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 子、曰く――徳は孤ならず、必ず隣あり。

 淡く霞んだ青空に、ケナリの黄色い花が揺れている。旅立つ者を贈る花言葉も、今日はどこか空しく上滑りしてゆく。
「夏準坊ちゃま、何卒お達者で」
「ああ。もうお前とも、二度と会うことは無い」
 空港までの見送りはされた。敷地の門をくぐる背が、忠成が目に焼き付けるのを許された、夏準の最後の姿になる。
 白忠成、二十歳。燕夏準、十三歳。春の入り頃のことだった。
「つまり……究極の放置プレイとも言えるわけですか。フフフ」
「ブツブツと気色悪いことを言うな」
 振り返る夏準の、冷めた視線が突き刺さる。それは紛れもなく支配者の瞳。燕家の血が宿す冷たい光。忠成にとっては心地よいその光は、直ぐに門の向こうへ向けられる。
「だいたい放置プレイなんてよく言える。ボクを捨てたのはお前の方だろうに」
「滅相もございません。私はただ――」
「主人の言いつけに従うまで、か。よく分かった。結局……お前はボクではなく、燕家に仕えていたということがな」
 忠成に返せる言葉は無かった。何ら事実に相違ない。
 この日、燕夏準は留学先である日本へ向かう。厄介払いと言って差し支えない。
 夏準は燕家の跡取りとなるべく、血の滲むような努力を捧げてきた。の子という立場に冷ややかな態度を浴びながら尚、己の価値を示すために。
 正妻の燕夫人が第一子を授かると、夏準の努力はあっさりと価値を失った。親の愛も、周囲の期待も、あっというまに全て〝正妻の子〟に与えられた。それでも数年は足掻いて見せたが、血筋を覆すには至らなかった。愛情の問題。すなわち感情の問題。夏準の言う通り燕家に仕える忠成に、総帥の心をどうこうできる筋合いはない。
 夏準はもう振り返らなかった。かつての世話役への最後の言葉は、背中越しに届いた。
「せいぜい尻尾を振るがいい。ボクではない〝燕家の跡取り息子〟に」
 去って行くその背が見えなくなるまで、忠成は頭を上げなかった。やがてゆっくりと背筋を伸ばし、本来の仕事へ戻ってゆく。
 邸宅玄関の扉を開ければ、六歳の燕東夏が不安げに忠成を見上げていた。

 재벌――日本で言えば〝財閥〟である。
 親会社が株式保有を通じて多くの子会社、孫会社を支配する企業構造体。日本においても漠然と「巨大な力を持つ企業グループ」としてイメージできる存在だが、韓国における大財閥の支配力は政治にまで及び、他国の想像を凌駕している。
 資本主義社会の貴族。絶対の経済構造の頂。
 その一角を担うのが、〝燕家〟である。
 白忠成は、物心ついた頃から燕家の仕え人として育つことに疑問を持たなかった。
 父も祖父も代々燕家の執事であり、忠成もそうなるのが必然だった。い子供であった忠成は、それがいかに恵まれた環境であるかを理解していた。
 燕家執事として恥じぬ人間に育つために、高水準の教育を受けることができた。上流階級の生活を学ぶため良い物を口にし、良い服に袖を通した。未来は定められていたが、敷かれたレールは黄金で出来ている。これが恵みでなくて何だというのか。
 十二歳の忠成は、当時五歳の燕家子息――燕夏準の世話役兼遊び相手とされた。初めての主従関係であり、歳の離れた幼馴染でもあり、疑似的な兄弟のようでもあった。
 誘拐事件が起きたのは、その一年後。
 年に数度、燕家一同が会する、盛大なパーティのだった。
 目的は単純。燕家に対する身代金の要求だったようだ。にもらず、われたのは燕家に連なる親族の子供ではなかった。
 犯人一味はあろうことか、忠成を燕家の子と誤認して攫ったのである。
 聡明な子供だったからこそ、忠成は自分の身に起きたことをすぐに理解できたし、だからこそ衝動的に口を開くこともできなかった。
 もし事実が判明すれば、彼らは改めて夏準を襲うのではないか? 別人だと分かれば、彼らは利用価値のない自分を始末するのではないか? 
 使用人としての幼い、年齢に対して敏い思考回路が、忠成に多くを語ることをわせた。結果として、忠成は大人しく犯人一味に連れ去られるしかなかった。
 犯人一味は攫った子が、単なる使用人に過ぎないことに後から気づいたものの、結局は計画を続行。忠成を代わりの人質として、燕家から身代金を引き出そうと考えた。
 ただし――燕家の実子を攫えなかった以上、より強烈に情に訴える必要があったのだろう。脅しのため、忠成には苛烈な拷問が課されることとなった。
 それからおおよそ一週間。忠成は地獄を彷徨った。
 最初は頬を張る程度の暴力が、次第に容赦ない殴打に変わった。最初は脅しだったナイフの刃が、いつしか白い肌に痛々しい傷を刻み始めた。
 薄暗い廃倉庫に繋がれて、カビの生えたパンだけを与えられながら、忠成は只管に耐えた。――男たちの言う通り、もしかしたら燕家は少しでも自分に情をかけてくれるのではないか。幼いながら尽くしてきた自分を救うために、身代金を払ってくれるのではないか。そんな不確かで、か細い希望に縋って。
 勿論、そんな甘い情で動く道理など、燕家には存在しなかったのだが。
 燕家が身代金の要求に応じず、苛立つ犯人たちの責め苦が苛烈になる中、忠成はエスカレートする暴行に耐え続けた。痛くとも、辛くとも、泣きたくとも、吐きたくとも。
 そうして耐え続けた忠成の心は、いつしか理不尽な苦痛を正当化することで呑み込もうとした。――攫われたのが自分で良かった。夏準でなくて良かった。この時間の全てが夏準のため。その苦痛の全てが燕家に尽くしている証だと。
 痛い。この痛みが夏準を襲わなくて良かった。苦しい。この苦しみから燕家の人間を守れて良かった。気持ち悪い。けれど、燕家のために尽くせて嬉しい。痛い。嫌だ。でも嬉しい。痛い。だが燕家のためだ。痛い。夏準のためだ。辛い。忠誠を貫けて嬉しい。痛い。尽くせて嬉しい。痛い。嬉しい。嬉しい。尽くせる。痛い。嬉しい。嬉しい。痛い。嬉しい。嬉しい。嬉しい。――ああ! 痛くて、嬉しい!
 そうして、白忠成という人間は壊れて、白忠成という従者は完成した。
 凄絶な体験は忠成の中で、痛みと紐づく歪んだ充足、〝尽くす悦び〟として刻まれた。
 この歪な思考回路が、忠成の従者としての資質を飛躍的に伸ばしたのは事実だろう。
 もっとも、この誘拐事件を秘された幼い夏準には、「従者が帰ってきたら変な趣味に目覚めていた」という、当時は困惑するばかりの結果が残ったのだが――。

 そういうわけで、主人はただ傲慢に従者を従え、従者は支配される実感こそを悦ぶべきである。二十四歳の白忠成は、人生をかけてそう考える。
 その日も東夏は、行儀よく玄関マットで靴を拭いて学習塾から帰宅した。
「東夏坊ちゃま。本日もお疲れ様です」
丸めた肩から預かる学習鞄は、ずっしりと重かった。教材と共に詰められている物を期待と呼ぶか、重圧と呼ぶべきか。どちらにせよ、この年で十歳になる燕東夏の肩には大きな荷物であったことだろう。
「……うん」
 無視すらしては貰えなかった。気の抜けた返事を忠成に返し、東夏は足早に自室へと向かう。磨き上げられたエントランスの床を叩く足音は随分と鈍い。
 韓国においては〝季節の女王〟とも呼ばれる五月。東夏の表情は、暖かな陽気とは裏腹に暗かった。どうやら食卓を囲むの時間が憂鬱らしい。自室へ入った後は扉を固く閉ざし、錠の落ちる音がする。
「う……うう……」
 すすり泣きが小さく聞こえ、そこから先は声を殺したようだった。これから東夏は総帥の期待には至らない学業の成果を報告しなければならない。燕家の食卓にの温もりなどなく、株主総会に似た緊張感が付きまとう。それも、業績の悪いシーズンのものだ。
「フゥ」
 忠成は預かった上着と鞄を抱えたまま、漏れる溜め息をどうにか抑えた。
 ――さて、どうしたものか。
 夏準の渡日から、両親の期待を一身に受ける東夏には、茨まみれの年月が過ぎた。
 忠成の目から見て東夏が不幸だったのは、優秀すぎる比較対象があったことと、その当人がもう身近には居ないことだ。
「力を見せても生まれが足りず、血に恵まれれば力が足りず……ままならぬものです」
 忠成は丁寧に東夏の靴を揃えながらボヤく。足の小ささを確かめれば、しっかりと地を踏みしめて立てるのかと、心配が湧いてきそうになる。
 燕東夏はよく出来た子供だ。頭の回転が速く、呑み込みも良い。両親の期待に応えようと努力も惜しまない。芸術的センスに富み、運動神経も悪くはない。
 だが、示す結果は兄の夏準に劣っている。
 東夏は優秀ではある。優秀だが、上流家庭では優秀であることなど〝当たり前〟でしかない。まして燕家の跡取りともなれば、優秀な子供たちの中で首席であるだけでは足りていない。圧倒的でなければならないのだ。
 夏準は同年代の中で突出していた。追いすがることも許さないほどに。
 人間には個性がある。向き不向きがある。しかし燕夫妻は東夏に愛情を注いだがゆえに、一つとして夏準に劣ることを許さなかった。「妾の子より出来が悪いなど、冗談ではない――」すでに放逐された兄と比べられ続ける日常は、幼い東夏には窮屈に過ぎた。
 両親の愛あるゆえに、愛を得られなかった兄の存在が邪魔をしている。
 兄弟ともに気の毒ではある。だが忠成自身、東夏と夏準を比べてしまっている。従者とは最も身近で主人を見つめる存在である。その忠成から見ても東夏は主人として、燕家を背負って立つ支配者として、物足りない器に映っていた。
 何より、忠成にとって尽くしている実感――〝お仕置き〟が圧倒的に足りていなかった。
「夏準坊ちゃまであれば、抱えた鬱憤はすぐにぶつけてくださいましたのに……」
 忠成は窓から東の空を見上げた。雲の形が鞭に見える。気のせいである。
 思えば、夏準はお仕置きすら芸術的だった。忠成を蹴るときの角度。心の柔らかい所を抉りこむ言葉の刃。素晴らしかった。「忠成、椅子になれ」と言われて跪かされたかと思えば、サボテンの鉢を背中に置かれ、数十分そのままにされたかと思えば「土台が醜い」と叱られた日には、感動のあまり夢に見た。
 忠成にとっては楽しいだけだったが、夏準はそうして上手にガス抜きを行い、ストレスが破裂するギリギリの所で攻撃性に変換してモチベーションを保っていた。夏準はサディスティックになることで前に進んでいたし、忠成は気持ちよかった。お互いにとって利があったのだ。
 その点、東夏はストレスを一人で抱え込んでしまう。忠成も気持ちよくなれない。従者として見過ごせない状況に違いなかった。
 ――待てよ?
 不意に天啓があった。というより、なぜ今まで気づかなかったのか。
 忠成は東夏の部屋へと向かうと、逸る気持ちを押さえて扉をノックした。
「坊ちゃま。東夏坊ちゃま、忠成です」
 たっぷり深呼吸を二回ほどする時間があった。鍵を解除し、扉がゆっくりと開く。顔を見せた東夏の白い肌は、目元だけ紅を差したように泣き腫れていた。
「……なに。夕食にはまだ、時間があるだろ」
「少しばかり、お話させて頂いても宜しいでしょうか」
 忠成は涙の痕には触れず、部屋へと踏み入った。会話が漏れないようにしっかりと扉を閉める。それから視線の高さを合わせるように、東夏の前に跪いた。
「坊ちゃま。どうか少しだけ、この忠成に進言をお許しください。……人は苦痛を感じれば、心に淀みを生じるもの。それを自分の中だけで受け止めていては思考が回らない。成績が伸びなくなるのは、当然のことです」
 成績の二文字は、効果的に東夏の気を引いた。抱えている問題の核心を引っ掻けば話を聞くつもりになる。忠成はよく理解していた。
「論語にもございますね。〝子曰く、学びて思わざればし〟――」
「……まだ習ってない」
「思い返さねば、書を学んでも成長には繋がらないという意味です。しかし頭の中を淀んだ雑念で埋めたのでは、思考する余裕もない。そうした淀みを上手に解消することも、人の上に立つ者に求められる資質かと……頭の中をめぐる雑念は、吐き捨てねば」
「吐き捨てるなんて、できたらやってる」
 東夏は唇を噛み、今にも涙が零れそうな目を向ける。忠成が欲しいのはこの目ではない。
 だが良い傾向だと思えた。まず矛先を向けてもらうことから始めよう。
「お父様は、僕に弱音なんて望んでない。弱音を吐くことなんて許されない。そんな脆い跡取りなんて、お父様を失望させてしまうだけだ……」
「坊ちゃま」
 忠成の目が、大きなカーブで笑みを描く。
「弱音とは、自責の念です。覇者たるものが己を責めてばかりではいけません。吐くならば弱音ではなく怒り、憤り……思うままにならぬ理不尽は、理不尽のまま暴言にでも暴力にでも変えて、他者にぶつけてしまえば宜しい。それが覇者のやり方です」
「なにを……そんなの、どこに? どうやって! 誰にぶつければいいの?」
「ワタクシが居るではありませんか」
 忠成はにっこりと笑みを浮かべる。親しみの笑顔。そして服従の笑顔。
 王は作れば良い。
 歴史上、数多の仕え人がそれを為してきた。王が初めから王たりえるのではない。支える者が居るから王なのだ。良き従者とは、覇道への導き手でもある。
 これは一石三鳥の計だ。ストレスを解消させることで東夏の心を救う。そうすることで成長を促し燕家に報いる。そして忠成は〝尽くす悦び〟を与えてもらう。従者としてこれほど献身的で冴えた手段はあるまい。
 東夏の視線はもう釘付けだ。もっともらしい理屈は並べたから、あとは仕上げだけで良い。どんな言葉が引き金に届くかは、忠成はもう理解していた。
「夏準坊ちゃまも、そうやってワタクシを使っていましたよ」
 東夏の目の色がハッキリと変わった。
 一人で抑え込もうとしていた心の結界を緩ませたところに、その名前は思考を真っ白に加熱させるには十分すぎた。
 小さな平手が忠成の頬を打った。打ちやすいように跪いていた甲斐があった。
「あ……」
 数秒遅れて、東夏は掌の痺れを自覚した。我に返ったのだろう、他人に手を上げた己に戸惑っているようだった。だが、一度でも鞭打つことの味を覚えたなら良い。
「それで良いのです、坊ちゃま」
 忠成は平手の感触が残る頬に触れた。掌の小さな輪郭がハッキリと思い出せる。
 ――ううん。まだまだ物足りないけれど、これから、これから!

「忠成、朝食の前にシャワーを浴びると言ったはずだ」
 朝一番、言われた覚えのない命令で叱責を貰う。
「忠成、コーディネートの準備が遅い」
 朝食後、クローゼットの服を床に撒かれ、拾うよう命じられる。
「忠成! 誰が帽子に猫の耳をつけろと言った!」
 外出前、猫耳がついた固いキャップの鍔で頬を叩かれる。
 ――あ~コレコレ、たまりませんなぁ~!
 あれから二年。流れる月日の摩擦は東夏の心を逆立て続けた。抱えきれなくなった鬱憤が、暴力性となって発露する。結果としてガス抜きとなり、東夏の成績は伸びる。忠成の趣味――もとい、は確かに実を結んだ。
 心を守るために固めたプライドの殻。他者への不信により研がれた鋭い瞳。
 十一歳の東夏は、実に燕家の子らしく育っている。
 特に夏の盛り、この八月の時期に東夏の〝ご褒美〟……もとい〝お仕置き〟はになった。小学生が夏休みで羽を伸ばすのは庶民の話。上流家庭の子供にとっては学習塾と自習漬けの日々。一年で最も過酷な季節が今となる。過度のプレッシャーにお仕置きも加速し、忠成は東夏と反比例するように、充実した日々を送っていた。
 東夏の剣幕を浴びながら、忠成は形だけはペコペコと謝り倒す。嬉しそうな顔を見せないようにするには、平伏す姿勢がベストである。
「僭越ながら……坊ちゃま。そちらの猫キャップ、英国王室御用達のデザイナーが春のコレクションで発表したモデルで御座いまして……見目こそ可愛くとも仕立ては上質、坊ちゃまには相応しい逸品かと思い、取り寄せた次第でございました」
「仕立てが上質? だからなんだ? お前……このテーマパークで浮かれた観光客のような帽子が、本当に僕にとって相応しい物だと?」
跪く忠成の頭に、室内スリッパのざらついた感触が押し付けられる。降り注ぐ視線の冷たさが、顔を上げずともわかる。ぐりぐりと踏みにじる動きが伝われば、忠成の胸は恋のように高鳴ってしまう。東夏の声が頭上から落ちてくる。
「作りこそ丁寧だが、生地の選定には妥協がある。〝高品質〟なだけで〝最高級〟とは言えない。こんなもの、デザイナーの名に頼って、儲けの出る量産を考えた代物だ! 名だけ背負って質の伴わない商品が……〝僕に相応しい〟と本気で言ったか?」
「も、申し訳ございません坊ちゃま! ワタクシの目が曇っておりました! どうぞ、どうぞこの忠成めに直々の躾を……」
「躾けられる側が僕に指図するなッ!」
 体重を乗せた蹴りが入る。二発、三発。トドメに脱いだ猫耳キャップを叩きつけられた。――はぁああん! イエス! 今のは特に良かったです坊ちゃまァ! ……と、言葉にするのは我慢する。何度かの蹴りのあと、ようやく落ち着いた東夏が命じる。
「ふざけた帽子の代わりはお前がしろ。いいな」
「は、はい。仰せのままに」
 服の埃を掃い、日傘を手にし、忠成は送迎車まで日陰を作る。本日は余暇。珍しく学習塾のない一日となる。黒曜石のように磨かれた高級車は既にクーラーが効いている。後部席に東夏を案内すると、パルテノン神殿にも似たフロントグリルにまで曇りが無い事を確かめてから、忠成が運転席に着く。
「本日はご予定通りのルートで、ショッピングで宜しいでしょうか」
「美術館に寄って行け。ARインスタレーションを併用した李朝白磁の特別展が今月までだろう。見て行く」
「歴史に親しむレポート……夏季休暇の課題の一つでございましたね。畏まりました」
 実際のところは、東夏の趣味の一つであると忠成は知っている。
 ピアノに乗馬、チェスも嗜むが、精神的に疲労している時の東夏は美術を好む。油絵が得手だが、時間の無い時は手軽な塗り絵も嗜んでいる。おそらく、美術館の物販で大人用の塗り絵を買って行くのだろう。
 大柄な車体を転がし、美術館へ向かう。街の景色は広告のように、足早に窓の外を流れて行く。青々と茂る街路樹の銀杏が、漂白するような真夏の陽を浴びている。陽炎の立つ道を歩く人を、二十三℃の車内から眺める。
 ほどなくして美術館へ到着する。地下駐車場から出て入口まで向かう間にも、日傘を広げることを忠成は忘れない。今日は帽子の代わりである。
「あ、東夏さま……!」
 子供の声がした。受付へ向かう途中、東夏たちは五、六人ほどの小学生のグループに出くわした。身なりの良い子供たちには忠成も見覚えがある。間違いなく、東夏の小学校の同級生だった。普段は東夏の取り巻きをしている子供たちである。
 東夏は日傘の作る影の中から、彼らへ声をかける。
「フン、お前たちも課題のネタを探しに来たのか」
「は、はい。丁度良い特別展示があるので……」
 東夏は、気にした様子は見せない。しかし小学生たちは視線を泳がせていた。
 燕家の名は天下のパスポートだ。その日の気分で美術館のチケットを取るなど容易いが、目の前の子たちはそうは行かない。いずれも裕福な家庭の子供たちだが、特別展を見に行くなら事前の予約は欠かせない。予定は東夏抜きで組んだはずだ。
「よ、宜しければ東夏さまもご一緒に……」
「僕が? 〝ハプニング〟の語源も知らないお前たちと特別展示を? 身の程を弁えない冗談を言っている暇があったら、せいぜいシワまみれの羽を伸ばしてくるがいい」
 東夏は少年たちの横を通り抜ける。そそくさと離れて行く足音が聞こえた。
「よろしかったのですか?」と尋ねようとした忠成は、東夏に八つ当たり気味に足を踏まれて「よろしいです!」と口走る。「何がだ」という東夏の疑問はもっともだ。
 しばし間があって、東夏は小さな呟きをこぼす。
「お前と同じだろ……あいつらも。用があるのは燕家の名だけだ」
 東夏は口を結んで足早に歩き出す。忠成はその後ろを黙ってついていく。
 ――東夏様、一人では毎回道に迷われるのに……。
 勿論、口が裂けても言わない。
 先ほどの子供たちは皆、燕家グループ傘下企業の社長、或いは役員の子息だ。東夏が支配者として育つことを義務付けられたように、彼らは燕家に従うことを義務付けられている。東夏の言う通り、ある意味で忠成と似た立場の子供たちだと言える。
 態度のオンオフを切り替え、あまつさえそれを主人に悟られるような子供たちと一緒にされるのは、忠成としては心外だった。だがそんな個人的な感情よりも、東夏が内心どんな気持ちを抱いているか、汲み取ることが忠成には大事だ。急いて進む小さな背中は、鈍痛に耐えるようにって見えた。
 忠成はただ東夏に寄り添い、展示スペースを見て回る。
 空調に冷やされた美術館の空気は静寂に満ちて、磨かれた石材の床に重たく溜まる。その中を歩く乾いた足音が、展示された白磁器に反響している。
 ただ、その静けさも長くは続かなかった。一つ目の展示を見終え、順路に沿って角を曲がったところで東夏は顔をしかめた。
「どいつもこいつも……」
 東夏の視線の先。展示を見ていた顔を丁度上げた少年と目が合った。
 長めに切りそろえた黒髪のボブカット。同年代の中では背の高いすらりとしたシルエットは、東夏より頭一つ大きい。この顔には忠成も見覚えがある。少年は値踏みするように細めた目を、口と合わせて意地悪く釣り上げた。
「これはこれは東夏サマ、奇遇なことで。今日は取り巻きと一緒じゃないんだ」
「……そういうお前こそ、お付きもついてこないとは寂しい身分だな
「東夏サマと違って、一人で出かけられない温室育ちじゃないからさ」
 少年の名は友珍
 彼もまた、燕家グループ傘下の医療機器メーカー、ヤン電子の社長子息である。
 東夏は彼を見ながら唇をヘの字に曲げて、鼻で息を吐き捨てた。
「社会科のテストで大問を落とすようなヤツが李朝の磁器を見てどうする? 雑草を飾る花瓶が欲しいならフリマアプリでも弄っているといい」
「お気遣いどーも。そういう東夏サマこそ、えらくセカセカ歩いてたけどクーラーキツくてチビっちゃった? 言っとくけどこの辺の器、白いからってトイレじゃないから勘違いしないでよね」
「まったく、生まれの卑しいヤツは煽りにも品がないのか。忠成、口臭ケアのタブレットをくれてやれ」
「やっぱり執事がいなきゃ何もできないんだ。そんなだから昨年の運動会ではブザマなところを見せたんだよね」
 しばらくポメラニアンの喧嘩のようなやりとりを眺めて、東夏の語気が荒くなってきたあたりで忠成が止めに入る。友珍は「フン!」と口で言って去って行った。
「大丈夫でしたか、坊ちゃま」
 忠成は膝をつき、東夏に視線を合わせて尋ねる。東夏はこめかみを強張らせていたが、辛うじて余裕を崩さなかった。
「相変わらず拗らせた奴だ……」
 友珍が東夏と言い争うのは珍しい光景ではない。友珍もまた学校の成績上位者で、東夏とは競争関係にある。東夏が調子を崩せば、友珍が首位に名を連ねることもある。様々な意味で面白くない相手と言える。
 忠成は東夏の不快に共感するように小さく息を吐く。
「友珍様は年々、言動に棘が増していくご様子……お父上のヤン電子の立場を考えれば、燕家にあのような態度を取るのはと分からない歳ではないでしょう」
「フン、あれはファザコンだからな」
 東夏はプイ、とそっぽを向いてみせる。
「尊敬する義父がうちのお父様にペコペコしているのがよほど気に食わないらしい。孤児院から引き取られた雑種め……義父の立場を悪くする真似とも分からないとは、愚かを通り越して哀れだ」
 友珍の身の上を口にすれば、少し溜飲が下がったらしい。促すよう会話を振った忠成としては満足の行く流れになった。
 東夏の眉から多少力が抜けたのを見ると、忠成は背を丸めて、耳打ちするように唇を寄せる。恐れ多くも主人に進言するためだ。
「しかし、坊ちゃま。でしたら友珍様を黙らせるのは簡単ではありませんか」
 東夏の片眉が吊り上がる。忠成は構わず続ける。
「ヤン電子は燕財閥に決して逆らえない立場。友珍様から礼を欠いた対応をされていること、父である梁氏の耳に入れれば――」
「僕が、子供の喧嘩を親に言いつけるような小者だと?」
 空調を浴びた大理石よりも遥かに冷たい東夏の声が、忠成の鼓膜を静かに刺す。耳から沁みた声がゾワゾワとうなじを通り、脊椎を震わせる。
「そんな進言をするくらいなら、忠成。なぜお前がすぐ止めに入らない」
「も、申し訳ありません坊ちゃま。美術館ではことを荒立てる訳には行かず……」
「誰が手荒な真似をしろと言った。スマートに処理もできないのか? 展示を回ったら一度外に出ろ。一度、きつい躾が必要なようだ」
「は、はひぃい……」
 ――坊ちゃまに対する態度はいただけませんが、有難うございます友珍様!
 その後、忠成は夏日に焼けた石畳に額を擦り付け、一時の至福を享受した。

 歳を重ねるたび、時の流れが速くなる――というのは本当らしい。
 いつの間にか黄一色になったプラタナスを見る度、忠成はそれを実感する。夏の暑さはもう遠く、今年の暦も薄くなった。つまり東夏がまた一つ歳を重ねる。
 一人で繁華街を訪れたのは、東夏へのプレゼントに手配していたイヤーカフの出来を確認するためだ。それと他にも相応しいものが在れば調達したい。
「……ン」
 街頭から賑やかな音楽が聴こえて来たかと思えば、大きなモニターにライブ映像が映し出されていた。――ああ、アレか。と内心呟く忠成の感情に波はない。
 幻影ライブ。近年はすっかりメジャーとなりつつあるHIPHOPパフォーマンス。
 大きな市場であることには間違いない。このムーヴメントを支えているアルタートリガー社と燕財閥には交流もあるし、知識としてトレンドは押さえているものの、こういったポップカルチャーに対する興味は忠成にはない。
 ただ、ファントメタルの使用で起こる副反応――トラップ反応には些か興味がある。過去のトラウマを鮮明に追体験できるなんて、忠成からすれば甘味の蘇るガムに等しい。
 ――そう言えば。
 忠成は時計を確認する。百貨店に向かう予定の時刻には余裕がある。この区域は所謂セレブタウンだが、芸能人が多く住むこともありアートへの懐が深い。国外アーティストを扱う店も在ったはずだ。
 地図を確認すればさほど遠くない。忠成はふらりと足を延ばし、マニアックな品揃えを備えたCDショップに入った。思った通り、HIPHOPの棚がある。
 少し棚を探したが、目当ての物がない。
 インディーズレーベルのコーナーを漁って、ようやくその名前を見つけた。
 〝BAE〟。音楽情報サイトによれば、インディーズでは近頃勢いのあるラッパーらしい。
 メンバーは三人の多国籍ユニット。忠成は情報網を使い経歴を調べたことがある。
 SUZAKUは確か著名ピアニストとオペラ歌手の息子で、本人も音楽面では神童とされていた朱雀野アレン。anZは英国外交官子息であるとの噂が政財界に流れたことがある。
 そして、48――燕夏準。
 立派な親を持ちながら、恵まれた家庭では生きられなかった子供たち。
「……夏準坊ちゃま」
 細めた忠成の瞳に宿るのは、憐憫と悲痛。
 ――勢いに乗っているとはいえ、メジャーレーベルですらないのか。
 かつて燕家の跡取りとして輝ける道を歩み、その輝きがメッキであると告げられた男。
 流行芸能に手を出し、似た境遇の少年たちと細々と歌う兄。
 東夏にとっては、もはやこの上ない反面教師だろう。しばし溜息をついてから、忠成はその〝教材〟をレジに通した。

 燕家子息の誕生日パーティはグループ企業のセレモニーである。
 各企業の役員たちは高価なプレゼントを持ち寄り、東夏への祝いの言葉を述べたら後は当主たる東夏の父、燕総帥の顔色伺いにする。集まった子供たちは張り付いた営業スマイルで、只管に失言や失礼をしないよう慎重に接している。
 祝宴のホストたる東夏に笑顔はない。忠成は要所で会場の進行を仕切りつつ、後は東夏の隣について世話役をしていた。
 そもそもが上辺の付き合いに過ぎないイベントだが、この年の東夏の表情が硬いことには明白な理由があった。そして、それは忠成にどうこうできる事情ではない。
 パーティが終わり、過剰とも言える賑わいの波が去ると、忠成は主人である燕総帥の書斎へと呼びつけられた。
 扉を開ける使用人の所作がおぼつかないのが、忠成は気になった。ちらりと見れば随分若く見える。最近になって雇われた者だろう。
 書斎の空気は外に比べて重く感じた。呼吸しても、肺に入ってくる酸素が足りないように思える。これが燕財閥を統べる、夏準や東夏が目指した支配者像。その完成形と言える男の纏うオーラ。向き合えばを垂れずには居られない。
「東夏は、間違っても浮かれては居なかったろうな」
 前置きはない。尋ねる時はいつも簡潔に切り出される。忠成はを垂れて答えた。
「緊張の絶えないご様子でした。バースデーバ―ティが社交の場であり、下々がいつにも増して懐を狙ってくることを、坊ちゃまも重々ご理解しておられます」
「現状をえずはしゃぐほど愚かではあるまい。だからと言って、来賓に余裕を見せられないようでは落第点だな」
 燕総帥は机の上に開かれたタブレットに振れ、いくつかのデータに目を通した。
「全く……中間試験で首位を逃すどころか、ピアノコンクール、ジュニアゴルフコンペの成績もこの有様ではな。文武とも目も当てられん上に、虚勢も張れんか」
「ワタクシが付いていながら申し訳ございません。全ては十月の中ごろに患ったインフルエンザが響いたもので、ワタクシの体調管理不行き届きです」
「その叱責は既に済ませた。分かり切ったことを並べるのは、時間の無駄とも言ったな」
 忠成とて、こう返されることは分かって言っている。燕総帥もまた、忠成が多少でも矛先を自分に向けようとしていることを理解しているから取り合わない。
 燕総帥は研いだ刃のように細めた目を、窓の外へと向けた。
「流行病にする自己管理の甘さも呆れるが、トラブルは起きるものだ。むしろ、療養の遅れを取り戻す能力が無いことのほうが失望させてくれる」
「坊ちゃまであれば十分に巻き返せる実力はあったかと。焦燥による精神的な乱れが大きかったように思います」
「それが論外だと言っている。学力と体力は磨けて当然だが、胆力――心の弱さは一朝一夕で解決できん。競争の加速する中学進学からが思いやられるな」
「ひとえに、支える私の力不足です」
「随分と自惚れた物言いをするようになったな。執事風情が」
 深い溜息が書斎に沁み込んでいく。燕総帥の眉間には、深い皺が刻まれていた。それは息子の将来を憂う親の顔ではなく、己の判断の誤りを悔やむ経営者の顔だった。
「つくづく早まったな」
「……何のことでしょうか」
「才能ではなく血を優先したことだ。夏準が妻の子でさえあれば、間違いなく後を継ぐのは〝あれ〟だった」
「その後悔、だったとご報告できるように精進致します」
「珍しく感情が籠っているな。ともかく、お前の仕事は〝雉の代わりの鶏〟を、雉より高く飛ばせることだ。肝に銘じたなら行け」
 腰から折れるように一礼し、忠成は書斎を後にする。
 ドアノブの手応えに違和感があった。忠成はそれを燕総帥には悟られぬよう、努めて平静に部屋を出た。
 間違いなく、ドアは微かに開いていた。忠成は部屋の外に控えていた、若き使用人に顔を寄せる。分かりやすくたじろぐ様は、企業スパイの類とは思えない。であれば盗み聞きしていたのは、この使用人ではない。
「先ほどまで、ここに東夏坊ちゃまが居ましたね」
 囁くと、使用人は首を縦にも横にも触れないまま固まった。頷かないだけ忠誠心は上等だが、答えとしては十分だった。
 忠成はすぐに東夏の部屋へと向かった。足取りは重いが、焦りが歩みを逸らせる。
「坊ちゃま。東夏坊ちゃま。忠成です。よろしいでしょうか」
 ノックに対する返事はない。
 固く閉ざされた部屋の扉は、東夏の心を象っているようだった。再び漏れそうになる溜息を、忠成は喉を鳴らして呑み込んだ。盗み聞きに気づかなかったのは、舌を噛み切りたいほどの失態だった。
「坊ちゃま……」
 正妻の子という立場。親の愛は己にあるという自負。擦り切れた東夏の精神を繋ぎとめていたのは、夏準ではなく自分が選ばれたというプライドだった。
 もちろん東夏自身、薄々気づいてはいただろう。それでもハッキリと聞かれてはならなかった。父が東夏ではなく、夏準のほうを評価していることなど。
 傷ついただけならばまだ良い。だが、切れてしまった心の糸を繋ぐのは容易ではない。
 早く手を尽くす必要があった。手遅れになる前に。
「……坊ちゃま。来賓の皆様のプレゼントがございます。扉を開けて頂けないのでしたら、失礼ながら外に積ませて頂きます。ご容赦ください」
 忠成は使用人たちに手伝わせ、プレゼントの箱を部屋の前へと運ばせた。
 そしてさり気なく、一枚の薄い包みを、プレゼントの山から少し離して置いておいた。 
 あえて雑に安っぽくした包装は、他のプレゼントに比べて浮いている。メッセージカードも添えていない。
 しばしして、プレゼントの山を倒す音が聞こえた。
 目ざとい東夏ならば、おかしな包みには気づいたことだろう。贈り主が推察できない代物なら、東夏は確かめずにはいられない。普段ならば使用人を呼んで確認させるところだろうが、今の東夏ならば、きっとそうはしない。
 思った通り、東夏は安っぽい包みをしかと拾い上げていた。

 東夏の誕生日を過ぎれば、いよいよ寒風も厳しくなる年の瀬。勉強も追い込む時期となり、東夏も遅くまで復習に励んでいる。
「忠成。今夜は冷える」
「畏まりました。セイロンティーを温めてお持ちします。ミルクは添えて宜しいですね」
「任せた」
 茶葉はウバの一級品を選び、添えるミルクは温めておいた。
 トレーを持って部屋を訪ねると、思った通りちょうど小休止のタイミングだった。椅子に深く腰掛ける東夏の耳には、ワイヤレスイヤホンが嵌っている。声はかけずに目配せしてトレーを置く。
 この光景は、忠成にとっては誤算だった。
 あれから東夏が立ち直るのは、一晩では成らなかったものの、思ったよりは早かった。
 それ自体は喜ばしい事だが――一日の終わりごろ、こうして東夏が音楽鑑賞にる様を、忠成はたびたび目にするようになった。
 何を聴いているのかは知っている。誕生日の際に忠成がプレゼントに紛れさせた包みの中身は、ラップミュージックのCD。
 それも〝BAE〟のCDだ。
 目論見としては、東夏にCDを聴かせ、それが夏準の属するユニットの曲だと明かす。
 そして、こう慰めるつもりだったのだ。「放逐された兄は、遠く離れた日本の地でHIPHOPなどにかまけている。それもメジャーデビューもできずインディーズで燻っている。燕家を継ぐ未来の約束された東夏とは、もはや住む世界が違う」と――そう教えてさしあげるつもりだった。
 だが、忠成にはできなかった。
 CDを聴く東夏の目が、見たことも無い程に輝いていたから。
 傷つき、立ち止まった心を音楽に癒される、年相応の少年の横顔をしていたからだ。
「……坊ちゃま……」
 蚊の鳴くような呟きを、忠成は口の中で噛み潰す。
 あれから、東夏はよくラップを聴くようになった。特に好んで聴いているのは、やはり〝BAE〟の楽曲。出会わせたのは、忠成だ。
 部屋からの去り際、忠成はちらりと振り返り、東夏の様子を覗き見る。
 専属の執事となり六年。あれほど穏やかな東夏の顔を、忠成は見たことがない。
「……」
 忠成の目論見は外れた。かつて仕えた夏準をダシに使うことに後ろめたさはあったが、あくまで忠成は燕家の執事。跡取りたる東夏のためならば、兄の落ちぶれた様を反面教師に見せてやろうと思った。
 だが結局――本人たちはそうと知らずとも、兄の歌声は弟の心を救った。
 SUZAKUの意向が大きいのだろうが、BAEの楽曲は〝人〟に寄り添っている。挑戦的でありながら、友も敵も認めてリスペクトし、エールを送る。「自分たちは今を必死に駆け抜けている。お前たちにも出来る」と励ますように。
 その背中を押すような音が、東夏を失意から立ち直らせた。それ自体は予想外とはいえ、結果としては悪くない。息抜きが出来たことで勉強も捗っている。
 しかし、忠成には複雑な思いがある。
「それでは……いけません。ダメなのです、坊ちゃま」
 音楽に聞き入る東夏に警戒はなく、忠成の呟きにも気づかない。
 気の抜けた表情は、決して〝燕家の跡取り〟に相応しいものではない。いくらリラックスしたとて、今まで東夏がそこまで心を裸にすることはなかった。
 執事として、主人にとって喜ばしい変化とは言い難い。心の底から浮かぶ暖かい感情など、燕家の人間には必要ない。あれでは忠成の理想たりえない。
 だが一方で、相反する感情が忠成の中にある。
「坊ちゃまは……坊ちゃま〝達〟は、幸せなのでしょうか……」
 今の東夏を見て、胸に生まれる何かがある。東夏が楽しそうにしていることを、純粋に嬉しく思ってしまう忠成がいる。
 忠成が仕えているのはあくまで燕家。総帥の跡取りである東夏だ。忠成は東夏の親でもなければ兄でもない。まして友でも。尽くす悦びだけを求めるのが、白忠成であるはずだ。
 ――ならばこの暖かさは、何だ。
 服の下の古傷が、責めるようにチリチリと痛む気がした。
 それからの東夏は、少し開き直ったようにも見えた。間違いなく変化はあった。それを肯定するか否か、忠成は答えを出せないままでいる。
 どこか歯車がズレたまま、それでも忠成は東夏をたしなめることが出来なかった。親に隠れて密かにラップに聞き入ることがバレないように、東夏を助けすらした。
 十三歳のあの日、ぐちゃぐちゃになったまま膿んでしまった感情の奥底が、今になって清らかな水に曝されているようで落ち着かなかった。
 そうして一年の終わり。残り少ない十二月が過ぎていった。
 東夏の成績は持ち直した。燕家は幾分か平和に、年の瀬を迎えられる目途が立った。
 東夏が小学生として過ごす、最後の数か月。
 事件が起きたのは年明けのことだった。

 二月付近の旧正月を大きな節目とする韓国では、年明けにこそ年末のような慌ただしさがある。
 先祖の霊を迎える茶礼床の準備や親族で集まる帰省に向けて街の空気は逸り、いわゆるお歳暮のようなギフト品が売り場に並ぶようになる。また、一年で最も冷え込む時期であることから、暖かな食べ物を提供する店や屋台が活気づく。
 寒風の中で沸き立つ韓国の一月。
 人波の増す通りを行く東夏の後ろを、忠成は両手にショッパーを連ねて歩いていた。
「少し、売り場を見て回るには遅い時期だったな。進学前にもう少しコートを揃えておきたかったが」
「坊ちゃま。お誕生日プレゼントの中には、今冬トレンドデザインを取り入れたカシミヤのコートがあったかと記憶しております」
 東夏は立ち止まり、踵で忠成のを蹴った。
「いっ、つぅう……!」
「あのコートが僕にはワンサイズ大きいことに気づかなかったのか? 間抜けめ! ブランドネームだけ見て祝う相手のサイズも把握していない、粗末な頭の人間が贈った服に袖を通せと言うのか!」
「せ、成長期の坊ちゃまの育ち具合を見越してのこととっ、ううっ! 脛ぇっ♡」
「僕の成長が遅いと言いたいのか!」
 ――執拗に同じところを狙うお仕置きも良い物です、坊ちゃまぁ!
 ……と悦びに震える反面、忠成は東夏からのご褒美――もといお仕置きがあることに興奮――もとい安堵していた。相変わらず、背丈の話は地雷である。
「し、しかし坊ちゃま。寒風の街中を歩いて回られるとは……お車を回せば暖かくショッピングをお楽しみ頂けますのに。感染対策のマスクも息苦しいのでは」
「一月の街中に、我が家の車は小回りが利かなすぎる。窮屈な道路が目に入らないのか? それとも、厚着をした僕がペンギンのようだから往来を歩くなと?」
「そ、そんなことは滅相も」
「そういう目をしていた!」
「はううっ♡」
 本日、厚着気味の東夏は上半身を動かすのが億劫なのか、お仕置きはローキック多めのようだ。忠成は往来であるため声を我慢する。この我慢もまた甘美である。
 とはいえ、半ば自虐気味なことを言い出すほどに厚着して、往来を歩くことに拘る東夏のことは少し気になっていた。
 もしや、と思った頃には案の定、東夏の脚は入り組んだ路地へと向かいつつあった。
「坊ちゃま。そちらの通りに目ぼしいハイブランドは無かったかと」
「服やアクセサリーは十分に買った。この先はついでの買い物だ」
「……レコード店で御座いますか」
「ボンクラの荷物持ちに、詮索や意見の余地を与えたつもりはない」
 歩いて行く東夏に、忠成はやや早足で追いついて話す。
「坊ちゃま。HIPHOPを楽しまれること自体はこの忠成、意見するつもりは御座いません。ただこの方向、坊ちゃまの目指す店は少々立地に問題が」
「〝クェムルの喉〟のことを言っているのか」
 日本語で言えば〝怪物の喉〟と呼ばれるその通りは、元々あまり風通しの良い地域では無かった。しかし近年は急速な治安の悪化に見舞われている。幻影ライブの隆盛を受けて、怪しげな販路で仕入れた粗悪なファントメタルを捌く店舗が生まれ、ナイトクラブや輸入ハーブの店舗が並び、そこから虫歯が広がる様に腐っていった。
 摘発しようにも、ある政治的事情――そのカラクリを忠成は知っているが――によって警察も踏み込めず、大小さまざまな犯罪の温床ともなっている。
 かつて忠成を攫った一団も出入りしていたという。そう言った事情もあり、忠成は主人に意見する。
「はい。あの地域に近づくのだけは、ワタクシも看過できません」
「地理を頭に入れているなら、レコード店はその手前にあることも分かっているだろう」
「確かに……治安は通り一つ挟んで大きく変わるものですが、その手前でもグラデーションがあるものです。かの店の客層はクェムル色が混じっているかと」
「何のためにお前を連れている? 通りに踏み込んだならいざ知らず、外れのレコード店でくらい主人を守ってみせろ」
 そう言われれば、忠成も折れるしかなかった。それが執事としての自負から来る答えなのか、或いは夏準の身代わりとなったあの日の記憶が判断力に関わったのか、忠成自身よくわからない。
「ただ、坊ちゃま。表通りを外れるのならば、どうかワタクシに先導させてください」
「なんだと? 僕に執事の後ろを歩けと?」
「いえ、ただこの先は土地勘がないと少々複雑なようですので……」
 暗に「坊ちゃまは道に迷いやすいので」と言われているのを東夏も察していたようだが、指摘しても墓穴を掘るだけとも理解しているようだった。忠成の足は踏んだが。
 結論から言って、忠成の申し出は正しかった。スマホでマップを確認しながらでも、迷いそうな入り組んだ通りに入っていく。少しして忠成の足が止まり、東夏が首を捻る。
「どうした」
「申し訳ございません。電波状況が悪いようで……ですがご安心ください。地図は記憶しておりますので、問題なくご案内できるかと」
「フン。そうでなくては困る」
 目的のレコード店はいかにもマニアックな店構えで、開け放たれた安っぽい引き戸の奥からはカビくさい匂いがした。初めて訪れる東夏もこれには顔をしかめたようで、長く居座ることは無いだろうと忠成も安堵した。
「……HIPHOPのコーナーは、あるな」
 それでも一応入店する東夏に、忠成は内心、少しの驚きを抱く。
 常々不思議に思うところはあった。東夏の環境は、上流階級という温室で手入れされる薔薇のようなものだ。ところが、東夏は下町の空気や屋台通りの喧騒に、意外と物怖じしない。気まぐれに屋台でりんご飴を買ったりもする。忠成が知る限り、東夏の同級生のように裕福な家庭で育った子供たちは、庶民的な環境に尻込みするのだが――。
 東夏に続いて踏み込んでいく。店内には先客が一人。色の落ちきったデニムジャケットに身を包むスキンヘッドの男は、場違いな身なりの少年と執事を驚いた顔で見た。
 忠成が目でけん制すると、男はそそくさと退店しながら、ポケットからスマホを取り出した。メジャーなメーカーの機種ではなさそうだった。
 忠成は棚に飾られたファンク・アーティストの写る紙製ジャケットを観察しつつ、先の男に注意を配る。警戒はしたが、男が戻って来ることはなかった。
 しばしして、東夏は日本人ラッパーのアルバムを二枚ほど選び出し、忠成が会計した。カードも使えないのは不便だったが、現金も持ち合わせるのが出来る執事だ。
 店を出ると、冬の陽は既にビルの向こうに隠れて、オレンジ色に染まっていた。風は冷え、建物の落とす影は長く伸びて、一月の夜が駆け足で迫ってくる。
「坊ちゃま、そろそろ戻るのがよろしいかと」
「当然だ。夕刻に裏通りを歩くほど能天気じゃない」
「この先の、表通りに面する郵便局にタクシーを呼びましょう。この時期の夜風に坊ちゃまを晒しては旦那様に顔向けできません」
「なに? 先に呼んでおくくらいの気回しは出来ないのか、愚図め」
「ああっ……♡ 申し訳ございません坊ちゃま。相変わらずこの辺りは電波が悪く……」
 少し歩いて、東夏が不意に表通りとは逆の方向へ曲がった。主人の方向音痴を忘れていたわけではないが、忠成は慌てて引き留める。
「坊ちゃま。行けません、そちらは〝クェムルの喉〟へ通じる道です」
 東夏はややバツが悪そうに声をあげる。
「わ、わかっている。僕はただ気になるものが――」
「坊ちゃま?」
 言葉が切れて、忠成は東夏の視線を目で追った。
 通りの向こう、影に包まれつつある建物の谷間に、東夏ほどの歳ごろの人影が見えた。
 困惑に上ずった東夏の声がした。
「……あいつ、友珍?」
 見間違いでなければ――その幼い人影は、先ほどレコード店で見かけたスキンヘッドの男と、冬の夜闇に消えていった。

「何卒! ……何卒、この通りです」
 客間にて。訪れた友珍の父――氏はカーペットに額をこすり付け、東夏の父、燕総帥に助けを乞うていた。跪く背に降り注ぐ視線は冬の雨のように冷えている。
 燕総帥は柔らかな椅子に深く腰掛けながら、ぬるくなった紅茶をすする。
「梁くん、顔を上げたまえ」
「では……」
「見苦しいと言っている。ヤン電子は興行業ではあるまい。その粗末なパフォーマンスを何時間続けたところで一ウォンの金も動くことは無い」
 梁氏の顔が青ざめて行く。燕総帥は椅子を立ち、窓の外に視線を放る。
「確かに、燕家の情報網と人脈を大いに活用すれば〝クェムルの喉〟にも及ぶ。我が家の執事が犯人と思しき男の特徴を押さえてもいる。独自に捜索し、交渉することは可能だ」
「な、ならば」
「で、君のために燕家が動く理由はどこにある?」
 梁氏は押し黙った。燕総帥はもう、視線を向けなかった。
「君の息子……名は友珍だったな。優秀ではあったらしいが、捜索に燕家が手を貸す道理は何もない。そもそもまず警察を頼るのが道理だろう」
「警察には届けました! しかし、彼らはあの通りにはロクに手を出さないのです」
「フン。我が子を〝クェムルの喉〟に出入りさせて気づかない親が、居なくなってから焦ったところでな。そもそも血の繋がりは無かったはずだろう?」
「それは……!」
「情があるとでも? 息子の素行に気を配らなかった君自身、内心では養子を軽んじていたということだ。跡取りが欲しいならば、さっさと代わりを見つければ良い。そうでなければ……」
 梁氏は東の空を見上げて、眉を寄せた。
「代わりの利かない価値を認めているならば、せいぜい手を尽くすのだな」
 それ以上、二人の交渉が動くことはなかった。

「あのバカめ。近頃は塾でも見かけないと思ったが……」
 同日の自室にて。東夏は椅子のひじ掛けに頬杖を突き、ハニージンジャーティーで喉を潤しながら呟いた。
 忠成は傍に控え、東夏に命じられるままに梁氏のやりとりについて報告していた。
「HIPHOPに興味を持つ若者が富裕層にも増えつつある昨今、匿名性の高いチャットアプリを介し、トラックの提供やクラブの紹介を謳った誘拐事件が増えております。今回も流行の手口かと」
「……レコード店に居た男の驚きはそういうことか」
「坊ちゃまもお気づきでしたか」
「当たり前だ。僕のような身なりの良い客が入店してきたが、ターゲットである友珍の特徴とは違った。大方、仲間に連絡するために店を出たのだろう。連中も準備した段取りというものがあるだろうからな。……警察は、やはりあてにならないか?」
「おそらくは。あの通りにはアルタートリガー社の息がかかっております」
 燕家の人間として知らない名ではない。近年発生している誘拐事件の一部は、アルタートリガー社にファントメタル検体として売り飛ばされているのだ――という噂が流布しつつあるが、それが決して眉唾ものではない事も東夏は知っている。
 ため息を吐きながら、東夏は自分のスマホをつまみあげる。
「つくづく一人で訪れた友珍の間抜けさには呆れるな。……追跡可能なスマホやGPSタグも持っていなかったのか? 迂闊すぎる奴だ」
「富裕層を狙う以上、対策は十全でしょう。あの時、レコード店に近づくにつれ不自然に電波状況が悪くなったことを覚えておいででしょうか」
「ジャミング装置……ドブネズミは得てして抜け穴を探すのが上手いものか」
 東夏は嫌悪感を滲ませながら、スマホをスワイプする。
「梁氏がどれだけ頭を下げても、お父様は捜索に協力しないだろうな」
「坊ちゃま」
 忠成は東夏が言葉を続ける前に釘を刺す。
「旦那様の判断は正しいかと。ヤン電子は確かに燕グループの傘下企業ですが、家庭の事情は話が別でございます。警察ですら〝クェムルの喉〟の捜査に及び腰なのは、それだけの理由があるということ」
「……でも、アルタートリガー社に資金提供している燕家なら、クェムルの顔役と交渉が可能だろう。裏の情報網を使えば、消えた子供一人探すのも容易い。違うか?」
「だとしても、それを振るう理由がありません。旦那様が梁氏に告げた通り、そこまでして友珍様を救うメリットが燕家にはないのです」
「メリット? 犯罪に巻き込まれた人間を助けるのにメリットが要るって?」
「坊ちゃまは、それを考えなければならない御立場です」
 忠成の言葉に、東夏の目が強く見開かれる。それから、力なく視線が落ちた。
「そもそも、なぜ坊ちゃまが友珍様の安全を気になさるのですか? 他のご学友と違い、無礼ばかりを働く方でしょう」
「なぜだと……? なぜそんなことを、僕の気持ちをお前に説明しなければならない?」
 東夏も頭に血が上りつつあった。ガタリと椅子が音をたて、東夏の声が大きくなる。
「お前は僕の執事だろ! いつもみたいに気持ち悪い笑顔を浮かべて、なんだってハイハイ頷いて居ればいいのに! お前、自分の立場を――」
「燕家の執事なればこそです」
 忠成を仕置きしようとして振り上げた、東夏の手が止まった。
 忠成は赤みがかった瞳を細め、声のトーンを低くする。そこには普段の飄々とした雰囲気は失せ、火遊びをする子供を制するような、厳しい大人の顔があった。
「ワタクシは燕家に仕える身として、坊ちゃまが戯れに藪を突くことは止めなければなりません。こればかりは如何にお仕置きを受けようと、譲れないことです」
「……そうだろうな。……ああ、そうだとも! 分かっていたさ!」
 東夏は振り上げた手を下ろし、椅子に深く身を沈めた。
「結局、お前は僕ではなく……燕家に仕えている人間なんだ」
 不意に、忠成は胸の奥を握りしめられるような苦しさを覚えた。それは鞭で打たれるよりも、刃で切り裂かれるよりも、遥かに激しい苦痛だった。
 一瞬、忠成の視界が滲むように歪んだ。東夏の姿が東夏ではない誰かと重なった。ぼやけた景色の中で浮かぶ輪郭は、あの日見た夏準の背中。
 あの日と同じ言葉が、なぜこんなにも痛いのか。そしてその痛みがどうして快感にならないのか。この時の忠成には、まだ分からなかった。

 日付の変わるころ。ルーティーン以外の考え得る限りの仕事を終えても、不思議と忠成に眠気は訪れなかった。十分な休息を取り、翌日を万全に迎えることもプロフェッショナルの義務である。それでも忠成はぼんやりと、自室の天井を見つめるだけ。
 思い当たる節はある。だがハッキリ言葉にしようとすると、その言葉は煙のように揺らいで、手の届かない所に散っていく。それは忠成がかつて壊されてしまった、心の破片が散らばるその先にあるように思えた。
 頭の奥がチリチリ焙られるように病んで、胸が引きつって呼吸が浅くなる。冬だというのにじっとりと汗がにじむ。起きながら悪夢を見ているような気がした。
 時計の針が立てる音がやけに鈍い。時間の流れが遅く感じる夜。
 その淀んだ時間を終わらせたのは、日付が変わってから聞こえたノックの音だった。
「忠成。起きろ」
 忠成は慌て気味に駆け寄り、扉を開けた。
 タブレットPCを携えた東夏がそこに居た。
「……坊ちゃま? 如何成されましたか」
「用事があるから訪れたに決まっているだろ。主人が要件を言う前に尋ねるな、愚図」
「あっ♡」
「罵倒されただけで喘ぐな!」
 一瞬で〝ご褒美〟を受けるモードに入った忠成を尻目に、東夏は忠成の部屋へ入った。
 足を組んでベッドに腰かけると、タブレットをスワイプして画面を出す。忠成は跪くようにしてそれを見る。
「坊ちゃま、これは……」
今日、幻影ライブ市場は右肩上がりに成長を続けている。我が燕家がファントメタル研究への出資に踏み切るほどに……だが飛躍的に膨らむ経済効果の裏で、満足な対策が為されないまま抱え続けている問題がある。分かるな?」
「……ファントメタルの使用における不可避のデメリット……浸食反応でございますね」
 東夏は頷かず、ただ胸を張る。
「そうだ。ブームの爆心地である日本を中心に幻影ラッパーの活躍が広がる一方で、浸食反応のもたらす問題を叫ぶ声もある……今はまだ市場の熱に隠れていても、いずれ必ず、この問題が大きく取り上げられる時が来る。だが――予想の可能なデメリットは、新たな市場形成の種でもある」
 東夏の指がタブレットを撫でる。明瞭に整理されたデータが画面の中を踊る。
「幻影ライブ自体が新しいムーブメントである以上、その治療技術の市場は手付かずのブルーオーシャンだ。いち早く技術を確立すれば、生み出される利益の期待値は、測り知れない物になる」
「……確かに。ファントメタルのデータがほぼアルタートリガー社に独占されている以上、参入の難しい分野です。現実的にビジネスモデルを確立できるのは、現段階では燕財閥くらいでしょう」
「だがそのためには、浸食を受けた細胞を研究するための、専用の細胞解析器が必要だ。この機器に使用するレーザー技術において、我が国でもっとも先んじているのが――」
「ヤン電子、ですね」
「そうだ」
 東夏は腰を上げ、忠成にタブレットを突き付けた。資料にはプランを実現した際に期待できる経済効果が、実に明瞭に数値化されていた。
「お父様がリスクを回避するのはわかる。だが梁氏との関係にしこりを残すことも、多大な身代金を払わせ経営に負担をかけることも、未来のリスクになると僕は考える。逆に、今ヤン電子に絶対の大恩を与えておけば、将来は大きな意味を持つだろう」
 そして最後、東夏はタブレットを下ろして忠成を真っすぐに見据える。
「これは投資だ。目先のリスクマネジメントよりも、一歩でも二歩でも、何人よりも先んじる未来を見据えて動くべきだ。僕が燕家に相応しい人間ならば……違うか、忠成」
 忠成は、直ぐには言葉を返せなかった。言葉の代わりに、忠成自身にもわからない熱い何かが喉に詰まっていた。それを唾と共に吞み込んで、震える喉を動かした。
「おひとりで、全て考えられたのですか。ヤン電子の重要性を検討し、未だ発案段階のプロジェクトを引っ張り出し、これほどのデータを纏めて……」
「当たり前だ。この程度できずに燕家を継げるものか」
「……視点は、悪くはないのかと。ただ、一度切り捨てる結論を下した旦那様が、この説得で頷かれるかどうかは……」
「僕がなぜここに来たか、分からないのか」
 東夏は勝手に逸らしそうになる瞳に強く力を込めて、忠成をとらえ続ける。
「考えはある。でも悔しいけど、きっと僕一人ではお父さまを動かせない。……でもお前はっ! ……白忠成は、今や燕家において多大な信頼を勝ち得た従者のはずだ」
 忠成は胸の奥で、何かがカチリとはまる音を聞いた。それはいつか歪んでしまった、心の歯車の一つだったかもしれない。
 態度こそ忠誠を誓いながら、心のどこかでは、子供だ、子供だとばかり思っていた。小さな肩に大きな責務を課され、窮屈な運命の中で喘ぐ、哀しい子供だと。
 けれど、いつの間にか――。
「為したいことを、為すべきことへと昇華して示す能力。道理を整え、己が力量と向き合い、必要ならば他者を動かす胆力。……立派になられましたね、坊ちゃま」
 ――この方は、こんなにも大きくなっていたのか。
「御託は良い。これを聞いて、お前が僕の資質を認めるのなら……」
 東夏の声が静かに、されど力強く響く。忠成の答えはもう決まっていた。
「執事として、僕だけに尽くして見せろ」
「この白忠成、血の一滴まで貴方様のために」

 動きが起こるまでは、日数を要さなかった。
 その間、梁友珍は安ビルの裏口から繋がる隠れ家に監禁されていた。
 激しい暴行こそ無かったものの、良い環境とは言えない。それでも煌びやかな生活しか知らない良家の子供と比べれば、元孤児であった友珍はまだ耐えられたほうだろう。
 友珍は父の愛を疑ったことはない。それでも、養子である身の上が、刻一刻と不安を大きく膨らませて行く。
 そうして疑心暗鬼と戦っていたころ、食事が運ばれてくる定刻よりも早く、隠れ家の入口が開いた。
 だが現れたのは誘拐犯たちではなく、小さな人影と、それに付き従う一人の男だった。
「意外と良い様でもないな、友珍」
「……東夏!?」
 友珍が目を白黒させている間に、忠成が手早く彼の拘束を解く。縄の食い込んだ後を少し羨まし気に見つめている様子には、友珍は少し困惑した。
 驚いたまま固まっている友珍を、東夏は鼻を鳴らして見下ろす。
「何を呆けているんだ。さっさと帰り支度をしろ、バカモノ」
「……ど、どうして東夏がここにいるんだ」
「フン。燕家の情報網をその気になって活用すれば容易い。せいぜい父に感謝することだな。梁社長が燕家に助けを求めなければ、お前の命か、梁家が傾くほどの身代金のどちらかが失われていただろう」
「……父さんが……」
 友珍はくしゃくしゃに歪みそうな顔を、きゅっと唇を噛んで引き締める。
 父が燕家に遜る様に憤っていた友珍だ。自分自身がその原因となったことは、友珍には耐えがたい現実だったことだろう。
 今この場で、心の折り合いをつけることは友珍には出来なかった。友珍は、己を見下ろす東夏を睨みつける。
「東夏にっ……よりによって、お前に助けられるなんてっ……俺は頼んでなんか……」
「フッ、ハハハ!」
「何がおかしい!」
「この程度の奴と言い合っていた自分が可笑しくてな。……助けられておいて、まず礼も尽くせないような小器を、僕は相手にするつもりはない」
「うっ……」
「縄が解かれたところで、僕らがここで手を引いたら、お前は家にも帰れない。それすら分からないほど愚かなら、喜んで置いて行こう」
「……くそっ、分かったさ!」
 友珍はもう何も言えなかった。忠成が手を貸し、隠れ家から出て行く。
 その時、不意に物陰から男が飛び出した。友珍を誘拐した実行犯一味。スキンヘッドの男だった。
「待ちやがれ! 話はまだ――」
「ひっ!」
 友珍が悲鳴を上げた瞬間には、忠成の爪先が男の顎を打ち抜いていた。
 男の目がぐるりと回り、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。勢いでズレたサングラスを直しながら、忠成は一礼する。
「失礼、仕留め損ねておりました。上との交渉は済んでいたのですが、現場の人間は物分かりが悪く……ワタクシ、少々テコンドーの腕前を披露させて頂きました」
「荒事だけで済む話なら、二、三人程度は忠成の相手じゃない」
 東夏は驚きもせず腕を組む。だがその顔は、どこか誇らしげでもある。
「少し趣味は悪いが、これは僕の懐刀だからな」
 今更ながら、友珍は自分がどれほど荒れた領域に踏み込んでいたのか理解したようだった。ビルの裏手に停められた車に乗り込むころには随分と大人しくなっていた。
 それでも、友珍は必死に現実を飲み込もうとした。
「……東夏、さま」
 車の扉が閉まる前、友珍は顔を上げた。噛みしめた唇は切れて、血が滴っていた。
「必ずッ! ……ヤン電子の跡を継ぐ者として必ず! この恩は、何十、何百倍もの利益にして燕家に返す。俺を助けたことが、無駄な投資だったとは誰にも言わせない」
「フン、せいぜい励め」
 東夏は友珍が乗せられた車の後ろ、燕家の車へと乗りこんでいく。
 車が動き出すと、運転手の忠成がミラー越しに東夏を見て口を開く。
「しかし、坊ちゃま。なんと大胆な……ワタクシ、内心冷や汗が止まりませんでした」
「やむを得ないだろ。結局お父さまから引き出せたのは、裏の情報網と僅かな人員を動かす許可のみだ。見込んでいた通りの結果だったが」
「……まさか、旦那様にもクェムルの顔役にも、〝既に実行犯との交渉が纏まっている〟という空手形で物事を動かすとは思いませんでしたよ」
「フン。お前の我が家での信用と、燕家の名が持つ信用があってこそだ。雷名というのはこう使う」
 東夏は車窓の縁に肘をつき、荒れ果てた通りの景色を眺める。
「ですが、よもや坊ちゃまが自ら此処まで赴かれるとは……」
「ハッ! すでに話がついていると示すには、最も効果的だっただろう。燕家の子が高級車で堂々と乗り付けて〝何の後ろ盾も無い〟と思う馬鹿はクェムルにもそう居ない。例外の馬鹿はお前が片付けて終わりだ」
「ワタクシ、久方ぶりの足技が錆びついて居らず胸を撫で下ろしております」
「……鍛錬を怠ったことなんて、無いだろ」
 ごつん、と運転席の背もたれが揺れる。後ろから東夏が蹴ったのだ。
 忠成は口の端が吊り上がるのを押さえられない。
「危険な橋であったことは確かですが、本当にご立派な振る舞いでございました。そのおみ足の震えも、最後まで隠し通されて……」
「震えてなどいない!」
 背もたれが先ほどより強く蹴られる。
「ふ、ううっ♡」
「運転中に悦ぶんじゃないこの馬鹿! 事故を起こしたらどうする!」
 もちろん、衝撃があってもハンドルは揺らさないのが出来る執事と言うものだ。叱られるのが嬉しいので反論はしない。忠成は息を整えながら、バックミラー越しに東夏へ視線を送る。
「失礼いたしました。……失礼ついでではございますが、ワタクシどうしても気になっておりまして。ひとつ質問を許して頂けますでしょうか」
「許してやる。言ってみろ」
「結局、なぜここまでして友珍様に手を差し伸べられたのですか?」
 東夏は足を組みなおし、再び窓の外を眺める。
「……別にあいつの為じゃない。子供のために必死に額を地にこすりつけていた、友珍の父親を見た時……同じ立場なら、お父さまは僕のためにああしてくれるかと、少し考えた。そうしたら、あの姿を無視できなかった。……それだけだ」
 忠成は、視線をバックミラーから外した。
「旦那様も父親として、同じように坊ちゃまを愛してくださっております」
「そう、信じたいな……」
 エンジンとタイヤの微かな音だけが響く。しばし、静寂が車内を支配する。会話を打ち切ったのは東夏だが、再開したのもまた東夏だった。
「僕からもひとつ問うが……まさか烏滸がましくも主人に質問しておいて、自分は答えられないなどとは言わないだろうな」
「趣味嗜好からホクロの位置まで、坊ちゃまに隠すことなど一切ございません。なんなりとワタクシを詰問なさってください」
「どうして素直に僕のプランに従った? 勝算はあったが、穴も多いのは自覚していた。燕家に仕える立場のお前は、お父様について僕を止めることもできたはずだ。あくまで燕家の執事のお前が……お父さまより僕に仕えることを選んだのは、なぜだ」
 呆気にとられた忠成の顔が、一瞬バックミラーに映った。それからサングラスの奥で目を細め、口角を柔らかく上げる。
「坊ちゃまは近頃、BAEの曲をよく聴かれておりますね。ユニット名の意味をご存じであれば、それが答えに相応しい言葉かと」
「……Before Anyone Else、なるほどな。リスクを取っても未来の利益を見込む姿勢を、お前は評価したということか」
 忠成はBAEの三文字に込められた意味が、それだけではないことを知っている。勿論、東夏も知っているに決まっている。
 BAE――その三文字は〝誰よりも大切な人〟を意味する。
 夏準がどのような思いで仲間とその名を付けたのかは知れないが……東夏は頬の色を隠すように、赤らんだ夕陽に顔を向けた。
「ちなみに、ワタクシはします。坊ちゃまのためでしたら、土下座でも何でも」
「フン、お前が跪くのはただの趣味だろ」
 東夏の小さな脚が、少し加減して背もたれを蹴った。

「それで――案はめてきたんだろうな、忠成」
 そうして年月はまた巡る。流れてゆく雲を眼下にして、十四歳の東夏は、国際線ファーストクラスのシートに持たれている。
 国境を後にする空の上にも、東夏の傍らには忠成の姿がある。
「ハイ。ワタクシ、坊ちゃまの高貴な存在感に相応のユニット名を考案して参りました」
「似合うだけでは不十分だ。同じ音を奏でるユニットとして、〝僕たち〟に相応しい……BAEよりも気高く、世界に轟くような威光を感じさせる名なんだろうな」
「ご満足頂けるものと存じております」
 忠成は手元のタブレットを弄り出す。
 あれから、梁友珍誘拐事件とは関係なく、燕家ではひと悶着があった。遠因は忠成であると言えなくもない。
 伝説のユニット〝武雷管〟の名のもとに開催された〝Paradox Live〟。BAEがその参加チームとして注目されたことにより、メンバーの48の正体が夏準であることを知った東夏の荒れようは凄まじかった。
 放逐されたはずの兄が日本で楽しくHIPHOPに興じていたことも、それが東夏が好んで聴いていたラッパーであったことも、東夏には許し難い現実だった。
 だから、東夏は忠成を連れて日本へ向かうことを決意した。己の人生に付きまとう夏準という存在を、相手のフィールドで叩き潰し、乗り越えるために。
 それはつまり、ラッパーとして日本の幻影ライブシーンに攻め込むことを意味する。
「坊ちゃまならばいずれ、こういう選択をするのではないかと考え、大手プロダクションの協力のもとトラックメイキングを習得しておいた甲斐がありましたね……」
「良いから早く見せろ、ドンガメ」
「ああっ♡ はい、ただいま……」
 特注したファントメタル製のステッキで叩かれ、忠成はタブレットの画面を東夏に見せた。テキストではなく画像データ。既にチームロゴが完成している。王冠を抱く蜘蛛を象ったようなシンボルに刻まれた名を、東夏は目を細めて読み上げる。
AMPRULE……綴りは造語だな。どういう意図だ」
「ハイ。音響機器のAMPと、坊ちゃまこそが新たなる幻影ライブシーンを統べる意味を込めてRULEを合わせ、仏語で〝皇帝〟の響きになるように致しました」
 忠成はしく頭を下げる。嘘はついていない。
 だがAMPRULEという響きにはもうひとつ、意味が込められている。
 Ampleur――広がり、或いは豊かさを意味するフランス語。
 あの日、忠成が見た東夏という人間の持つ大器。そこにはきっと燕総帥の強さとも、夏準の鋭さとも違う、他者をも照らす暖かさが満ちている。
 たとえ競争に勝てなくとも、人の心を動かすことができる。それは東夏だけが持ち得る人徳――覇者ではなく、王者の器だ。
 だから忠成はユニット名に込めた。痛みが嬉しいのではなく、尊敬できる主人のために我が身を捧げることが嬉しいのだと。尽きることのない、尽くす喜びがそこにある。
「なるほど、悪くない」
 主人から褒める言葉を賜り、忠成は幸せそうに頭を垂れる。
 やがて、予め忠成がオーダーしておいた軽食が運ばれてくる。日本産、桜エビのキッシュに煎茶とトニックのモクテルを添えた皿が、東夏の前にサーブされる。
 一目見て、東夏は顔をしかめた。
「……これはなんだ」
「まずは舌から一足お先に日本を味わって頂こうと思いまして、初春が旬の桜エビをオーダーさせて頂き――」
「違う! なぜトレーに猫のぬいぐるみが置かれている!」
「ハイ。こちら国際便を運航している航空会社のマスコットでございます、機内食に〝ぬい〟が付くオプションがございましたので、坊ちゃまのお好きな猫型のものを……」
「誰が頼んだこんなもの! 僕を子ども扱いするんじゃない! バカモノ!」
 ステッキの先が、忠成のわき腹に押し付けられる。
「あっ、あっ、坊ちゃま! 申し訳ございませんっ! ううっ♡」
 あの日、東夏に見出したのは従者として正しい〝尽くす喜び〟。しかし一度覚えた趣味は不変。〝尽くす悦び〟も欲しいものは欲しい。心からの忠義も、歪んだ悦楽も、白忠成を形作る両輪に違いない。
 この主人の下でなら満たされる。きっと、これからもずっと。
 東へ向かう飛行機を見送る様に、ケナリの花が春風に揺れていた。