らしいシルエットを作っていた。
「っと……そろそろペンキが足りないな」
そんな折、神輿作りを行っていた組員の呟きに、玲央が気づいた。
「あ……じゃあ僕、買ってきます。ラップの練習も一区切りついたので……」
「おう、サンキュー玲央。ゆっくりでいいぞ」
組の出納係から持たされた買い出し用の財布を持って、玲央は近くの塗料店までペンキを買いに出かけていく。このころには、まだ遠慮こそあったものの……玲央なりに組の一員として、明るさを取り戻しつつあった。
準備は順調に進んでいる。
玲央と紗月、北斎のバイブスは想像以上に相性が良く、三人のラップはクオリティ高く仕上がっていた。
神輿も、当初の予定からは想像できないほど立派なものが仕上がっている。あの神輿を担ぎながらラップと共に練り歩けば、きっと人目を惹く。このお祭りは成功する。玲央にもそういう確信が芽生えていた。
……─もしかしたら。
この晴れ渡る夏空を劈くほどのお祭り騒ぎで、玲央のHIPHOPを奏でれば……もしかしたら姿を消してしまった父親にも、届くかもしれない。僕はここで生きているよ、と。そう、伝わるかもしれない。
そんな希望めいたものが、いつしか玲央の胸中にはあった。翠石組という場所での過ごし方を見つけつつも、そのころの玲央にはまだ……本当の家族への未練も残っていた。
心底から甘えても良い、本当の家族。血の繫がり。暖かな実家。まだ過去は玲央にとって優しい思い出のままで、いつか自分が本当に帰るべきはそこだと思っている節があった。
けれど─、
「─お前、円山のガキだろ」
過去は、残酷な形で玲央へと牙を剝く。
いつの間にか、歩道に寄せて乗りつけられていたワゴン車から、ガラの悪い男が玲央のほうを睨みつけていた。
「やっと見つけたぜ。少しツラ貸してもらおうか」
忘れようはずもない。
それは、玲央の父が金を借りた男たちだった。
「─だからよぉ、いい加減教えてくれねえかなぁ。お前の父親だろ? 居場所くらい知ってんじゃねえのか」
「し、知らな……」
「知らねぇで済むかクソガキ!」
無理やり車で拉致された玲央は、港の廃倉庫に連れこまれていた。
男たちの人数は、五人。大勢というほどでもないが、子供一人誘拐するには大掛かりな人数。見るからにガラが悪いが、依織たち〝ヤクザ者〟と比べると何か違う。
……そう言えば、かつて依織に教えられたことがあった。日本の義理人情が通じるのは、翠石組のような昔気質のヤクザだけ。世の中にはもっとタチの悪い連中がいる。
それは例えば─大陸系マフィアに与する者たち。
実のところ、男たちは本職のマフィアというわけではなく、その末端も末端……小間使いのようなもので、高利貸しと詐欺で食いつなぐハイエナのような連中であったのだが、そこまでは玲央に判断できるものではない。
玲央に分かることは……翠石組で培った裏社会の嗅覚で感じる、〝男たちが危険な大人である〟という実感だけだった。
「……ど、どうして今更、パパを捜してるの? 僕の家、もう一円も財産なんか残ってないよ……!」
「あのな坊主。お前んちに搾り取れる金がねーことくらい、俺たちも分かってた。だが……昔、お前の父親はこう言って俺たちに交渉したのさ。〝俺はアルタートリガー社のヤバい機密を握ってるんだ。それで儲けを作る〟ってな」
「……えっ」
─無論、そんなものはハッタリ。玲央の父が苦し紛れに吐いた噓八百だ。アルタートリガーという大企業の存在は知っていても、そもそも知られて不味い機密があるかどうかも、玲央の父は分かっていなかった。
だが……なんの偶然か、その噓は部分的に、真実を突いていた。
「俺らも正直、信じちゃ居なかったさ。ところが、お前が拾われたのが翠石組だと分かると話が変わった。……あの組はアルタートリガーと懇意にしてるらしいじゃねえか。すると、こりゃ〝ひょっとするんじゃねえか〟ってな」
「あっ……!」
「正直俺らにとっちゃ、アルタートリガー社が後ろ暗いことをしていようと興味はねえ。だが、ファントメタルって奴が莫大な金を生むこの時代……その市場をごっそり頂きてぇと思ってる連中は居るもんでなぁ。あの会社に何か綻びはねーかと探り出した」
「じゃ、じゃあ……」
「そういうことだ。どうも最近、俺らみたいな木っ端組織のシノギは旨くない。だが……お前の父親を手土産にすりゃ、俺たちは大きな組織に取り入れるかもしれねぇ」
全ての偶然が、不運な重なりを見せていた。
父のハッタリ、翠石組、そして─アルタートリガーという会社。冷静に考えれば飛躍した発想でも、それが金に繫がるかもしれないと思えば、人はそこに幻想を見る。
「なあ坊主、お前が父親の居場所を吐きゃ、それで良いんだ」
無茶苦茶だ。知らないものを吐けるわけもない。玲央は首を横に振った。
「やれやれ、意外と面倒くせえな……じゃあ翠石の運転手、依織だったか? 上手いこと言って奴だけを呼び出すんでもいい。翠石のお気に入りなら、何か知ってるかもしれねえ」
いつの間に奪われたのか、男は玲央のスマートフォンを手にし、それを差し出していた。画面には、〝兄貴〟とだけ書かれた連絡先が表示されている。
「……兄貴を?」
男の言う通り、依織を呼び出せば……連絡の際に、上手く男たちにばれないように助けを求められれば、この状況から脱せるかもしれない。そうでなくても依織なら、上手く事情を酌んで、玲央を助けに来てくれるかもしれない。
けれど、玲央はスマートフォンを受けとらなかった。できなかった。
玲央の思いつきに、翠石組の皆が付き合ってくれている。神輿、ライブ、ステージ。言うほど簡単なことではない。それでもみんなが助けてくれて、ようやく形になってきた。
そんな折に一人でおつかいを買って出て……迂闊にも、誘拐されている。
これ以上、依織にも、組にも、迷惑はかけられない。
そんな意地が、玲央に涙を我慢させ、その首を横に振らせた。
「……ったく、多少は物分かりが良くなってるかと思ったが……仕方ねえか。おい」
リーダーらしき男の指示で、子分たちが玲央の両手を押さえつける。玲央の細腕では藻搔いてみたところで、微塵も抵抗になりはしない。
「な、何するんだよっ……」
「爪の二、三枚でも剝いでやれば、素直になるかと思ってな」
「ひっ……!」
思わず上げそうになった悲鳴を、玲央は必死に嚙み殺した。
ペンチを持った男が、玲央に近づいてくる。ヤクザの中で過ごしていたからこそ想像できる、冗談やハッタリではないであろう拷問の痛みをイメージしてしまう。
「や、やめてよっ……こんなことしたって、僕は、何も……!」
指先に、固い感触が触れた。
どこで調達してきたのか、錆び付いたザラザラとした金属の質感が、生々しい恐怖を煽る。それでも玲央は、ぎゅっと目を固く瞑り、唇を嚙みしめて、悲鳴だけは押し殺した。
「僕はもう……組の皆に、迷惑は……っ」
「ふん、根性だけはそれなりか」
笑いながら、男がペンチに力をかける。
「諦めんなら早いほうがいいぞ。今回ばかりは〝あの時〟みてーに、運よく誰かが通りすがるってこともねーだろうからな」
その言葉は、玲央にとって致命的だった。
必死に決めた覚悟を突き崩すような一言。人間、絶望に直面しているだけなら諦めも覚悟もできるものだ。しかし、男の言葉は玲央の胸深くに眠るものを揺さぶってしまう。
玲央にとっての、〝希望〟のフラッシュバック。
痛みが襲う直前に、玲央は、思い出してしまった。依織に救われた、あの日の記憶。
けれど、それは残酷な記憶だ。もう助けはこない。玲央自身が拒んだ。拒んだのに、瞼の裏には、あの日の〝希望〟が焼き付いている。
「恨むなら、薄情な家族を恨めよ」
「っう……! やだ、いやだぁっ……」
家族。
確かに、玲央の家族は薄情かもしれない。玲央を置いて出て行った母。借金や面倒の種を作るだけ作って蒸発した父。
けれど、〝家族〟という言葉を耳にして、その瞬間の玲央が思い浮かべたものは……。
気づけば玲央は無意識に、叫んでいた。
「助けて、誰か……助けてっ……─兄貴ぃっ!」
その声と同時に、ペンチが玲央の爪を摑もうとした時─
「─おおおおおおおおおおおおおおおおおおお、らぁっ!」
廃倉庫の窓を蹴破って、人影が飛びこんできた。
男たちが気を取られている隙に、その人影は疾風のような勢いで、ペンチを持っていた男を蹴り飛ばし、玲央を守るように立ちはだかった。
窓から射しこむ光に照らされたその姿は……玲央にとって、懐かしい光景を思い起こさせた。
そう、それはかつて、玲央を絶望の淵から救い出してくれた─……。
「あ……兄貴……?」
では、なかった。
「おう、玲央。おつかいにしちゃ、時間かかったな」
「……さ、紗月ちゃん!?」
埃まみれの廃倉庫。浮かび上がる光の中に、燃える太陽のような髪が揺れる。
怒っている。誰に? 無論、それは〝家族〟を傷つけた、世間知らずのチンピラ共相手にだ。牙を剝くように獰猛な紗月の表情は、玲央にだけは、優し気な笑みにも見える。
男たちは一瞬、狼狽えこそしたものの、乱入者が玲央とさほども離れていない少年だと分かれば、すぐに落ち着きを取りもどした。
「なんだこのガキ、ナメやがって……ガキが二人に増えたからなんだってんだ!」
男たちのうち二人が、懐から拳銃を抜こうとした。
しかし、叶わなかった。いつの間にか倉庫の中には、もう二つの大きな人影があった。
「─いいや。生憎だが、二人だけじゃない」
「俺たちも居る。……玲央を、助ける」
男たちが驚く間もなく、善の逞しい腕が、北斎の大きな体が、彼らを抑えこんだ。紗月のド派手な登場で気をひかせ、倉庫の闇に紛れ狩りをするような、スムーズな制圧戦だった。
「こ、こいつら、いったいどこから……」
リーダー格の男が狼狽えていると、倉庫の扉が大きく開かれた。その光景を見て、男は顔をひきつらせた。まさか、下っ端の子供一人攫っただけで、夢にも思わぬ事態だった。
十人、二十人……いや、そんなもので済む人数ではない。
翠石組のあらゆる組員たちが、ずらりと並んでいた。普段の気さくでお祭り好きな連中の顔ではない。眉間を強張らせ、仁義なき外道に憤る、極道たちの姿。
もちろん……その中に、依織の姿もあった。
「おう、兄さんたち。案の定、この辺りでのシノギには慣れてなかったらしいな。往来で誘拐なんぞカマしたら一発で足がつく。ウチの末っ子の傍には、いつも頼もしーい保護者をつけてたもんでな」
ふん、と善が力こぶを作って見せる。
「しっかり頭数を揃えて挨拶しに行こうと言ったのに、紗月君が真っ先に走って行ったのは、少々焦りましたがね! 北斎君と私が追いつけて良かった!」
玲央は思わず紗月に視線を向けた。
ややバツが悪そうに顔を背ける紗月を見て、玲央は自分でも分からぬうちに、目の端に涙を浮かべていた。
そんな玲央の頭に、優しい掌が置かれる。見上げれば、依織がいた。
「あ、兄貴……ごめん、僕……」
「ああ? 謝ることなんかなんもねーだろ」
「僕、結局心配されてて……助けてもらって……一人で何とかしようとしたのに、最後、結局兄貴のこと呼んじゃって……結局、兄貴に甘えて……」
「バカ野郎」
くしゃくしゃと、依織が玲央の頭を撫でる。
「助けなんかいくらでも呼んだらいい。甘えたきゃ好きなだけ甘えりゃいい。これだけ大勢の人間が玲央を助けたがってる。俺も、善も、紗月も、北斎も、オヤジも……組の皆も。多くの人が、玲央を愛してる。……俺たちが、玲央の家族なんだ」
そして、にっ……と、快晴の日の太陽のような笑顔で、笑って見せた。
「あ、兄貴っ……兄貴ぃ……!」
泣きじゃくる玲央を抱きしめる。依織はそのまま、玲央に向けていたままの穏やかな笑顔を、玲央を攫った男たちに向けた。
細められた目にだけ、背筋を凍らすような冷たい色が灯る。
それと同時に、組員たちの人垣を割って、一際威圧感を放つ影が歩み出た。
─翠石だ。
やはり、笑っている。依織にも似た、その恵比寿のような笑顔が、その瞬間は地球上のどんなものより怖い表情であることを、翠石組の組員たちは知っている。
「おう兄さんたち。ちょいとウチの組のこと、ナメ過ぎやったのぉ」
「ひっ……! ま、待て、待ってください。すみません、金なら払います! お、俺たちのシノギのルートも明け渡します。どうか、どうか……!」
「金はどうでもええ、また稼げる。物もええ、また買える。せやけどな……家族に手ぇ出されたら、ウチは容赦せん」
ぞろり、翠石組の面々が歩を進める。
玲央を攫った男たちには、理解できぬことだった。面子のためでも、金のためでもない。利益じゃない、利害じゃない。血の繫がった息子でも、昔馴染みの組員でもない、たった一人の少年のために……誰しもが皆、等しく怒っていた。
ただ─自分たちの可愛い子分が、怖い目を見た。
その一点に関して、翠石組という家族は、問答無用の激怒に染まっていた。
「なぁに、兄さんらの親やら親分やらが教えんかったことを、その身に教えこんだるだけや。なぁ、自分ら〝家族は大事にしましょう〟て、習わんかったんか? 人様の家族をいじめたら𠮟られるて、習わんかったんか? そーか、そーか。しゃーないなぁ……」
そして、翠石の笑顔が消えた。
「ほな、ちょいと躾けたろか」
夏祭りの当日は、雲一つない快晴だった。
小ぢんまりとした商店街の道に、その日はずいぶんと、大勢の人々が集まってきた。期待であったり、物珍しさであったり、とにかく様々な要因ではあったが─その年の夏祭りは、類を見ない盛大な催しと相成った。
「─いくよ、皆ぁ!」
「「「応っ!」」」
玲央が合図の声を上げれば、ステレオスピーカーから流れる大音量と共に、ライトアップされた神輿が出陣する。
神輿の上には三人の若者。玲央と、紗月と、北斎。そして、善を先頭に法被姿で神輿を担ぐ男たち。その盛大な様は、まさしく玲央たちが思い描いた〝心底ワクワクするもの〟に相応しい。
しかし、当初の予定と違っていたのは……ラップを歌うのは三人ではなく、参加した組員たち全員になっていたことだ。パート分けなど何処へやら。それはもはやHIPHOPというより、お祭り男たちの大合唱。
そんな様子を眺めながら、法被姿の翠石が、扇子で顔を扇ぎながら苦笑していた。
「あーあー、えらいこっちゃ。もうラップやなくてお囃子やないか」
そんな翠石の横で、依織も笑っている。運営本部であれこれ指揮する必要のあった二人は、神輿を外から見守っていた。
「玲央の奴が、〝歌うんならみんな一緒が良い〟って駄々こねまして。結果、ああいう形になったようで」
「はっはっは。ほんに、見違えるような甘ったれになったのぉ。……でもまぁ、前よりはずっとええ。ずーっとええ笑顔で笑っとる」
「ええ、まったく」
あの一件から、玲央は変わった。組員たちに遠慮なく甘えるようになった。
それは、依織だけでなく翠石組という括りの全てが、玲央の家族であると、ようやく認めてくれたことを意味していた。
「ちぃーと玲央に甘すぎる気がするけどな、連中。いや、あんまりええ笑顔で笑うから、つい甘やかしたくなるのも分かるんやけど……」
「そういうオヤジも、こないだ玲央に高ぁーいゲーム機買ったじゃないですか」
「アホ。お前も玲央にねだられて、経費で事務所のクーラー新調したやろ」
「……まあ、ええ。やっと懐いてくれたようで、つい」
「お前、そういうとこ、ほんっまに俺の息子やなぁ……」
苦笑しながら語りあう、翠石と依織。同じ苗字を名乗りあう二人もまた、血の繫がりこそ無くても、同じ盃のもとに交わされた、親子という信頼関係を築いている。
血ではない。利害ではない。もっと濃くて透き通ったものが繫いだ関係。それが家族であることを、彼らは誰より分かっていた。
「なあ依織。近いうちに、お前にはもっと立派な肩書を預ける。その時には、お前に懐いとる連中も、全部お前の下に任したるわ」
「良いんですか。常識で考えりゃ、まだまだ若造ですがね、俺も」
「おう、それこそ善に、玲央に、北斎に、紗月。少なくともこのヘンは連れてけよ。一癖二癖ある連中が、特にお前に懐いとる。あれはお前が面倒見とかんとアカン奴らや」
「アカン奴らですか」
「おうよ。行く行くは、お前が連中のオヤジになったれ」
「……そんな歳離れてないんで、言っても〝兄貴〟が良いですねえ、俺は」
けらけらと、祭りの喧騒の中で、似たような笑い声が響く。そんな二人を神輿の上から見つけたか、玲央たちの声が飛んできた。
「オヤジぃー! 兄貴ぃー! 何暇そうにしてんのさぁー!」
「兄貴たちもやろうぜー! 踊らにゃソンソンって言うだろぉー!」
「楽しいよ、お祭り」
「お二人とも! お神輿担ぎは意外といい運動になりますよぉー!」
喧喧囂囂。口々に、思い思いのことを言う子分たち。眉を八の字にしながら、依織が返事する。
「あのなぁ、俺たちは暇なんじゃなくて、仕事があるから……」
「やーだぁー! 兄貴も一緒に歌ってくんなきゃ終われないよー! せっかく僕たちの考えた楽しいお祭りなんだからさー!」
「あーもう、玲央のやつ、すっかり甘え上手になって……」
「神輿担ぐのなんざ何年ぶりやろなぁ。よーし、いっちょ行ったるか!」
「ちょ、オヤジぃ……ケガはしないでくださいよー……!」
先に鉢巻を巻いて駆け出していく翠石に続き、依織もそのあとをついていく。
やがて、二人の加わった祭囃子は一層賑やかさを増して、夏祭りの熱気はどこまでも、どこまでも上がっていった。
何処を向いてもお祭り騒ぎ。誰を見たって満面の笑顔。
子分もオヤジも関係なく、ようやく一つになった翠石組。世間のどんな家族より、きっと一番賑やかな家族。
熱く騒がしい夏の音は、太陽が完全に沈んでも響いていった。いつまでも、どこまでも、まるで永遠に続くお祭りのように。
いつまでも、どこまでも……。
気が付けば、辺りはずいぶんと静かだった。
高いところを雲が行き、ささやかに風が囁くだけだった。
「おーい、玲央ー」
紗月の声が聞こえてきて、玲央は我に返った。歩いているうち、いつの間にか墓地の奥、丘になったところに来ていたらしい。そこで空を眺めているうちに、ずいぶん長い記憶を旅したようだった。
「ったく、どこまで歩いてきてんだよお前。そろそろ帰るぞ」
「……ん、分かった」
「兄貴も言ってたけど、気にすんなよ。オヤジたち、お前に甘かったんだ。墓参りサボったくらいで、誰も𠮟りゃしねーよ」
「……うん、知ってる」
紗月に連れられて、玲央は丘を降りていく。立ち並ぶ墓石を横目に、玲央はなるべく景色を見ずに歩いた。墓石の数だけ人の死があったことを、玲央はあまり意識したくはなかった。
やがて開けた通路に出て、少し歩いていくと、依織たちが待っていた。遠目に見ても、依織の姿はよくわかる。見た目以上に大きく見える。その傍らで、善が大きく手を振って、北斎が猫をかまっている。
そこへ、紗月が駆けていく。途中、振り返り、玲央を呼ぶ。
「早くしろ、玲央。置いてくぞ」
「あ、うん、待って─」
不意に、祭囃子が聴こえた。
おそらく、どこか、ずいぶんと遠く。風に乗って、賑やかな喧騒の切れ端が、墓地の中まで届いたようだった。
その時、太陽にかかっていた雲が、風に吹かれてちぎれた。
「あっ……」
急に射した陽光が眩しくて、玲央は目を細めた。すると目の前の景色がまるで陽炎のように……。
いや、幻のように、揺らめいて見えた。
「……あ」
そこで、玲央は幻影を見た。
翠石組の皆が、そこにいた。
大工仕事が得意だった彼らが。ペンキを塗るのが得意だった彼らが。力自慢だった彼らが。少し音痴だった彼らが。北斎を、善を、紗月を見守る様に囲んで、その場に立って微笑んでいた。
そして、依織の隣には……〝オヤジ〟が並んで、笑っていた。
その幻影は、瞬きの一瞬で、すぐ消えてしまった。消える寸前、彼らは何か呟いた気がした。その唇が言葉の形を描いたように見えたが、声は、何も聞こえなかった。
「どないしたんや、玲央」
「あ、いや……」
首をかしげる依織に、玲央は戸惑った顔を見せる。
「大丈夫か? なんかキツいようなら、少し休んでも─」
「ううん、大丈夫」
玲央は、首を横に振った。強がりではない。遠慮ではない。
ただ、伝えたい気持ちだった。
「僕らは、大丈夫。たぶん、皆と一緒にいるから」
「……そか。そやな」
何を察したわけでもない。けれど、依織も頷いた。玲央が浮かべていたその笑みが、とても穏やかなものだったから。
「おーし、帰ったら色々忙しゅうなるぞー! 人工浮島開発の件もあるし、CANDYも休みにしてしもとるからなー。あとラップな。新作つくらんと。天下御免の悪漢奴等が、負けたままで終われるかい!」
「おうよ! cozmezへのリベンジだけはぜってーしないとな!」
「ええ、やってやりましょうとも! 若と一緒に天下を取ると決めたのですから!」
「俺も頑張る。皆と一緒に」
「うん、証明してやらないとね! 僕らが一番ゴキゲンさんなんでしょ、兄貴?」
「おうよ!」
先頭を歩きながら、依織が天へ向けて指を立てる。
「ナンバー何番?」
「「「「ナンバーワン!」」」」
「悪漢奴等!」
「「「「アンダーグラウンド!」」」」
「─ほな、行こか!」
そうして、墓参りにしてはずいぶんと賑やかな一団は、賑やかなままその道を歩いて行った。
まるで永遠に続くお祭り騒ぎのように。
いつまでも、どこまでも……そして、これからも。