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 産声を上げろ。

 壊れていたのは、スピーカーではなかった。
 響き続けるノイズは、自分の歪な呼吸だった。目を開いても暗いのは、夜だからではなかった。狭い浴槽の水底には、淀んだ闇が溜まっていた。
 濡れたタイルはざらりとして、体を支える膝が痛かった。踏ん張ろうとした手はホーローの湯船の縁を滑って、口を開けば「ごぽり」と泡が出来た。肺の中から溢れたは、零れていく命のように見えた。吐いた泡の代わりに息を吸おうとして、できなかった。
 中学生の犬飼憂人は、そうして浴室で溺れていることを思い出した。
「――の、役立たず――何度言ったら――」
 狭い浴室には、叔父の声がよく響く。ぼんやりする頭の奥で「水は音を伝えるんだな」と場違いな感想が浮かぶ。呼吸のままならない胸が引きつりそうになって、必死に上げようとした顔は、叔父の腕に押さえつけられた。
 そうだ、あれは〝罰〟だった。
 事故で両親を亡くしてから、子供のいない叔父夫婦の世話になった。この家では〝罰〟が当然のものとして在った。〝役立たず〟は叔父夫婦の常套句で、「生きているだけで金を使うくせに何もできない」という、保護者を要する年齢にはどうしようもない理由で、暴力に晒される日々だった。目当てが両親の遺産であったことは、引き取られた子供にだって明らかだった。
 叔父夫婦は湯船での水責めを好んだ。生きるためには息をする。当然のことが苦痛になる。単純ながら、効果的だった。鼻の奥が刺すように痛み、濁った水が目に染みた。胸が引きつり、目がくらんだ。水の張られた浴槽は、存在を否定する言葉で満ちていた。
 役立たず。役立たず。役立たず。
 だから食事を抜かれても仕方ない。だから殴られても仕方ない。だから水に沈められても仕方ない。誰も助けてくれなくっても、仕方ない。
 何の役にも立たないのだから、そのまま死んだって仕方ない。
 ――そんなわけ、無いだろうが。

 容れ物だ――憂人はそう思った。
 一枚岩の如く敷き詰められたモルタルの床は、足音を固く反響させた。アイボリーの壁は飾り気もなく、雑居房の各室は重く厚い鉄扉で閉ざされていた。警官時代に拘置所は何度か目にしたが、まるで空気が違う。淀んでいた。
 監獄は懲罰の場であると共に、更生と社会復帰を目指す場所である。ルールを順守する厳しさと同じだけ、人の心に寄り添う態度が肝要である――看守への転職を考えた際、背中を押した文章だった。
 看守になろうと考えたのは、警察時代のカウンセリングで、自分の中の〝もう一人〟の存在と、その凶暴性を知った時だ。自分という危険物を管理できる環境を求め、憂人は国内でも〝訳あり〟の囚人が収監される監獄への配属を希望した。
 発端こそ後ろ向きな動機であれ、看守という職業について学ぶうちに、その理念に感銘を受けた。人の過ちに寄り添い、根気強く心を通わせ、更生を促すことで個人と社会に貢献する。
 そんな看守になって、自分の手で誰かの償いを後押し出来たら、自分のような存在にも希望が持てるのではないか。憂人はそう考えていた。
 しかし実際に見た監獄は――一応は人の暮らす場所である筈のその躯体は、ただ外と内とを隔てるための、大きな石造りの容れ物だった。
 憂人は支給された規律要綱を熟読したが、そのルール通りに監獄が運営されているとは、とても言えなかった。頻繁に響く罵声。日に幾度も起こる乱闘騒ぎ。看守は囚人の反抗には厳しいが、囚人間で起こるトラブルや日常の規律破りには我関せず。
 憂人は当初、その荒れた実態に面食らったが、少し経ってようやくそこに蔓延する空気の正体を、自分なりに噛み砕いた。
 絶望している。
 囚人も、看守も。ただ監獄という大きな容れ物に押し込められて、鬱屈した気持ちを内側に吐き捨てていた。目指す物がない。未来が良くなることなど無いのだと――その諦観が監獄全体に満ちて、行き場のない吹き溜まった風が淀んでいた。
「災難ですね、犬飼さん」
 声がした。憂人の隣を歩くのは、教育役として出会った先輩看守だった。憂人が来た当初はもっと横柄な態度であったはずだが、ある一件以来は敬語しか使わなくなった。妙に尊敬されている節もあり、憂人は少し居心地が悪い。
 彼の言葉は主語が曖昧だったが、何を指しているのかは分かった。憂人は首を横に振る。
「いえいえ。まだ経歴も浅く微力な私ですけど、相応しいと任せて下さる仕事なら、全うしたいと思います」
「真面目過ぎですよ犬飼さん。そんなだから、安月給で面倒を押し付けられるんです」
「面倒だなんて」
 憂人は心から笑った。
「看守としてまだ新米の私に期待してくださるんですから……光栄なことですよ」
 会話が途切れると、廊下にはコツコツと乾いた足音だけが響く。やがて大きな扉に近づくにつれ、土砂降りのような歓声が漏れ聞こえてくる。
 そこは、本来は囚人の慰問イベントを招致するホールとして設計された物らしい。だが今や、この監獄においてその部屋は、全く別の意味合いを持つ空間となっていた。
 重い扉を開ければ、熱と振動が出迎えた。
 古いスピーカーから流れる重低音。ステージを煌々と照らすライトと、光を透かして揺れる煙草の煙。酒瓶を掲げて沸き立つ囚人たち。週末のライブハウスのような光景が、監獄の中に広がっていた。
 通称〝プリズンラップ〟。
 ひと月に一夜、ラップの腕に覚えのある囚人たちがステージで競い合う。囚人たちのガス抜きの為に行われるこの催しの間は、酒も煙草も、あらゆる娯楽が許される。
「あちらです」
 先輩看守の指す方へ。興奮した囚人たちの間を縫って、憂人は歩き出す。
 このプリズンラップを知った当初、憂人は困惑した。秩序と規律を教え、更生を促すはずの監獄に、こんな混沌とした催しが許されて良いものかと。
 だが、今は少し考えを改めている。
 どんな形であれ、この夜にはエネルギーが満ちている。
 日々に飽いた者にも、理想をう者にも、現実に膝折った者にも。この夜は等しく熱を伝え、前を向かせる力がある――憂人の目にはそう映る。この行き詰った、息詰まる監獄の何かを変え得るとすれば、それはプリズンラップなのではないかと、そう思うのだ。
 だからこそ今回、所長から直々に言い渡された仕事を、憂人は歓迎した。
 人ごみの向こう、目当ての赤い髪が見えた。
「すみません、ちょっと通してください」
 盛り上がっている所に水を差され、囚人たちは眉根を寄せて憂人を睨み――そしてすぐに道を開けた。囚人たちの眼差しが、妙に熱い。
 心当たりがないわけでは無かった。初めてプリズンラップを目にした時、憂人は思わず止めに入った。その夜はいつの間にか記憶が途切れて、気づけば先輩看守や囚人たちの見る目が変わっていた。
 周りの話を繋ぎ合わせると、どうも憂人の中に居る〝もう一人〟がプリズンラップに飛び入り参加したらしい。……自分が率先して殴りこんでしまったのだから、頭ごなしにこの催しを否定しづらい、という気持ちも多少ある。
 しかし結果としては良かった。おかげで彼との接点が出来ていたのだから。
「土佐くん。土佐凌牙くん」
 声をかけると、まず彼の周りに居た取り巻きの視線が向いた。しかし彼らも憂人を見るとやや顔を強張らせ、一歩引いた。「一体、もう一人の私は何をしたのでしょう――」と気が遠くなる。
 そして当の凌牙は、ビール缶のラベルに落としていた碧の視線を、ゆっくりと上げて憂人を見据えた。
「……やんのか?」
 小さな、しかし低く唸るような声がした。凌牙と憂人が初めて顔を合わせたのは、先月のプリズンラップの夜のこと。それ以前から、憂人は囚人たち全員のプロフィールに目を通していた。
 凌牙が言葉少なな人間であることも知っている。だから憂人は、短く誤解しがちな彼の言葉を、前後の文脈を合わせて咀嚼し、返事した。
「いえ、今日はラップをしに来たわけでは無くて、ですね」
「……なら、帰れ……今夜は、俺たちの夜だ……」
「ええ、承知しています。前回はこの監獄の事情を知らず、先走ってしまい、失礼しました。ただ折角ですから、今夜のうちにお話しておこうと思いまして……」
「……あ?」
 憂人は背筋を伸ばし、笑顔を浮かべた。
「特別指導係として、土佐くん達の更生をお手伝いすることになりました。明日は朝から居室に迎えに行きますので、起床時間十分後までに身支度をお願いしますね」
 凌牙も、彼を取り巻く囚人たちも、しばしパチパチと瞬きする。
 それから凌牙の口が呆れたように開き、鋭い犬歯が覗いた。

 ――例の小煩いライブごっこで、早速やってくれたそうだね。いや、構わんよ。傭兵、警察と荒事慣れした君に来てもらったのは、まさにあの問題児たちを相手してもらうためだからね。
 そろそろ、仕事にも慣れて来たころではないかな。そこで、どうだろう。君にはぜひ、この監獄でも特に手を焼いている三人を、重点的に指導してやって欲しいのだが――。
 刑務所長の言葉は、更生施設の長としてはルーズな言い回しだった気もする。
 ともかく、憂人自身はその指示を好意的に受け入れた。
 言い方はどうあれ、憂人の経歴を買っての指示であるし、受刑者に更生を促すというのであれば、それは看守として本望と言える業務のはずだ。
 だから新たな仕事始めとなる最初の朝、憂人は張り切って凌牙の独居房を訪れた。
「おはようございます! 今日も一日、元気に頑張りましょうね!」
 ただでさえ強面の凌牙が、眉間に皺を寄せると一層険しい顔になる。
「……一服」
「はい、煙草は許可された時間、範囲でなら構いません。けれど起床後は朝礼前に身支度と、房の清掃、整頓をすることになっていますよね」
 無視して煙草を取ろうとする凌牙を頑張って通せんぼをしつつ、結局は「お手本ですからね」と憂人が朝の掃除をした。
「こんな感じです。明日からは自分でやってみてくださいね」
「……」
「……やってみてくださいね~……」
 素直に「ハイ」と言ってくれるとは思わなかったが、どうも気まずい空気が流れる。けれど看守が囚人に怯んでいては始まらない。
 凌牙の元に残って朝の点呼を待ち、それから朝食を共にした。あらゆる物が解放されるプリズンラップの夜に比べて簡素な食事を前にすると、凌牙はさほど美味そうにもせず箸をつける。しいたけを当たり前のように避けたのは頂けない。
 朝食を終えると、他の囚人たちは刑務作業へ向かう。憂人は動こうとしない凌牙に声をかけた。
「では土佐くん。お暇でしたら、ちょっと付き合って頂けますか」
「……ああ?」
「実は、他にも指導する方たちが居るんです。甲斐田紫音くんと、御子柴賢太くん。お二人とも刑務作業にはあまり顔を出さないそうなので、もしかして土佐くんなら居場所を御存じじゃないかな~……と」
 凌牙の表情には複雑なものがあった。「なんで俺が」と「よりによってこの三人を纏めて相手する気か」と、不満と呆れをブレンドしたような顔だった。
 憂人は「少々図々しかったでしょうか」と不安になったが、意外にも凌牙は重そうな腰を上げてくれた。
「……行くぞ」
 冷たい目には、「アイツらが相手にするとは思わないが」という、一線を引く温度感が込められていた。
 一般の刑務所に比べて厳重な監獄の中は、極端に外窓が少ない。
「塀の中でも季節の流れを感じて欲しい」と福祉法人が植樹した桜の木も、囚人たちはロクに目にすることもない。監獄の時計は精緻に刻まれるが、時間の流れが緩慢に思えるのは、そうして世界から切り離されるからだろう。
 ダルそうに各々の刑務作業に向かう囚人たちを横目に歩きながら、憂人は世間話のトーンで凌牙に話を振った。
「そう言えば……ここの皆さんの例に漏れず、土佐くんはラップが好きなんですね」
「……」
「あるんですか? その、ラップをやる理由とか、きっかけとか……」
「テメエは……?」
「私ですか? 子供のころから、人並みには聴いていましたけど……自分でやろうとかは、なかなか。実はちょっと真似したこともあるんですが、才能とか無さそうで……はは」
「……ああ~……?」
 凌牙が怪訝そうに歯茎を剥く。それから少し考えるようにして、口を閉じた。
 質問の答えは、凌牙から返ってこなかった。

「ウソでしょう~……?」
 たぶん、既に何かの後だった。凌牙から「ここからは一人で行け」と言われて、進んだ廊下の先にある物置部屋。
 甲斐田紫音は、束ねられたマットレスにゆったりと腰掛けていた。
 美しい白蛇がとぐろを巻いているような、女王の寝床を描いたバロック絵画のような、どちらにも見えた。近づくと、ふわりと甘い香りがした。輸入タバコの香りに似ているそれが、憂人の鼻先をくすぐり撫でて、抜けて行く。
「あぁ、あんたか」
 とろん、とした紫音の瞳が憂人を映す。気怠そうに体を起こすと、細さに対して上背のある体つきがよく見える。
「今、ちょっとダルいんだよね……見てわかんない?」
「わかるもわからないも、まず規律違反ですよ甲斐田くん。ここは私用で使って良い区域ではありません」
「冷めること言わないでよ。他の奴らと違って、暴れたりしてるわけじゃないんだし……若いウチに色々経験しといた方が良いと思うよ? 人との深い繋がり、とか……」
「あ、大丈夫です……結構良いトシなので、今更……」
 紫音の眉間にうっすらとシワが寄る。
「あんた、いくつ?」
「今年で三十二歳になります」
「嘘! 童顔おじさんだ……」
「うっ……」
 ある年齢を越えた男にとっては「老けてる」よりも、「若い」「幼い」がボディブローのように効いてくる。憂人は少々目頭を押さえながら続ける。
「甲斐田くん。その様子ですとご用事は済んだようですし、少し付き合ってくれませんか? 向こうで土佐くんも待ってますので」
「あー、なるほど。三人で遊ぶのが好きな人?」
「う~ん、どうしてもそっちに行くんですね……」
 どうも凌牙とは別の方向性でやりにくい。憂人はムズムズする頬をめるように人差指で掻き、座る紫音に目線を合わせるよう屈む。
「甲斐田くん、ここは更生を目指す場所です。恋愛を縛るルールはありませんが、風紀は守らなければなりません」
 紫音は思わず吹き出した。
「恋愛? それってどこの国の言葉なわけ?」
 赤い瞳を細めた紫音が、白い指先で頬を撫でる。鱗のような肌が艶めいて、暗がりの中に妖しく浮かぶ。憂人は困り笑いで会話を続ける。
「……人と距離を縮めて、触れ合うのは安心することだと思います」
「だよね? タバコや酒と一緒だよ。別に恋とか愛とかじゃないって」
「でもですね、甲斐田くん。交際でないのなら、猶更やめてください」
「はぁ。なに? 少女漫画とか好きなタイプ?」
「心の伴わない関係は、その……肌は暖かくても、ここが寂しいでしょう?」
 憂人が胸を叩くと、紫音は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
「一時は楽しくとも、リスクのあることなんです。心も体も、大事にしてください」
「こんな体でも大事にしろって?」
「当然大事にしてください。君の体は一つだけです」
 憂人は相変わらず困り顔だったが、その声に揺らぎは何もなかった。
 しばらく、紫音は固まったように瞳を見開いていた。色素の薄い瞳孔が、眩しそうに絞られる。それからたっぷりの困惑を乗せて、紫音は呆けた声を出した。
「え、じゃあ俺に何させに来たの?」

 御子柴賢太は独居房に居た。
 普通、独居房というのは他の刑務者とのトラブル防止など、特殊な理由で入れられる。
 カリスマ性の高すぎる凌牙、風紀を乱す恐れのある紫音は分かるとして、賢太にはより一層特殊な事情がある。
 主な罪状は、既存の分類をするなら〝不正指令電磁的記録作成等〟で、刑期は無期。
 普通なら有り得ないことだが、全ては賢太の有する才能が規格外かつ、現代においては危険すぎるがため。〝特別電磁的刑務作業〟という名目で、賢太は様々なサイバー犯罪捜査に監獄内から協力している……とのことだ。表向きは。
 では部屋の中にあるゲームパッドやゲーミングヘッドホンは何なのか。憂人にはいまいち分からない。
「御子柴くん……御子柴賢太くん!」
 しばらく画面に食い入りながらキーボードをバチバチ叩いていた賢太は、ちょうど憂人が声をかけたタイミングで持っていた有線マウスを投げた。
「あークソ! 朝からゴミみてーな試合させやがって利敵野郎! 何しに起きてんだコイツ! 頼むからその指かLANの根元折って消えてくれマジで」
「御子柴くーん!? 朝からゲームしてたんですか!?」
「あ? 朝からゲームしねーで何すんだ情弱。ゴールデンタイムはガキばっかでまともなマッチにならねーだろ。そんなことも分かんないで生きてんの?」
「うーん、そう言う事じゃないんですけど……」
 凌牙が先に紫音の元へ案内し、房に居るのが分かっている賢太を後回しにした理由がなんとなく分かった。どうやら賢太は荒れに荒れていた。
 パソコンの画面には〝†漆黒の咎人†〟なる名前が表示されている。流石、本名を使わない所はネットリテラシーが高いと憂人は感心するが、息抜きの筈のゲームでストレスを溜めてしまうのは如何な物かと思う。
「で、何。俺は今シーズンのランク秒でブチ上げてスクショしてSNSの低能ども威圧すんのに忙しいんだけど」
 賢太に促され、憂人は目的を思い出す。
「あ、はい。今日から御子柴くん担当の教育係になりましたので、呼びにきたんです」
「は? 要らね。教育? なんで? 低能な一般チンパンが何教えてくれんの? 既存のマルチモーダルRAGを改善した推論スケーリングのサンプルケースとか? 臭いメシ食った口から出て来るゴミみてえな計算資源で俺のパフォーマンス上がんの?」
 相当機嫌が悪そうだ。
 知識量の多い人は、怒ると相手が理解できない単語を使って詰めて来る。警察時代、キャリア組の警部が年上の部下にこういう詰め方をしていたのを憂人は覚えている。
「えーっと、すみません……ゲームの用語は良く分からないです」
「あ? ヤバ。今のどこがゲーム用語に聞こえんだよ」
「ご……ごめんなさい、不勉強で。で、でもですね。私は看守として、皆さんが社会復帰するためのお手伝いをしに来たので……」
「ハッ! 社会復帰!? 草生えすぎてモンゴルになったわ。もう良いからとっとと失せろよ。いつものネット捜査は後でやっといてやるから」
「……おい、まだか」
「言ったでしょ。ゲームで熱くなってるシバケン呼びつけるの、難しいって」
 賢太の口が絶好調すぎて止まらない。しばらく話していたせいか、待たせていた凌牙や紫音が痺れを切らした様子でやってきた。憂人はどうどう、と手ぶりで示しながら、尚も根気よく賢太に向き合う。
「御子柴くん。確かにパソコンを使ったお仕事は君にしかできないことですが、それだけでは君のためにならなくて……」
「うっせ、もう次のマッチ始まるから消えろ」
「更生を目指すには、もっと人とのコミュニケーションを伴った仕事を……」
「だからウゼェよ! 暇ならエナドリの一つでもパシってこい! この役立たず!」

「ふ~、今日は過ごしやすい陽気で良かったですね!」
 十数分後。集められた三人の囚人と憂人は、よく晴れた空の下に居た。
 憂人が気づいたとき、賢太の顔は青ざめていて、髪も服もくしゃくしゃだった。凌牙は体に擦り傷を作っていて、紫音は肩を押さえていた。
 いつの間にか独居房の中も荒れていて、ひしゃげたゲーミングチェアがひっくり返っていた。電子機器だけはなんとか守ろうとした痕跡があり、必死に隅に寄せてあった。
 何があったのか、記憶に空白のある憂人には分からない。ただ三人の囚人は言う事を聞いてくれたので、ようやく本日の目的を果たしに来ることができた。
「……で、何すんのこれ。既にヤな予感がすんだけど」
 口を尖らせながら賢太が言う。
「はい。ここら一帯は本来、受刑者の運動場を拡張する予定の土地なのですが……職員の人手不足や、外注予算の折り合いがつかずに荒れ放題になっておりまして」
「んで?」
「ですので、本日は皆でこちらの草刈りをしていきます」
「は!? まさか手作業でやんの!? この広さをボロい草刈り鎌で!?」
 心底信じられない、という賢太の声が聞こえる。その声が収まってから、麦わら帽子をかぶった上で、日陰に居た紫音が手を上げる。
「俺、日光とかあんまり得意じゃないんだよね」
「はい、ですので甲斐田くんは屋内作業をお願いします。土佐くんと御子柴くんで草刈り、甲斐田くんは隣接した倉庫の中を拭き掃除してください」
「嫌だけど?」
「今日のお仕事は〝特別刑務作業〟に分類されていまして、なんと! 通常の刑務作業に含まれていない分、受刑者の自主的な奉仕として大きな評価が期待できるんです。一日あれば終わりますから、効率よくやって行きましょうね!」
「……あんた言葉遣いだけ弱腰だけど、けっこう強引だよね……」
 紫音がウンザリした顔で眉を顰める。
「まさか、毎日やるの? こういうの」
「いえ。特別刑務作業は、週に一度です。本当はもっと入れたいのですが、申請と報告がややこしく、書類も多く……私も普段の仕事がありますし、そのくらいが現実的かなと」
「週一でも多いけどね」
 全員、不満はありありと見せている。だが逆らわないのは、憂人の記憶が空白の間に起こった出来事のためだろう。
 暴力であったことは憂人にも分かる。
 もちろん喜ばしい話ではない。むしろ恐ろしくて仕方がない。途切れた意識が戻るたび、目の前に広がる光景に、憂人は背筋が凍りそうになる。
 しかし、監獄は学校ではない。看守にとって囚人を律する〝鞭〟が必要なことも、憂人は理解している。その〝鞭〟を、監視者としての苛烈さを憂人は持たない。そして大事なのは、いかにして彼らの更生を促すかで、憂人の心情ではない。
 だから憂人は〝もう一人の自分〟の行いを――既に起きてしまったことに限り――手段と割り切った。
 繊細に見えるようで、三十を超えるまでに修羅場を越えてきた。本当に大事な優先順位を見据えて、割り切る大人のやり方を、憂人は知っている。
「さ、てきぱきやれば、それだけ早く終わります。私も手伝いますので、皆さん頑張ってお仕事しましょう!」
 手を叩く。囚人たちが動き出すには、たっぷり十秒かかった。
 のろのろと凌牙が動き出し、渋々賢太がついていく。紫音は指示した通り、暗い倉庫の中へ入っていく。煙草入れが見えた気がする。「喫煙はダメですよ」と声をかけると、白い手だけがひらひら振られるのが見えた。
 午前中の青空を、白い雲が流れていく。日差しはあるが、風は乾いている。胸いっぱいに空気を吸い込めば、草と土の香りがする。
 草刈り鎌は立ったまま使えるタイプだが、刃がサビていて切れ味が悪い。力を入れて何度か削ぐようにしなければ、上手に扱えない。力のある凌牙はさほど苦にしていないが、賢太はいかにも苦戦している。
「御子柴くん、柔らかめの草は短い鎌に持ち替えて、空いた手も使って行きましょうか」
「ダル……こんなもん機械使ったら早いんじゃねーの」
「ええ、でもウチの監獄は危険物のセキュリティが高くて、草刈り機の貸し出し許可は下りないんです。それに特別評価は、手作業であることも織り込んでいるので……」
 賢太が忌々し気に顔をしかめる。それから鎌の刃をわざと掲げて、憂人を見る。
「危険物って言うなら、この鎌は良いわけ? クソ看守。お前、三人の囚人に刃物渡して囲まれてんだけど?」
 脅かすように笑う賢太に、憂人はぱちぱちと瞬きする。
「あ、はい。心配ないと思います、鎌くらいなら……」
「ハハッ、大物。死神の鎌は背後から忍び寄んだけど分かってる?」
「気を付けてさえいれば、背後から近づかれても分かるんですよ。銃を持たせているわけじゃないですし、ここでは地面や木陰に気を配る必要もないですから」
 黙った賢太に代わり、凌牙が口を開く。
「お前……ここの前は何してたんだ」
「警察官です」
「……ふつうのサツじゃねえだろ……特殊部隊とかか」
「いえ。ただ警察に入る前は、民間軍事会社で海外派遣されていました」
上がりかよコイツ」と呟いた賢太がすごすごと仕事に戻る。倉庫の中から覗いていた紫音が、納得したように目を細めている。
 凌牙は立ち作業用の草刈り鎌を動かしながら、何か思案している。鎌の刃が地面を撫でるたび、ごっそりと草が刈られて行く。
「上手ですね、土佐くん」
「筋力の問題だろ、こんなの……」
「筋力だけでは、大鎌は上手に使えないですよ。慣れている所作じゃないですか。土佐くんは、真面目にこういう作業をしてきた経験があるんですね」
「チッ」
 凌牙が舌打ちして、憂人を睨みつける。
「……そういう、お前は」
「え?」
「なんでここに来た。兵隊から警察……全部辞めて看守なんざ、まともな経歴じゃねえ」
「……そうですよね。私も、そう思います」
 刈り取ろうとした草の葉先に、ナナホシテントウが休んでいる。憂人は指先にそれを乗せ、刈る必要のないあたりに離す。
「塀の中に居るべきだと思ったんです、私は」
「ハァ? じゃあ囚人として来りゃ良かっただろ」
 話を聞いていた賢太が割り込んだ。
「外でさっきみたいに暴れれば、一発逮捕だったんじゃね」
「ええ。本当なら私こそ、枷で縛られておくべきでしょうね。……けれど、捕まるためだけに罪を犯すわけにも行きません。だから、こうして少しでも自分の力を活かせる場所に来ました」
 憂人は草地に戻り、大鎌で敷地を整え続ける。
「私はこれからの人生を、ずっとこの場所で過ごしていきます。そして一人でも多くの人間を、この塀の中から世間へ送り出します」
 賢太の手が止まった気配がした。
 憂人が顔を上げると、賢太は繁みの中に立ち尽くしていた。
「送り出す?」
「御子柴くん?」
「だったら、なおさら俺はやる意味ねーよ。くだらねえ」
 賢太はそのまま歩き出した。追おうとする憂人に、紫音が声をかける。
「やめときなよ。今のはあんたが悪い。超法規的措置ってやつで、事実上の無期刑になってるシバケンは面白くないって」
「……御子柴くんの境遇は知っています」
 日陰から届く、紫音の視線が冷めている。既に煙草に火がついていた。憂人は咎めるよりもまず、その視線を受け止めて答える。
「どんな境遇であれ、一歩ずつ。進める人間に一歩ずつ進ませる。罪人を閉じ込めるだけじゃなくて……監獄は、そのための場所ですから」
「だからさ、シバケンは進めない側でしょ」
「進めます!」
 憂人の声が、珍しく熱かった。
「私が着任したばかりのころ。右も左も分からずリンチに遭いかけた私を、御子柴くんは助けてくれました。……彼がどう言い張っても、私は助けられました。そういう人は、きっと進めます。道のりは遠くても。……甲斐田くん、土佐くん。貴方たちもです」
「楽観的すぎるね。なんでそんなに人のこと信じられんの?」
「……そうだったらいいな、と思うので」
 憂人は一度立ち止まって、二呼吸ほど置いてから、笑顔で振り返る。
「甲斐田くん、煙草は消してくださいね。今は堂々と吸って良い時間ではありません」
 そうして、憂人は賢太を追っていった。
 残された紫音が、日陰から日の下へ煙を吐き出して、凌牙に声をかける。
「どう思う? アレ」
「……アホだな」
 凌牙は大鎌で地面を撫でる。消しゴムをかけたように削げた雑草を、鎌にひっかけて適当にめる。凌牙は独り言のように口を動かす。
「アホだが……あの夜。あのラップは、本物だった。興味あんのはそこだけだ」
「やけに付き合い良いと思ったら、やっぱそこが気になってたんだ。アレは驚いたもんね。それにさっき、シバケンをシメた時も。二重人格ってヤツ?」
「……さあな。だが、アレもアレなりに、何かあんだろ」
「そりゃ、傭兵経験者から看守なんて、よっぽど何かあったとしか思えないし」
「履歴書なんざ、どうでもいい……ただ、ラップってのは誤魔化しが利かねえ。二重人格だろうが……本性は同じだ。ヤツは……」
「ウソとかつけるヤツじゃないってことね、どっちにしても」
 紫音は物置部屋のことを思い出す。
「シバケン、戻って来るか賭ける?」
 凌牙の返事はない。煙り始めたばかりの煙草を、紫音は靴底で消した。

「御子柴くん、待ってください!」
 賢太はさほど足が速いわけでも無く、逃げ込む場所があるわけでもない。追いつくことは簡単だった。
「待たねえよクソが! 言っただろ、俺にはあんなこと意味ねーんだよ!」
「す、すみません。御子柴くんにとっては、無神経な発言だったことは謝ります……」
「足りねえよ! 本気で悪いと思ってんだったら土下座しろ!」
「……っ!」
 そこには屋外での刑務作業にあたる囚人たちや、他の看守の目があった。だから、周囲がザワつく様子が賢太にも気づけた。
 賢太が振り返ると、地面に額をこすり付けている憂人の姿があった。
「……っ、何してんだお前」
「あ、改めて……謝罪します。御子柴くんの心情を考えずに、言葉を選ばなかったこと」
「……ハッ、くだらな。……しろって言われてする土下座に何の意味があんだよ。恥ずかしくねーのかよ。無責任なことばっか……」
「無責任ではありません」
 土下座したまま。地面に響いた声が、青空の下に強く跳ね返る。
「無神経なことを言いましたが、無責任ではありません。私たち看守には、皆さんを更生させる責任があります。私たちは皆、それを忘れてはいけないんです」
「……だから、できねーんだって、更生なんて。放っとけよ、もう」
「放ってはおきません」
 憂人が顔を上げる。
「確かに、御子柴くんの境遇は簡単ではありません。それでも……何かが変わるまで、道が開けるまでは、地道に前を向くしかないんです。一歩ずつ、進むしかないんです」
「……前を向けって言われても、分かんねーよ。どっちが前かなんて、この世界じゃ誰も教えてくれねー! だからこんなクソみてえなとこまで落ちたんだろうが!」
「それを教えるのが、私の責任の取り方です」
 賢太が周りに視線を巡らせる。状況を奇異の目で見ていた囚人たちが目を逸らす。
 逸らされないただ一つの視線に向き合って、賢太は唇を噛む。
「いつまで膝ついてんだ。目障りなんだよ」
 賢太はさっさと歩き出した。向かったのは、凌牙たちの居る方角だった。
 それは確かな一歩でも、あまりにささやかな変化だった。
 分厚い塀の中の出来事など知らぬ気に、世界はめまぐるしいスピードで回っていた。伝説のCLUB paradoxの復活。幻影ライブシーンの新たなる熱狂。世界の速度に比べれば、監獄の中で進む時計の針は、足踏みしているのと大差なかった。

「あー、ダル」
 重低音の中、吐き捨てるような声がした。
 それは憂人が看守となって、何度目かのプリズンラップの夜だった。ステージ上には凌牙と、ラップバトルを繰り広げる囚人の姿がある。地響きのような震えは、囃し立てるギャラリーの足踏みだ。
 一夜の熱狂の中にあって、賢太の瞳は冷めていた。視線はステージ上ではなく、膝の上のノートパソコンに注がれている。
 多くの看守が騒ぎを野放しにする中、見回りをしていた憂人の耳は賢太の声を拾った。
「御子柴くんは、しないんですか? ラップ」
「今夜はな。凌牙ちゃんとはもう当たったし、他にアガる要素ねーし」
「あのステージに立つのは、気持ちいいんだけどね」
 傍らから紫音の声が聞こえた。憂人が視線を向けると、煙草の煙をくゆらせる姿がある。
 甘い香りの中、憂人はパチパチと瞬きする。
「ラップ、好きなんですよね? 土佐くんだけでなく、お二人も」
 賢太が目線だけを上げて答える。
「雑魚のガバい理論武装ボコんのは面白い。でも雑魚狩りだけだと飽きんだろ」
「正直、塀の中に敵とか居ないんだよね、俺たち」
 紫音が笑い、煙混じりの乾いた声を出す。
「凌牙が暴れてるのも、消化不良ってだけだろうしね。空腹すぎて、味のしないガム噛み続けてるようなもん」
 解説じみた紫音の言葉に、憂人はステージを見やる。
 凌牙のラップに熱はある。しかし、確かに苛立ちを纏ってもいる。あまり人と競う趣味を持たない憂人には、ラップバトルという文化に理解し難いところがあった。つまりは、張り合いが無いということだろう。
 憂人が来る前から、監獄内のヒエラルキーは固定されていた。裏を返せば変化が無いとも言える。新たな囚人が来ることもある。しかし、それが凌牙たちと張り合えるラッパーである可能性は高くないだろう。ふと、憂人は尋ねる。
「私はラップのことは詳しくありませんが……御子柴くんたちって、ラッパーとしては、凄く上手なんですよね? 土佐くんを含めて監獄のトップ3って」
 賢太が片眉を上げて笑う。
「言ったろ。敵とか居ねーんだよ。塀の中だけじゃねえ、低能ばっかの世間にだって、俺らよりラップ出来るやつは居ねえ」
「塀の外にも敵なし、ですか……」
「猶更だ。日の当たる世界で育った奴のシャバいラップなんか音楽じゃねー」
「でもさシバケン、それはちょっと面白そうなんじゃない? だから見てたんでしょ?」
 紫音が屈み、賢太のパソコンを覗き込む。つられて憂人も腰を下ろした。賢太は鬱陶しそうに眉を顰める。憂人が首をかしげる。
「それって、何ですか?」
「Paradox Liveだよ。外に居たなら聞いたことくれーあんだろ」
「ああ……流石に知ってますよ。伝説のクラブが復活して、ラッパーたちの大きなイベントが行われたんですよね。優勝したのは双子ラッパーのcozmezで……」
「情報おっそ。まだ3G回線で生きてんの?」
 賢太がパソコンのモニターを向ける。憂人の目の前に、画像データの宣伝が映し出される。最も目立つ文字を憂人が読み上げる。
「Paradox Live……ロードトゥレジェンド?」
「次に開かれるイベントだ。今度は伝説の武雷管サマが復活して、直々にお眼鏡に適ったラッパーを次代のレジェンドとして認めるっつー話」
「へえ……つまりは、第二回ですか。やっぱり、ラッパーとしては興味がありますよね」
「多少な。俺らの居ねー浅瀬で、伝説とかフいてんじゃねーってのもあるけど」
 紫音が煙草の灰を、携帯灰皿に落とす。
の大きなハコでなら、もっと凄い数の人たちと繋がれるんだろうね。それは俺も、少し興味あるし……」
 紫音の視線が凌牙に向く。
 既にバトルは終わって、称える囚人たちの声を浴びる姿がある。それでも凌牙は声を上げている。分厚い壁に、重い天井に吠えている。
「あの遠吠えが、塀の外ならどこまで届くのか。ちょっと気になるよね」
 乾いた叫びを聴きながら、紫音が笑う。
 その視線を追って、憂人はステージを見上げる。

「獄中出版の手続き事例……ですか?」
 事務室で、馴染みの先輩看守が目を丸くする。別に敬語を使わなくても良いのに、と憂人は思うがどうもやめてくれない。先輩看守は少し困った顔で向き直る。
「少なくとも……私が看守になってからは覚えがないですね。犬飼さんの周り、誰か作家になりたい囚人でも居るんですか?」
「いえ、そういうわけでは」
 憂人は首を振りつつ、続ける。
「プリズンラップを見ていて思ったんです。ラップだって、創作活動の一つじゃないですか。息抜きとはいえ、この監獄では何よりも熱のある催しですし……なのでその、彼らのラップを発信することはできないかな、と」
「はあ」
 先輩看守はピンと来ていない顔を向ける。
「そう言えば犬飼さん、所長から例の三人の面倒押し付けられてましたよね。あの三人ってプリズンラップの上位ランカーですし、その関係で?」
「そうですそうです! 彼らにとって、一番前向きな原動力になるのがラップだと思うんです。ですからあの情熱を、何らかの形で更生の足掛かりにできないかと」
「うーん」
 言っていることは分からないでもない。先輩看守はそういう顔をする。それから少し躊躇いがちに口を開く。
「犬飼さんでも難しいと思いますよ。レコード会社がつかないでしょうし、インディーズでも聞いたことない事例です。ただ……」
「ただ?」
「なんか似たような話、どっかで聞いた気がするんですよね……なんだっけな」
 結局、それ以上先輩看守から具体的な話は得られなかった。
 ただ、ヒントになることはあった。憂人はその日の夜、通常の業務を終えた後で、監獄のデータベースの閲覧許可を取り付けた。
 必要なのは〝矯正局〟というキーワードだった。
 憂人の勤める監獄は、やや特殊な立ち位置にある。罪状の重さだけではなく、複雑な事情を抱えた囚人――賢太がそれにあたる――を収めている。それ故に政府官僚の注目度も高く、何かと槍玉、もとい議題に上がる施設でもある。
 矯正局とは文字通り、囚人らの矯正を監督する組織で、社会復帰のための様々な取り組みを行ったり、官僚から更生プロジェクトの提案を行ったりしている。
 現代において、幻影ライブは社会を巻き込む一大ムーブメントとなりつつある。そしてこの監獄においても、プリズンラップという大きな立ち位置を占める文化がある。
 ならば、憂人と同じことを考えた官僚が居てもおかしくはない。
 データベースを検索して、憂人は幾つか手掛かりになりそうなファイル名を見つけたものの、詳細はデータ化されていなかった。結局は再度許可を得て、書庫から紙の書類を漁ることとなった。
 埃の積もった書庫の荒れようは、この監獄が如何に囚人の更生に向き合ってこなかったかを語っているようだった。それでも探すのは苦ではなかった。データベースで見つけたその名前は、憂人にとって希望の響きに見えたからだ。
 それから……茶色のひも付き封筒に〝音楽による囚人更生プロジェクト〟の文字を見つけ出したのは、塀の外で太陽が昇るころだった。

「だからねえ。いい加減に諦めなさい、犬飼くん」
 所長の口からは、何度目かになるその言葉が聞こえた。憂人はまだ引き下がるつもりはなかった。
「所長。このプロジェクトには確かな実現性があります! 囚人たちが更生に踏み切れないのは、彼らの心に諦めがあるからです。でも音楽……ラップさえあれば、彼らは前を向けると思うんです!」
「確かに、あの三人を君に任せるとは言った。だが荒唐無稽な夢を見ろとは言っていないつもりだ。そのプロジェクトの実現に、どれだけ根回しが必要か分かるかね」
 真っ直ぐに見つめる憂人の視線は、所長の体をすり抜けて行くようだった。所長は切りそろえた小指の爪に、丁寧にヤスリをかけながら返事をした。
「発案した管理官殿も、さほど真面目に考えていないんだよ。ほら……発案すること自体が仕事というかね。官僚の……分かるだろ?」
「そんなことは……」
「獄中のメンタルケアに音楽を使うだけなら分かる。だが、更生のために外部のイベント参加を目指すなんてのは……まして、なんだ。パラパラライブ? いやあ、無理無理。凶悪犯を塀の外に出せるわけがないだろう」
「それは、私が間近で監督しますから」
「だから無理だって言うんだ。君は今まで通り、報告書用の点数を稼げば良い」
 しばし、言葉が途切れた。
 所長が短くした爪の削り粉を、吐息で飛ばしたころに、憂人がもう一度口を開いた。
「……仮に。仮に、彼らを外部のイベントに参加させるとしたら、何が必要ですか」
「面倒な男だな、君も」
 ウンザリした視線が憂人にぶつかる。囚人たちに前を向かせたい。更生のための足掛かりを作りたい。監獄として当然の行いをむ所長の態度が、憂人には理解できない。
 所長はヤスリを事務机にしまい、ため息を吐いた。
「まあ、アレだ。全ての手続きや根回しを、君が勝手にやる分には止めんがね。少なくとも、外に連れて行きたいのだったら、ほら。まず外出許可の取得が要るだろ」
「はい」
「アレの申請を通すのは簡単ではないよ。何せ、犯罪者を一時的にでも世に出そうと言うんだ。せめて〝著しい更生の兆しあり〟と……彼らが〝模範囚〟だと言える程度の評価記録を溜めないと――」
「模範囚なら」
 所長の机に手をつき、憂人が身を乗り出す。所長は面食らって言葉を止めた。
「彼らが模範囚になれば、実現性があると……そう考えて宜しいですね」
「あのクズ三匹に、そんな真似ができればね。どうせ今のペースでは、その……パラソックスだかには、間に合わないと思うが」
 心底、面倒そうに所長が吐き捨てる。あり得ない話をしている。そういうトーンだった。
 構わなかった。どれほどか細い光でも、憂人にとっては光明に違いない。それに、険しくともやることはシンプルだ。社会復帰のために、更生を促す。同じことだ。
「間に合わせてみせます。私の責任にかけて」
 その日から、憂人の仕事ぶりは一層熱心になっていった。

「……な、なん、だ。この……っ」
 凌牙が唸っている。
 とにかく、評価点を稼ぐ必要があった。最善手はやはり特別刑務作業で、屋外に出るのが難しい紫音のため、なるべく屋内で出来る作業を探す必要があった。
 その日も屋内での作業だったが、「本日の作業衣をどうぞ」と渡された衣服をつけて、凌牙が額に青筋を浮かべている。憂人だけが笑顔で業務を説明する。
「本日は皆さんと、お菓子を作っていきます。頑張りましょうね!」
「なんでだよ!」
 かっこいいエプロンをつけた賢太が三角巾を投げ捨てる。
煎餅屋の雑務下請けだろ! 煎餅に海苔貼っていくだけの作業でこんなカッコする意味がどこにあんだよ!」
「そ、そうは言いますが、エプロンと三角巾は、食物を扱う上で機能的な作業着でして」
「シバケンのエプロン、妙にスタイリッシュだよね。ドラゴン描いてあるの?」
 やけにエプロン姿が似合う紫音が咥え煙草で笑う。〝江戸前〟の筆字と寿司の絵の存在感が強いが、紫音の色気に負けている。そんな紫音を見て憂人は肩を落とす。
「甲斐田くん……早速一服しないでください。煙草の匂いがついたお煎餅は廃棄ですよ」
「じゃあ全部煙草臭くするのが手っ取り早いかな……でも、なんか思ったより面白いもの見れてるからいいや」
 紫音の視線が凌牙に向く。この中で一番可愛い、パンダのマスコットが描かれたエプロンが、鍛えられた胸筋で随分と持ち上げられている。紫音が憂人に尋ねる。
「どこから持ってきたの、これ」
「ここに供与されているエプロンは、全て民間の払い下げや寄付品でして……なるべく綺麗な物を持ってきたので、絵柄はランダムで。……ああっ!」
 凌牙がエプロンを投げ捨て、憂人の無地のエプロンをはぎ取って着用する。
 サイズが小さいので余計にパツパツになるが、先ほどよりはマシだと見える。
「とっとと終わらすぞ……」
「だね、こういう単純作業って心を無にしないと病みそうだし」
「作業ゲーならこないだ炎上してたクソゲーやってたほうがマシだわ」
 三人が調理台に並び、積み上げられた煎餅に海苔を貼り、トレーからトレーへ移していく。煙草作りで慣れた紫音はスムーズだとして、凌牙もなかなか器用にこなす。
 つまづいているのは賢太だが、不器用と言うより不真面目が問題に見える。おざなりにこなすだけでは、評価点にならない。早速憂人が注意する。
「御子柴くん、海苔はもっと真四角になるように貼ってくださいね」
「食ったら同じだろ、こんなもん。……つか、この特別刑務作業っての、週一って話だったよな。最近ほぼ毎日じゃねえか。話がちげーんだけど」
「それは、毎日やったほうが皆さんの更生が進んでいるとアピールできますから」
「ハッ、評価目当てかよクソ看守。……そんでお前らも、何で素直に働いてんだよ」
 賢太は、ダルそうながら黙々と作業する他の囚人二人を見る。凌牙と紫音が眉間にシワを寄せて答える。
「……サボろうとするほうが、犬飼がダルい……」
「最近しつこいんだよね、こいつ。一回ノリで遊んであげた後のお嬢様くらいしつこい」
「……筋トレしてると、纏わりついてくんだ……ハエみてーに……」
「俺は他のコと二人で楽しもうと思ってたスポットに先回りされてさ。ストーカーみたいに。シバケンは?」
「横からゲーム画面覗かれて、ずっとジジイみたいなリアクションされた」
「皆さん、私に対しての評価が酷くありませんか……?」
 お前が悪い、という三人分の視線が憂人に刺さる。トホホ、と絵にかいたように憂人は肩を落とす。
 まあ、それでも良い。憂人が一人悪者になって、三人が纏まる分には構わない。
 そんな調子で、特別刑務作業をこなす日々が続いた。ある時は古い作業着の洗濯を行い、ある時は木彫りの民芸品作りに勤しんだ。
 面倒がって逃げ出そうとする三人を追いかける日々もあった。凌牙に睨まれ、紫音の逢瀬を止めて煙たがられ、逃げる賢太を探し回った。
 そんな憂人のしつこさに音を上げたか、徐々に三人も素直に付き合うようになった。
 一方で、憂人の仕事量は加速度的に増えて行った。通常業務に加え、特別刑務作業の監督と記録、報告。外出許可を取得するための資料収集。矯正局への根回し。Paradox Live自体の情報収集。
 多忙を極めた日々は、目まぐるしく過ぎて行った。けれど急く憂人の速度につられて、塀の中の時計の針は、少しずつ足を速めているようだった。

「気が付いた?」
 ある日、憂人が目を覚ますと、そこに紫音の顔があった。白い肌が少し潤んでいて、陶器を濡らしたような艶が宿っている。
「張り切りすぎちゃったね。気を失うほどなんて」
「……えっ、あっ、嘘? 私、まさか……」
「フ……何勘違いしてんの。もう少し寝てたら? 頭打ったかもよ」
「頭を、って……」
 紫音の顔越しに天井を見上げて、憂人は状況を思い出した。
 その日の作業は、監獄施設の自主的清掃――場所は、囚人用浴室だった。
 浴室に足を踏み入れた時から、憂人は少し顔色が悪かった。
 普段、自室でシャワーを浴びる程度ならまだ良い。だがタイル張りの浴室と、無機質な照明と、大きく深い浴槽を目にした時、否応もなく記憶が刺激された。
 表面には出さぬよう振舞っていたつもりだが、清掃のために水を使い始めた時、響く水音に酷い耳鳴りが襲ってきた。立ち眩みがしたところで、憂人の記憶は途切れている。
「良いご身分だな、人働かしといて寝落ちかよ」
 賢太の嫌味が飛ぶ。憂人は眉を八の字に下げながら、どうにか体を起こす。
「面目ない……大丈夫だとは思ったのですが」
「体調管理もできねーのかバカ看守。お前死んでたら俺たちが疑われんだけど」
「いや、本当にそうですよね、すみません。……満足に監督もできないのに、作業を続けるわけにも行きませんね。私の体調不良により休止として、報告しますので……」
「っし、犬飼がツイてなくてツイてたわ。帰ろ帰ろ」
 賢太がいかにもダルそうに浴室から出ていく。内心「目が覚めるまで待っていてはくれたのだな」と憂人は考える。
 少し遅れて、紫音が凌牙と目を合わせてから賢太の後を追う。言葉なくとも、何かのコミュニケーションがあったようだった。広い浴室が、しん、と静まり返る。
 座ったままの憂人の他に、残ったのは凌牙だけだった。
「土佐くん?」
 首をかしげる憂人を見下ろし、凌牙が口を開く。
「……トラウマ、だろ」
 憂人の肩が、びくりと強張る。
「ただの貧血とかじゃねえ。それは……古傷を、抉られたヤツのツラだ」
「……お見通しなんですね」
 憂人は眉尻を下げたまま、へらりと笑う。凌牙の視線はまっすぐ憂人に降り注ぐ。
 自分の過去を語ったところで、意味はないのではないかと憂人は思った。
 けれど凌牙が自主的に残ったのは、自分と向き合ってくれるためだと考えれば――喋るのが苦手な凌牙が、それでも自ら声をかけてくれたのだと思えば、黙り込むのは礼儀を欠くと思った。ぽつりぽつりと、憂人は語りだす。
「苦手なんです、浴室が」
「……事故か」
「いえ、その……叱られるのが、いつも浴室だったので」
「……親か?」
「両親は、早くに事故で亡くなりまして」
 凌牙の瞳が見開かれる。憂人は「大丈夫」とばかりに笑顔を浮かべる。
「それで叔父夫婦に引き取ってもらったんですが、あまり……折り合いが良くなくて」
 直接的な表現は、ぼかしながらではある。それでも、顔をしかめる凌牙には伝わっているようだった。
 リズムに合わせて韻を踏み、詞を紡ぐには、言葉に深く親しむ必要があるはずだ。凌牙は喋るのが苦手だ。けれど、人の言葉を聞くことも、引き出すことも、憂人から見て上手に思えた。そう言えば――ラップの語源には〝喋る〟という意味があるという。
 気づけば憂人はぽつぽつと過去を語り始めていた。
「居場所が無かったんです。弱い自分も嫌で、高校を出たら海外に渡りました。傭兵になったのは、助けを必要としている人が多い紛争国なら、誰かの為になれると思って」
「……ああ」
「でも、あんまり上手に行かなかったんですよ。同僚とは仲良くなれませんでした」
 憂人の傭兵時代の記憶には、不自然な空白がある。今ならば何が原因だったのか、それだけで察することが出来た。
「結局帰国して、警察官になりました。こちらは良い相棒にも恵まれて……ですけど、結局ダメでした。ふとしたきっかけで、暴れてしまう人間に警官は務まりません。それでも、何とか……人の為になる仕事が、したくって」
 言葉を紡いでいて、憂人は自分でも少し驚いていた。
 薄々分かっては居たことだ。けれど思いや記憶を言語化して、声に出して、モヤモヤとした感情は初めて輪郭を持つ。その実感を、憂人はこの時覚えていた。
「だから結局、誰かを支えられる人になりたかったんでしょうね。自分が一番、欲しかったものなので。そう言う存在が居れば、人は立ち直れるって……信じたいだけなのかも」
「……そう言う存在が居れば、か」
 凌牙の中で。何かが腑に落ちたようだった。
 良い具合に回るようになった口で、憂人は問いを返すことにした。
「土佐くん。私もひとつ、聞いていいですか」
「……んだよ」
「土佐くんたちは、どうしてラップをするんですか?」
 初めての質問ではない。けれど答えはまだ貰っていない。憂人は言葉を重ねる。
「土佐くんにとって、ラップって何なんですか?」
 沈黙が満ちた。
 けれどそれは、迷った時間ではなかった。決まっている答えを、凌牙は大切に喉の奥で温めて、淀むことなく声にした。
「産声だ」
「……産声、ですか?」
「……赤ん坊が泣くのと変わんねえ。産声だ。上げなきゃ、呼吸できねえ……」
 それは、憂人からしてみれば飛躍した答えだった。
 けれど笑う気はも起きなかった。凌牙は言葉を紡ぎ続ける。
「……俺たちはたぶん、間違えてきた。少なくとも、何か……生き方や、産まれ方をな。だからこんなところに居んだろ。日の当たる場所からは、見えねえが……」
 詰まりそうになる言葉を吐き出すように、凌牙は胸を拳で叩いた。
「ここで生きてんだって、叫んでる。……それが、俺たちのラップだ」
 憂人のほうが、言葉を紡げなくなっていた。凌牙の語るそれは、憂人が想像していたよりずっと深刻で、鮮烈で。
 そして――根源的な、命の衝動だった。
 ラップで言えば〝食らった〟ように、固まってしまった憂人を見て、凌牙はさらに言葉を続ける。
「今度はこっちが聞く番だ。……答えろ」
「……え。あれ、私が先に土佐くんの質問に答えたような」
「一回ずつなんて、言ってねえ」
 凌牙が屈み、憂人を睨むように顔を寄せる。
「テメエ、何を急いでやがる」
「何って……」
「……特別刑務作業っての、最近しょっちゅうだろ。風呂のトラウマ抜きにしても、テメエはどう見てもくたびれてた」
「そ、そんなに顔に出てましたか?」
「ナメんな。点数稼ぎで仕事詰めるタイプじゃねえだろ。吐け。何急いでやがる」
 憂人は一瞬、逡巡した。結局、白状するつもりになったのは、凌牙たちにとってラップがどれほど大事なものか、理解したせいだった。
「……皆さんには、音楽による囚人更生プログラムが適用されています。模範囚と認められるだけの実績があれば……Paradox Liveにエントリーできる可能性があります」
 今度は、凌牙が固まる番だった。代わりに――。
「フフッ、何かあるとは思ってたけど……まさかそんなネタとはね」
「おい! フカシてんじゃねーだろうな!」
 紫音と賢太が、脱衣所の方から騒がしく歩いて来た。完全に油断していた憂人は目を丸くする。
「あ、あれ。二人とも先に帰ったはずでは……」
「囚人の言うコト鵜呑みにする看守、どうかと思うよ」
 悪戯っぽく笑う紫音と真逆に、賢太は興奮を隠し得ない。
「テメエ、そんな事情だったら早く言えよクソ看守!」
「い、いえ。正直実現できるかは確約できないもので……不確かな内容を伝えるのは無責任かと」
「っとに低能だな! それを知らねーと知ってるとじゃ効率ちげーに決まってんだろ!」
 賢太と紫音がブラシを持ち、浴槽の方へと歩いていく。凌牙も首を鳴らしながらそれに続き、憂人に声をかける。
「座ってろ。テメエはまだ本調子じゃねえ。倒れられたら作業が止まる」
「じ、自主的に作業をしてくれるんですか?」
 賢太が腕をまくりながら、渋々といった表情を向ける。
「それが一番Paradox Liveに出られる確率たけーんだろ。だから早く言えっての」
 ぽかん、としたまま、憂人は二人が作業する様子を見つめていた。
 その背を叩き、紫音がこっそりと耳元に囁いてくる。
「プリズンラップで戦ってから、犬飼と話したがってたのは凌牙だけど……最近の様子に、なんかあるって気にしてたのはシバケンだよ」
「そ、そうなんですか?」
「そう。……あと、Paradox Liveのことだけじゃないと思うよ、聞きたかったの」
「えっ?」
 憂人の疑問の声には答えず、紫音も気だるげに作業へと加わって行った。
 それからは三人が協力的になったことにより、刑務作業の評価点はみるみる重ねられていった。加えて生活態度の改善や、自主的なボランティアへの参加。文句混じりではあったが、三人は模範的と呼べる行いを重ねていった。
 それでも尚、書類の整備、信用の提示、保護観察環境の検討……Paradox Liveの参加を目指すにはいくつものハードルがあった。針に糸を通すような厳しい条件の上に成立する更生プログラムは、決してスムーズな道程ではない。一人の看守が背負うには、間違いなく過酷な目標だった。
 眠らず資料を集める夜もあった。数え切れないほどに頭を下げた。
 その苦労のどれ一つとして、もう憂人が止まる理由にはならなかった。彼らが前に向かって進むことだけを考えて、憂人は尽力し続けた。
 ひたむきだった。だからこそ、立ち上がろうとする咎人に、向けられる視線が如何なるものか、その時の憂人には想像が及んでいなかった。

「ここが。本当のHIPHOPクラブというものですか!」
 そこは憂人が想像していたよりも、ずっと開けた印象の建物だった。
「……俺らここでやんの? 今夜」
 達成感を覚える憂人とは裏腹に、賢太の声が珍しく弱弱しかった。
 幾つものハードルを越えて、ついにParadox Live――Road to Legendの予選会場となったクラブの一つに、憂人は三人を連れて訪れた。
 笑ってしまうくらい、鮮やかな場所だった。そのものが新しく、眩いLEDの光が磨き抜かれた床に反射していた。訪れる客はカジュアルでこそあれ、身なりの良さが見て取れる。それが広いホールを埋め尽くすほどにやってくる。
 目が痛くなるほどの照明と、ビルか塔かと見紛うようなスピーカー。
 プリズンラップの夜の記憶が、この煌びやかな極彩色のステージの前では色褪せて見えた。の要らない世界の豊かさが、残酷なほどに形を成していた。
「更生プログラムに則ることを前提としたエントリーと言うことで、どの予選会場に申し込むかは、矯正局が選定したそうです。そのおかげか、とても立派なクラブを選んでもらえたようで! 皆さんの晴れ舞台です、存分に頑張ってくださいね!」
 バックヤードすらも、洒落たラウンジのように整っている。憂人の言葉に、ソファにどっかりと腰を下ろした凌牙が答える。
「……確かにご立派だな」
 その相槌が、妙に歯切れ悪く聞こえた。憂人はキョトンとした顔を浮かべる。
「あの、もしかして何か問題が?」
「問題ってほどじゃあ、無いんだけどね」
 代わって紫音が返事をする。背後の壁、その向こうを見透かして、ステージから聞こえてくる歓声へと耳を傾けている。
「客層が良くないかもね。このハコもだけど、ちょっと気取りすぎかな」
「普通クラブってもっとアングラ系だろ……それに、あれだ」
 賢太が喋りながら、顎でしゃくるようにして、ステージへ向かう通路を指す。
 その仕草を追って憂人が視線を向けると、こちらを冷ややかに見る男の顔があった。目が合うと、相手はすぐに視線を逸らした。
 会話が届かぬように、憂人は声を潜め気味に話す。
「彼らは……」
「HIPHOPチーム〝Northern Ballad〟。俺らがステージに上がるのはアイツらの次……既にメディア露出も多い連中。アイツらのヘッズは分かりやすいぜ。会場にも結構な数見かけたし。そもそもこのハコに出資したプロダクションに入ってんだろ、アイツら」
「連中のホームで……俺らにはアウェーってことか」
 賢太の説明を、凌牙が一言で要約した。そのまま質問に繋げる。
「……実力はあんのか」
「一応プロだろ。つーか今日の参加チームの中じゃ、敵になりそうなのは連中くらい。そもそも出来レースくせーんだが……その分、向こうも俺らを意識してそうだけど」
 紫音がにやりと笑う。
「更生プログラムの関係で、俺ら急ぎで捻じ込まれたらしいね。奴らからしたら、俺らがイレギュラーってわけだ」
 漠然とでも、状況が良くないことを憂人も理解した。だからと言って、今から何ができるわけでもない。ただ不安げな顔を見せる憂人に、紫音が顔を寄せる。
「お目付け役の犬飼が焦ってもしょうがない。どうせ俺らみたいなのには、世界中がアウェーだし」
 賢太がニヤリと笑う。
「だな。どの道、アイツらのスキルがお粗末だったら……」
「食い散らかすだけだ」
 凌牙が掌に拳をぶつけてみせた。
 それから、件のNorthern Balladがステージへ向かい、今までより一際大きな歓声が聞こえてきた。程なくして、凌牙たちの出番がやってくる。
「チーム名、どうしたんだっけ?」
 紫音が尋ねて、賢太が答える。
「アホ看守のセンス終わってたから凌牙ちゃんに任せた」
「えっ、ダメでしたか? 〝三人の侍〟……」
「ダメに決まってんだろ。脳内辞書のバージョンいくつだよ」
「で、結局凌牙は何て名前にしたの?」
「……俺らみたいのは、運には頼れねえからな」
 ステージへ向かう通路を行く。その名前は高らかに、スピーカーの轟音から宣言される。
『next……監獄からやってきた狂犬たちの登場! ――チーム〝獄Luck〟!』
 MCの声と、モニターに表示される文字列を見て紫音が笑う。
「いいね、ツイてなさそうで」

 違和感は明白だった。
 獄Luckの面々がステージに上がった時、既に退場している筈の前チーム……Northern Balladの姿が、まだそこに在ったからだ。
 Northern Balladのリーダーは、マイクを握ったままだった。賢太が眉を顰めながら歩み寄る。
「あのさ、マイク。使い終わってんなら――」
「皆!」
 賢太の声は、良質な音響から発せられるNorthern Balladの声にかき消される。
「今夜のイベントが、新たなる幻影ライブシーンの伝説を決定づけるParadox Live……Road to Legendの予選であることは知ってるよな!」
 観客席から同意のコール&レスポンスが飛ぶ。率先して声を上げたのは、Northern Balladと同じカラーのファッションに身を包んだヘッズたちだ。
「世界中を熱狂に巻き込んでいる幻影ライブ。その頂点に立つ者は、この時代の音楽シーンの代表と言っても良い存在になる。俺たちラッパーだけじゃない。ヘッズの皆にとっても、恥じる所のないトップが必要じゃないか!?」
 間をおいて、会場じゅうに視線を巡らす。彼はステージから呼吸を支配することに長けているようだった。
「だが! 今このステージに、その栄冠に相応しくない連中が上がっている! 確かにHIPHOPにはアウトローな側面もある! だが、彼ら獄Luckは本物の犯罪者だ! 禊を済ませた前科者じゃない! 今まさに服役中の、凶悪犯たちだ!」
 会場じゅうにどよめきが広がった。
 そういう事か――と、獄Luckの面々は表情を歪める。随分と詳しい。参加チームの背景は、プロダクションの力で調べがついているわけだ。
「なあ皆! 幻影ライブの新たなる伝説を決める戦いに、こんな連中が居ていいのか? いくらHIPHOPにそういう文化があるからって、本当の罪人をステージに上げて良いのか? それを胸に留めてジャッジしてほしい!」
 そうして、Northern Balladのリーダーはマイクをステージの床に転がした。
 賢太が口端を吊り上げる。楽し気な笑顔ではなかった。
「あー、なるほど。そういうカンジで来るんだコイツら。低能なりに必死に勝ち目考えてきたワケね。ダッサ。知能腐ってんだろ」
「なりふり構わないのも、ここまで来ると笑えるね……っ」
 マイクを拾おうとした紫音の頭に、固いものが当たった。中身が残ったペットボトルがゴロゴロと転がった。客席から飛んできたものだった。放物線の出所に、Northern Balladのヘッズの姿があった。
「帰れ!」
 ブーイングは、あっという間に嵐になった。
 空き缶、丸めたフライヤー、何でも飛んできた。スマートフォンを投げ込む客までいた。
 罵声のボキャブラリーは乏しかった。だがその分、明確な敵意があった。
「帰れ!」「帰れ!」「犯罪者!」「罪を償ってこい!」「塀の中に帰れ!」
 怒声が響く。イベントを取り仕切るMCは暴動を治めようとしたが、火が付いたブーイングは止まらない。
「……コっ、コイツらっ……」
 凌牙が歯茎を剥き、ズカズカと歩き出す。
 速度を上げて、観客席へと乗り込もうとしたとき、重たいものにぶつかった。
 凌牙を止めようと飛び出した憂人の体が、ステージに転がった。
「土佐くん、堪えてください! ここで暴れたら、全部台無しです!」
「ああ!?」
「だけどさ、犬飼……これは……」
 投げ入れられる物を浴びながら、紫音がく。硬い物が当たったのだろう、こめかみからは血が滲んでいた。視線を移せば、上着で頭を覆う賢太の姿があった。
 三人とも、限界が近づいているのが見えた。容赦ない排斥に対する恐怖と悲哀が、怒りになって噴き出す寸前の色が、瞳に宿っている。
 憂人は獄Luckの三人を押しとどめるようにしながら、彼らに背を向け客席を向いた。
 そして、壁になるように両手を広げた。
「み、皆さん! 聞いてください、彼らはっ」
 飛んできた靴の底が憂人の顔を打った。
「彼らは、確かに罪を犯しましたっ! けどっ、向き合って、償って……前を向くために、ここに来たんです……っ!」
 ジュースの缶が憂人の頭を打った。中身が零れて制服を濡らした。
 憂人は必死に、声を張り上げる。
「ラップをしに来ただけです! 何がいけないんですか! 音楽は、音楽は誰も傷つけないじゃないですか! こんな暴力とは、違うっ……彼らは真剣に努力して……ルールのもとに、この場所に来ることをっ……許されてっ……」
 それでも、降りかかる止めどない敵意が憂人の言葉を塞いでいく。
 物の投げ込みは止まらない。心無い言葉が憂人を打つ。憂人は獄Luckを守ろうとしたが、その行為が火に油を注いだ。
 暴動はエスカレートしつつあった。客席の人々は法を守りながら生きる一般市民で、日の光の下で生きてきた。だからこそ今、間違った者への拒絶という一つの大きな〝正しさ〟の中で、我を忘れつつあった。
「お願いです……話を……!」
 そんな憂人の背中を見ながら、獄Luckの三人は歯噛みするばかりだった。
 背後から嘲笑が聴こえた。Northern Balladの視線があった。彼らはスタッフに話をしていた。「アイツらをステージから下げたほうが良い」と、そんな会話が聞こえた。拳を振り上げた凌牙を、今度は紫音が止めた。
「凌牙。それは、今度こそ無駄になっちゃうからさ」
「……っ!」
 緊張すると言葉が詰まる。凌牙はしいヘイトの嵐に言い返せない。ラップすることすら許されない。歯がゆさが募る。握りしめた拳の中で、爪が凌牙自身の掌を傷つける。そうして滲んだ血ごと固く握りしめて、凌牙は振り返り、その背中に叫んだ。
「何やってんだ、犬飼ッ!」
「……っ、土佐くん……?」
「いつまで寝ぼけてやがるッ! 今、〝お前〟が出てこないでどうするッ!」
 飛んでくる物から顔を手で庇いながら、紫音が続く。
「……だよね。今この状況で、手を差し伸べてくれる人はいない。今だけじゃない。人生なんてずっとそうだ。……でも犬飼はバカ正直に矢面に立って、頭ばっか下げてさ。そんな犬飼を見捨てられなくて……きっと、支えるために生まれたんだろ、〝あんた〟は」
 分からない。痛みで憂人の意識が白む。
 敵意の雨の中で、賢太が叫ぶ。
「聞けよ! そのバカがバカみてーに俺らを助けようとするから! 〝お前〟しかそのバカを助けられねーんだよ! ずっと犬飼の傍にいた、〝お前〟が一番分かってんだろ!」
 分からない。皆が誰を呼んでいるのか。
 照明の光がぼやけて、罵声に耳が痺れてくる。投げられた物にあたって痺れた鼓膜が、騒音をノイズに変えていく。
 極度の緊張と疲労で呼吸が詰まる。息が苦しくなる。意識が朦朧とする。深い深い意識の水底で、差し伸べられる手が見える。
 その手は凌牙の逞しい腕か。紫音の白い腕か。賢太のしなやかな腕か。
 その誰でもない誰かの腕が、憂人を強く抱き留める。
 意識が沈んでいく。代わりに、這い上がる感覚がある。水面へ浮かんでいくにつれて、濁っていた音が鮮明になっていく。
「だからっ……!」
 賢太の声が、ハッキリと聞こえる。
「とっとと出てこい! この役立たずッ!」

 顔に向かって飛んで来たグラスを、警棒が打ち砕いた。
 床のマイクを拾い上げ、〝犬飼憂人〟は口を開いた。
「――喚くな、クソ袋共」
 罵声が止んだ。しん、と静寂が広がった。
 異常な熱気に支配された会場の空気が、今度は氷点下まで冷えたようだった。
 憂人はマイクを何度か叩き、それからNorthern Balladの方へ顔を向けた。
「ここは、面接会場か?」
 意味を飲み込めなかったNorthern Balladの面々は、ただ竦むだけだった。
 憂人は咥えこむように、口にマイクを寄せる。
「お前ら、履歴書でも見せ合いに来てんのか?」
 刃のような瞳が、客席一帯を舐めまわす。
「ラップを聴きに来たんだろ。シャバい演説で満足か? ……なら勝手に満たされてろ。それがお前らのラップなら、此処からは〝俺たち〟が食らう番だ」
 振り返り、肩ごしに獄Luckの面々を見据える。
 ため息交じりの笑顔が見えた。
「……ハッ、やっと出やがった」
「地獄の看守サマ、重役出勤ってやつ?」
「おせーんだよ……最初から出てりゃ苦労しねーだろクソ看守」
 一瞬、呆気に取られていた会場スタッフたちが指示を飛ばし始める。
 憂人は警棒をべろりと舐めて、風を切り裂き号令を飛ばす。
「茶番は終わりだ、牙剥け犬共。誰がSTRONGERか、平和ボケした奴らに教えてやれ」
 凌牙が口角を上げ、犬歯を覆うメタルのグリルズを剥き出す。
 紫音が微笑み、薬指のネイルリングに舌を這わせる。
 賢太が嗤い、首輪から下がるチェーンを齧る。
 照明の下、憂人が警棒を振り上げる。
 ファントメタルを固めたそれの、禍々しい輝きを受け取って、音響スタッフがトラックを入れる。重低音が響き渡り、冷めた会場を揺さぶって行く。
 理屈もも無力に過ぎない。本物の音を前にして、人は本能に従う他ない。
「今日、娑婆に生まれたばかりの獄Luck……存分に産声上げろ! それから――」
 アウェーのヘッズも、便乗したヘイターも。
 HIPHOPには、敵わない。
「――ヌルいラップは、公開処刑だ」

「シバケン、またその記事見てんの」
 ヘッドホン越しに紫音の声がして、賢太はじろりと振り返った。
 シェアハウス、と言うには少々武骨に過ぎるコンテナハウスは、近頃二段ベッドに目隠しカーテンがついた以外、プライバシーへの配慮などありはしない。ネットサーフィンもおちおちできない、と口を尖らせながら賢太が睨む。
「別に好きで見てんじゃねーから。インスピレーション掘り返して、頭ン中で再編してんだよ。トラック作っから」
「俺は嫌いじゃないけどね、その記事。あの夜の、冷めた目を向けてた連中が火照って、夢中で身を委ねていく感じ……カタい奴らを開かせて行くのも楽しかったし」
「いい加減キショい表現しかない頭アプデしろ色ボケ」
「ごめんごめん、シバケンには十年くらい早かったね」
「ウザ」
「でも、確かに原点って言うとそこか。初めて四人でやったライブだし」
「どっかの誰かが『クソ看守混ぜたパターンにもシフトできるように』とか言い出すから、トラックもリリックも手間だったしな。ま、天才なんで楽勝だったが」
「シバケンじゃなかったっけ? やり出したの」
「は? んなわけねーだろ。証拠は? どっかログ残ってんのか?」
「トラックの仮タイトル、Ver.四葉のクローバーとかじゃなかったっけ」
「†四つ首の獄犬†だクソ低能! つか違ぇから。熱心だったのは凌牙ちゃんだから」
「どうだっけ凌牙、覚えてる?」
「知らん。ただ――」
 煙草を口から離した凌牙が、天井を見上げて煙を吐き出す。
「来るとは思ってた。〝あいつ〟はラッパーだからな」
 紫音は嗤って、賢太はそっぽを向いた。誰も否定はしなかった。
 そのあたりで薄い壁の向こうから、規則正しい足音が聞こえてきた。
「みなさん、そろそろ今日の刑務作業の時間です! 準備は出来ていますか?」
「……ダリぃ」
「昨晩盛り上がったから眠いんだよねー」
「クソ刑務コンテンツ犬飼ソロ攻略配信おねがいしまーす」
「もう、皆そうやって一度は駄々をこねるんですから」
 溜息をつく憂人に、渋々と三人が腰を上げる。凌牙が煙草を灰皿に押し付けて、首を鳴らしながら尋ねる。
「……で、今日の仕事は何だ」
「はい! 本日は工場作業で、手作りのダルマを作るという……」
「工芸系か……」
「ダルマって何色で塗っても良い感じ?」
「甲斐田くん、ダルマは赤色で塗ってくださいね」
「はー来たよこれ、今日びダルマとか誰が買うんだよ時間も無駄なら資源も無駄だろ」
「そう言わないでください御子柴くん、本日作るダルマさんは伝統の品で、需要があるんですよ。都議選挙なんかでも贔屓にされていて……」
「知るかカス。先週も一日中こけし作らされて飽きてんだよ。職業訓練も兼ねてんのに興味失くす采配が意味不明すぎ。コンテンツは変化ねーとモチベ切れんだろ」
「それは、私の一存ではどうにも……」
「は? じゃあ何のための看守だよ。ほんっと役に立たね……」
 凌牙の目が「この馬鹿」と言っている。
 紫音の口が「あっ」の形に開く。
 賢太が口を噤んでももう遅い。
 憂人の警棒が、風を切る。
「仕事を選り好みできる立場か? 偉くなったもんだな、ええ?」
「……出やがった」
「シバケンさ……最近多くない? 何回目だよこれ」
「ハァ!? あっちのクソ看守がイラつかせんのが悪――」
 バタバタと暴れる音が聞こえる。狭い部屋が朝から賑やかさを増す。
 補修痕まみれのコンテナハウスに、今日もまた一日が刻まれる。