─幻影ライブ。
それはHIPHOPカルチャーの生み出した、新たなるステージ表現の形。
特殊金属ファントメタルを用い、自らの感情を幻影として映し出す幻影ラッパーたちは、代償として蘇るトラウマの幻影に苦しめられながらも、新時代のムーブメントを牽引し続けていた。
そんな中、絶大な人気を誇る四つの幻影ラッパーチームの元へと、謎めいた招待状が届いた。
始祖にして最強の幻影ラッパー〝武雷管〟のホームたる、かつて消えたはずの伝説のクラブ、〝CLUB paradox〟の復活。
そこから始まった一連のライブイベント─Paradox Live。
絡み合う野望と陰謀、それぞれの過去と未来、そして、夢のぶつけ合い……。
数多の想いとバイブスが交錯し、時に競い合い、時に語り合い、多くの繫がりを生んだ。その大いなる渦の中に、朱雀野アレン、燕夏準、アン・フォークナーの三人から成る新進気鋭のチーム〝BAE〟の姿もあった。
伝説の〝武雷管〟を超える。そして自分たちを認めなかった親を、大人たちを見返してみせる。そんな野望と復讐心から始まったBAEの戦いもまた、対戦した他のラッパーたちとの交流から、確かな変化を重ねていった。
そして、多くの熱と涙を交わし、Paradox LiveはBAEではなく……チームcozmezの優勝で決着を見た。
夢は破れたが、間違いなく、彼らは確かな〝繫がり〟を得たのだった……。
「─とは言え、〝負け〟には変わりないんだ。ここからは今まで以上にクオリティを上げていかないとな。夏準、アン、良いな!」
「ええ、それは同感です。でも、アレン?」
「まず、部屋の片づけからだって言ってるでしょーが!」
夏準とアンのツッコミが響く中─彼らのシェアハウスはエラいことになっていた。
Paradox Live終了後。
大会中は「まあ集中したいだろうし」と、若干大目に見られていたアレンの部屋の散らかりように、とうとうチームメイトの二人からメスが入り、大掃除が行われていた。
ところが、部屋の片づけとは〝断捨離〟が基本。
思い切って不要物を捨てるのがベストなのだが、アレンの場合、部屋のほとんどを占めるのが音響機器やレコードの山。アレンの過去への配慮もあり「なるべく捨てずに整頓しよう」という方針を決めたせいで、一度運び出した荷物がリビングを侵食していた。おかげで家中が中古ショップ状態だ。
「まったく、アレンは無秩序に物を溜めこむ天才ですね。人間じゃなくてリスに生まれていたら、あちこちにドングリ埋めて忘れてそうです」
「ふふっ、リスアレンいいじゃん、可愛い。頰袋似合うんじゃない?」
「おまえらな……俺をなんだと思ってるんだ?」
片づけにかかる労力の文句を、せめてアレン弄りで発散する夏準とアン。そうでもしなければ、とてもじゃないが疲れてしまう。アレンの荷物はそういう量だった。
「しかし、本当によく溜めこみましたね。ここに越してから、それだけ経っていたと思うと感慨深くはありますが」
「色々あったもんねー。Paradox Liveが始まってからは特に……アレンが油断してcozmezのKANATAにファントメタル取られたり、夏準がThe Cat's Whiskersのコンプラ大魔王にディスられて引きこもったり、夏準がメタルの侵食受けて僕とアレンで精神世界に飛びこんで助けたり……」
「思い出す内容が偏ってないか、アン」
「ボクに対して含みのあるチョイスですよね。アンの格好悪いところも思い出してあげましょうか。ノート鍋敷き事件とか」
「ちょっと、それライブ関係ないやつじゃん……って、あれ?」
ふと、クローゼットの片づけを進めていたアンの手が止まった。
「どうしました? アレンに限って妙な動画ディスクとかは隠してないでしょうけど」
「隠してないって! ……で、どうしたんだよアン」
アンが手に持っていたのは、少し古いモデルのトラックジャケットだった。ビビッドな色合いで、いかにもストリートファッション、という作り。
それを見て、アンは目を丸くしていた。
「これ、まだ持ってたんだ?」
「まだ、って……そりゃ当たり前だろ。夏準も持ってるよな?」
「……まあ、まだまだ着られますからね。捨てるのも勿体ないですし」
「そっか。ふーん……」
少し褪せた生地の色を見つめながら、アンは目を細めた。
本当に、色々なことがあった。Paradox Liveで。そして、三人がBAEとして活動する中で……辛いこともあった。泣きたい夜もあった。それでも、三人でラップをしていたから楽しかった。
「……もし、あの時、ラップに……アレンと夏準に出会ってなかったら……」
片づけの疲れもあったのだろう。懐かしげに目を閉じれば、アンの意識は思い出を巡り出す。
それは……アンにとって、全ての始まりともいえる、記憶の旅へと繫がっていった。
世界に嫌われたような、静かな放課後だった。
たまたま友達の誰とも予定が合わなくて、ぽっかりと時間が空いた、放課後の午後四時。吹奏楽部のフルートの音が、ずいぶん遠くに聞こえていた。
長い髪とスカートを揺らし、すらりと長い脚を伸ばして、白色の廊下を上履きで踏む。
薄いソールがタイルを叩いて、安っぽくて、軽い足音が響く。
頼りない足音は、誰の一歩でもそう変わらない。
アンはこの上履きが、あまり好きではなかった。制服に凝った学校は多くても、この扁平で子供っぽい履物は大差ない。指定制服が無く、好きな私服で─アンが自分らしくいられるスカートルックで─通えるインターナショナルスクールですら、それは同様。全ての生徒を〝子供〟という同じ型に嵌めたい大人の意思が、制服よりも顕著に思えるものだった。
或いはその軽い足音が、帰る場所のない自分の足取りを、揶揄しているように聞こえたからかもしれない。
もちろん、家はある。
けれど十六歳のアンにとっては、そこは帰らなければならない場所ではあっても、帰りたい場所ではなかった。
だから放課後のアンに、まっすぐに帰宅するという選択肢はなかった。
でも一人で街に繰り出して潰せる時間は、意外と限られている。ウインドウショッピングは嫌いではないが、連日やれば飽きてくる。
なのでアンは、当て所もなく校内のあちこちを歩いた。
たいていは、そのまま友達のいる部活を冷やかしに覗いたり、図書室とか購買とか、そんなところを行ったり来たりする。そのたびに、ペタペタ鳴る上履きの足音が、「行くとこ無いんだろ」と語り掛けるようで、嫌いだった。どれほど疎んでも、家に、学校に、親に縛られている十六歳の、不自由さの音だった。
やがて暗くなったら部活終わりの友達を捕まえるか、いよいよ観念して一人で街へ行き、補導されない程度の時間に帰宅する。
家に帰る前に、メイクは完璧に落とし、エクステを外す。そうして男子らしい服に着替えたら、アンがアンでいられる短い時間はそこで終わる。
シンデレラの魔法だって、日付が変わるまでは有効だろうに。
あとは家に帰って、遅い帰りの言い訳をする。たいていは、勉強会に出ていることになっている。「もう少し早く帰ってね」だとか「ママは一人で寂しかった」とか、そんな台詞の中で、消えない頭痛が過ぎるのを待つようにやりすごす。
それが、アンにとっての毎日だ。
どれほどうんざりしても、結局は母と息子であることを捨てられない。それが十六歳のアンのリアルだった。
「……つまんないの」
呟きは、階段を上る足音にはじけて消えた。
日が沈む時間の憂鬱さはいつも同じだが、その日は特にアンの気持ちが落ちこんでいた。たぶん昨晩見た、忌々しい夢のせいだった。
だからだろうか。その日のアンの足取りは、用もなければ意味もなく、普段は訪れない上級生のフロアまで延びていた。
休憩スポットがあるわけでもなく、残っている生徒も少ない。
そのまま歩いても、廊下は突き当たりになる。そこらで引き返して、購買にでも行って飲み物を買おうかな、なんて考えていたところ、何かが聞こえた気がした。
「……誰か、歌ってる?」
自分の耳を頼りに、その音の方へ向かって歩く。一つの教室から漏れてきたそれは、確かに誰かの歌だった。
けれどそれは、合唱コンクールで聴くような物とは、はっきりと違っていた。
それを表すために、今の時代には的確な言葉があった。
「いや……ラップかな」
そう言えば、聞いたことがあった。アンの一つ上の学年に、二人だけでHIPHOP活動をしている先輩がいると。
確かに、HIPHOPは流行っている。幻影ライブの迫力に魅せられて、ラッパーの真似事をしたり、それと共に広まったニューウェイブのB系ファッションに染まっている同級生もいた。だが、アンはあまり興味がなかった。
だからまぁ、噂の先輩たちもそんなものだろうとは思ったが、アンにとっては都合が良かった。仲良くなれば、放課後の暇つぶしにはなるかもしれない。
そういう軽い気持ちで、アンは扉についた小窓から、教室の中を覗きこんだ。
二人の学生が、向かい合って交互に歌っていた。どうやらスマホを繫いで音楽を流し、教室をスタジオ代わりにしているらしい。
なんだか涙ぐましい努力だな、と少し笑いながら、アンは「こんにちは、僕も交ぜてもらっていい?」なんて軽く声をかけるつもりで、扉を開いた。
そして、
「─あ」
熱が、アンを出迎えた。
それは歌唱と言うより振動。
刺々しいほどの生の感情。
くっきりと響くリズムに、エゴイズムを乗せて韻を踏む。
野性的な衝動を、理性的にパックして、叩きつけるような声の奔流が、胸を震わせて熱くする。
歌と呼ぶにはより強く、主張を叩きつけるような、弾丸のような声の嵐。
壁越しに聞こえてきていた二人の音が、隔てる物なくクリアになって、アンの体に流れこんでいく。
強烈な印象を残すフレーズを〝パンチライン〟と呼ぶことを、アンはまだ知らない。けれど確かに、殴りつけられたような衝撃があった。脳を揺らされ、耳を叩かれ、胸を焦がすフレーズが響いていた。
技術的には、プロと比べるべくもないのだろう。
教室にスマホ音源、音響が良いわけもない。
けれどそこにあった熱は……あまりにも赤裸々に、〝俺たちはここにいる〟と叫んでいるようで。世界に向けて、喉が枯れるほど、堂々と叫んでいるようで。
そんな熱が満ちた教室で、窓から射した夕日の色は、眩しかった。
たぶん泣きそうなほどに、眩しかった。
「……えっと、誰?」
声をかけられて、いつの間にか音楽もラップも、止まっていたことに気がついた。二人いた生徒のうち、ツンツンとした髪の男子─アレン─が困ったように、サラサラ髪の男子─夏準─が目を細めて、アンを見つめていた。
夢中で音に向き合っていたのだろう。微かに息が上がり、汗が滲んでいる。二人の響かせた空気の名残が、まだ部屋の中に残っていて、そこを通った紅い日差しが、ライトのようにアンを照らしていた。
歓迎されているとは感じなかった。
けれど、先ほどまでのラップを紡いでいたのと同じ声で「誰?」と問われれば、自分が誰であるか、何であるか、素直に言ってもいいのだと、そう感じられた。
だから、答えた。
「─アン。僕は、アン・フォークナー」
男子とか、女子とか、何歳だとか、何組だとか。その瞬間、その名乗りに、余計なものは必要なかった。
とにかく、そんな形で三人は、初めて顔を合わせた。
いずれ〝BAE〟と名乗るのはまだまだ先の、二人と一人。
夕日の教室での、遭遇だった。
そのころ、放課後の教室でラップの練習をするのは、アレンと夏準の日課になっていた。
最初はアレン一人でやっていたことだが、ある時から夏準が加わった。いや、ある意味ではアレンが引きこんだと言えた。
隠して蒐集していたHIPHOPのレコードを両親に燃やされ、アレンが夏準の元へ転がりこんで以来、夏準が〝アレンのラップ〟に興味を抱いてから、この関係は続いている。
最初のころは物珍しさで、同級生が見学に来たりもしたが、やがてそういうことも減っていった。結局、放課後の練習時間は、アレンと夏準の閉じた世界になっていた。
なので、見たこともない下級生がやってきて、やたら明け透けなノリで絡んできたのには、アレンは正直面くらった。
とはいえ、その下級生、アン・フォークナーと名乗るその青年は、数日経つころには、すっかり放課後の時間に馴染んでいた。
物おじしなくて、単純にコミュ力が高い。
処世術として、柔らかい人当たりを作る夏準とはまた違う。
なんだか飄々として、堂々として、でも嫌味じゃない態度。春の桜のように柔らかな見た目で、秋の日のようなカラっとした空気を纏う。友達の少ないアレンとしては正直、見習いたい部分が多い。
けれど、そんなアンを初めて見た時、夕日の中で感じた妙に濃く映る〝影〟が、アレンはどうも気になっていた。
その日も練習用のトラックが一区切りを刻み、休憩に入ると、アンはチョコ菓子を一本つまんで、タクトのように振りながら口を開いた。
「でもさ、教室で練習するのってどうなの? やっぱスタジオとか使えたほうが良いんじゃない?」
「いや、そうでもないよ」
アンの問いかけに、アレンが答えた。
「ここには俺たちの日常があるから、そういう意味ではインスピレーション湧きやすいし、黒板が使えるのは意外とありがたい。試しにフレーズを書いて消して、がしやすいし、夏準と二人で見て共有もできるしな」
「へー、それは言えてるかも」
「あと、いちいちカラオケ使うのはあんまり経済的じゃないだろ?」
「どっちかの家に集まって練習、とかはしないんだ?」
「……俺、今は夏準の家に世話になってるからな」
「ふうん?」
首をかしげるアンと、夏準の目があった。
「家ですると、アレンがリリックを書いた紙くずを散らかしますから」
「はぁ」
アンの気の抜けた相槌に、夏準は訴えのように続けた。
「それに練習の切れ目がなくなりがちで、たまに夕飯を抜くことになって─ボクが朝から準備していたタッカンマリ……鍋料理ですね。それが結局、翌朝のクッパになってしまったこともありましたね。全部アレンの自腹で材料買いなおして貰いましたけど」
そりゃ気の毒に、という視線を向けるアンに、アレンは気まずそうに頰を搔いた。
「つまり、そういうことで……区切りって言うか、練習時間にメリハリをつけるために、家の外に練習場所を設けてる、ってわけなんだ」
「アレンはラップ中毒なの?」
「HIPHOPバカなんですよ」
「あー、しっくりくる」
「お、おまえらな……」
引きつりながらも、アレンは夏準の態度に、少しホッとしていた。
最初、一見女子に見えるアンに対し、夏準は〝妙にいい笑顔〟で対応していた。それはよくない兆候だと、アレンは思っていた。
夏準はもともと猫被りだ。アレンの知る素顔の夏準は、陰険でドSで性格が悪い。まして外ヅラでも素顔でも、物腰だけは柔らかいからタチが悪い。
その割に、学内では営業スマイルを振りまいて〝微笑みの貴公子〟なんて呼ばれているのだ。処世術だと言うが、おかげで女子のおっかけが絶えない。
かつて、夏準のおっかけの女子同士が、派手にケンカを始めてしまったことがある。ところが夏準は、それぞれの女子に一言ずつ耳打ちするだけで、あっという間に事態を収めてしまった。不思議に思ったアレンは何を言ったのか尋ねてみたが、夏準はただ笑顔で口元に指を立てるだけ。アレンはそれが、逆に恐ろしかったのをよく覚えている。ただ、アレンの記憶が確かなら「ドミノって上手に倒れると気分いいですよね」とか言っていた。
アレンは夏準のことを信頼しているが、そういう面は本当に怖いと思う。
夏準がアンに気さくに接していたのは、たまたまアレンがアンを男子だと見抜いたためだったりする。
別に詮索したわけではない。ただアンの纏う〝影〟が気になってじっと見ていたら、雰囲気とか体つきで気づいただけだ。だからどうとは、アレンは思わなかった。
ただ、アンはそうと分かった時に、妙に嬉しそうだったし、夏準はそんなアンにちょっと感心していた。自分らしいと思えばそのファッションを選ぶ性格が、夏準にとっても好感触だったらしい。
そういう理由で、アンはアレンにとっても夏準にとっても悪い印象がない、良い後輩だったわけだ。
「でもさ、二人の練習を見るようになって、何日か経つけど……」
椅子に逆向きに座り、背もたれに腕を置きながら、アンが言う。
「ラップバトルだっけ。ラップのステージって、そうやって競うものなの?」
「いや、こういうのはあくまで一形式だよ」
アレンが答えた。
「まあ……フリースタイルのMCバトルはアンサー返し合うから、語彙のレパートリー広げる訓練にもなるんだよ。二人いるからこそできる練習ってことでやってる。でも確かにライブハウスとかクラブで開かれる大会は、バトル形式ってイメージあるよな」
「うん、そういうイメージ」
「けど、これはあくまで一側面で、じっくり腰据えて用意してきたリリックでライブやるのも当たり前だし、それこそ幻影ライブはそうだろ?」
「だろ? って言われてもそこまで詳しくないけどね、僕」
「ああ、そうだよな。まあつまり、キャッチボールみたいな感覚で、俺たちは練習に取り入れている。練習法がこればっか、ってワケじゃないんだけど、実践的だから」
なんとなく分かったようで、アンは頷く。
それを機に、アレンの口がいっそう回り出す。
「そもそも音楽を誰かと楽しむ、って文化がなかった時代から、静かなサイファーブームってのはあったし、フリースタイルによるラップバトル自体は今の幻影ライブムーブメントのルーツみたいなもんだよ。オールドスクールなラッパーから見ると邪道、って言われてた時代もあったらしいけどさ」
「……ええっと、そうなんだ?」
アンが首をかしげる。
「アレン。アンがキョトンとしてきていますよ」
「あ」
自分の世界に入りかけていたアレンも、夏準の言葉で視界を取り戻した。アンときたら、完全について来れていない顔だった。
「あー、悪いなアン。ちょっと夢中になっちゃって」
「いーよ、助かる。ていうかさ、僕もちょっと見学してる割には知らないこと多いしね。良かったら色々教えてよ、ラップのこと」
アレンは嬉しそうに頷いて、夏準は不安そうな顔をした。アンにはその理由が数秒後まで分からなかった。
「えっと、じゃあどこから話すかな……アンはどのくらい知ってる? ラップ」
「どのくらい、ってゆーか、HIPHOPとラップの違いって何?」
後にも先にも、夏準がそこまで露骨に「ヤバいこと口走りましたね」という顔をしたのは、この瞬間を置いて他に無かった、とアンは思う。
「あー……なるほど、そこからかー……」
「……や、別に困る質問だったらいーんだけど」
片腕で自分の体を抱くようにして、もう片方の手でこめかみをトントン叩くアレンの姿を見たあたりで、アンもようやく「まずいこと聞いたかな」という気持ちになった。だがもう遅い。
「まず、なんていうのかなー……HIPHOPはさ、生き方だと俺は思ってる」
「うん……?」
アンは不安になった。
「で、ラップっていうのは、HIPHOPで生きるヤツの叫びだ」
「んー? うん。うん?」
アンはもうヤバいと思った。
「どこから説明したら良いかな……。一番話したいのは幻影ライブだけど、そこに至る下地があるし。あーでも、そうだな、まずHIPHOPの四大要素、これはさすがに必須だろ」「そうなの?」「そう。つまりDJ、MC、ブレイクダンス、グラフィティ。あとからそこに知識が追加されて五大要素になるわけだけど、この中のMCってのが今はいわゆるラッパーなんだ」「はぁ」「つまりラップってのはHIPHOP表現の手段の一つで、それがさらに進化を遂げたのが─そう。幻影ライブ!」「うわびっくりした! 急に大声」「俺は先の五大要素に幻影が追加されて、今は六大要素だって思ってるし、実際そう表現したラッパーもいてさ! HIPHOPってのはそうやって進化の歴史が厚いジャンルだから、それを先に進めた幻影ライブって、マジで歴史を刻むムーブメントなんだよ!」「うわ、ちょ、顔近いって」「さすがに武雷管は知ってるよな? 知らない? MC夜叉とMC修羅、二人の伝説的ラッパーが幻影ライブの存在と共にHIPHOPを世界に広めて、音楽って文化そのものを進化させたんだ。まあこの二人はなぜかその後急に消えちまって、でも今は武雷管が起こした巨大なムーブメントの波が収まることなく世界中に広がり続けてる。武雷管に何があったのかは知らないけど、ともかく幻影ライブってものが音楽を一つ上の段階へ進化させたのは確かだよな。俺、最初生で幻影ライブ見た時もうヤバくてさ。さすがに武雷管のじゃないけど……いやほんと、耳だけじゃなくて目から音楽性が飛びこんでくる感じ? バイブスの浸透圧が高くてガーンッ! てさ! それが耳だけで感じるよりすごいんだよ。より直接的に世界観を伝えられることで、トラックだけじゃなく幻影から立体的にリリックとの化学反応が起こせるようになって、表現の幅は圧倒的に広がったんだ! 幻影ライブはラップの発展だと思われがちだけど、あれってつまりMCにグラフィティの要素をミックスした上で進化したステージ表現でさ、アンも興味あるなら一回生ライブ見といたほうが良い、マジで! ここ割と近い会場でフェスやるからアクセス楽だし。あ、これ豆知識なんだけど駅裏のカラオケの店長が幻影ライブフリークで、よくフェスとか近場のハコのフライヤー置いてるから要チェックな! もちろん生じゃなくてもスゴさ伝わってくるチームはあってXXXXとかはもう解散しちゃったチームなんだけど、全然映像でもヤバい! できれば解散前にライブ行ってみたかったなぁ。まあでも俺はXXXXのことリスペクトしてるけど音楽性は違うと思うし、ラップやるからには結局いつかはあの人たちも、そして行く行くは始祖である武雷管を超えるってのが─」
「─アレン?」
夏準の笑顔が眩しかった。
アレンはその表情が、睨まれるよりよほど怖いことを知っていた。ので、何か言われる前に身構えようと思ったが、
「そうやって言いたいことが散らかるから、始めたばかりのボクにMCバトル負け越すんですよ」
「うおぉ……」
夏準の言葉が形をもって刺さったかのように、アレンは膝から崩れ落ちた。積み木を下から叩いたような、見事な崩れ方だった。
「……アレンのほうが夏準に教える側なんだよね。負けたの?」
アレンを心配そうに見ながら、アンはひそひそと夏準に耳打ちする。
「ええ、アレンはこの通り筋金入りのHIPHOPバカなんですけどね。今聞いた通り、口も回るし、技術はボクよりずっと上。フリースタイル自体はむしろ得意なんです。今言ったことが負けの原因では、決してありませんよ」
「じゃあどうして夏準が勝てるの?」
「即興のディスが苦手なんですよ、彼。HIPHOPが好きすぎて、たまに相手に同意しちゃいますから」
「それは……なんか、すごく分かる」
あと、夏準がディスが得意そうなのも─とまでは、アンは口に出さなかった。
「─つまり簡単に言うとHIPHOPはファッションやダンスなど、大きなくくりとしてのアートジャンルで、ラップはその中にある歌唱法というわけです」
「すご。夏準わかりやすーい」
アンの声に、アレンの肩がびくっと動いた。もう五分ほど夏準の言いつけで大人しくしている。子犬が「待て」をされている様子によく似ていて、正直可愛く見えてしまうので、アンは笑わないように視線を外していた。
「でもほんと夏準説明上手だね。ラップ始めてまだ一年くらいなんでしょ?」
「アレンの言う事をかみ砕くために、自分で調べましたからね。HIPHOP史の講師になれそうですよ」
「ファッションのジャンルもHIPHOPの一部だとか知らなかったし。B系ってこと?」
「そう呼ばれますね、一般的には。これは元々サイズの合った服を買えなかった、経済的に苦しいラッパーたちのファッションを、HIPHOPの広がりとともに取り入れた服装だそうです」
「へー、だからオーバーサイズなんだ」
「現実には、このファッションを好む人の多くは、ラップに精通しているわけではないようですけど」
「あ、でも分かるかも。ラッパーの人たちのファッションって、そんなコテコテじゃないっていうか、スマートなストリート系だよね」
「特に幻影ラッパーはステージ映えが大事ですからね。常に現代シーンに適応できるように、衣装に対する意識も高く持つ必要はあるそうです」
「なるほど。どんな人から出た言葉か、って大事だもんね」
服のことになると、アンも幾分か話を吞みこみやすかった。ステージに立つのだから、自分をよく見せるために着飾るのは当然。それはアンにとって、自分を表現するのに一番わかりやすい形で、しっくり来た。
「アレンと夏準もやっぱ、その辺こだわってんの?」
「俺はあんまり」
「ボクも、現時点ではそれほど」
「えっ、なんで?」
かと思えば、話が繫がらなくて、アンは目を丸くした。視線を向けると、夏準が肩をすくめていて、何か事情がありそうに見えた。
「ボク一人着飾っても、アレンと釣り合わないとバランス悪いですから」
「へ?」
アンは気が抜けたような顔で、気まずそうなアレンを見る。
「じゃあアレンはなんで服に拘らないの? せっかく顔良いのに、もったいなくない?」
「……言っただろ。今、夏準の家に世話になってるから」
「服買うお金ないってこと?」
「違いますよアン。アレンだって放課後はバイトもしてますし、たまにライブハウスのイベントで賞金も手に入ります」
「え、じゃあなんで」
「アレンは使えるお金があると、衣食住よりレコードや機材に回してしまうんですよ」
「HIPHOPバカじゃん!」
「HIPHOPバカでしょう?」
二人の視線が痛くて、アレンは「ぐぬぬ」と眉を顰める。
「い、良いんだよ。今は見栄えのする服より、音源のほうが大事だから。集めていた機材やレコードは今……ちょっと、持ってきてないし。……とにかく一番重要なのは良い音に熱いリリックを乗せることだろ!」
「幻影ライブの説明してる時と言ってること違くない? 耳だけじゃなく目でも感じるステージなんでしょ?」
アンはようやく、夏準の言う〝HIPHOPバカ〟という言葉の意味を理解した気がして、すっかり呆れ気味だった。
「いや、違うって。今は、音源優先して揃える必要があるんだよ」
アレンは少しむくれながら、鞄を漁り、一枚のフライヤーを取り出し、見せた。
黒地の紙に、極彩色のポップでアーティスティックな文字が躍る。ああ、これがグラフィティという要素か、とアンはなんとなく理解しながら、一番大きな文字を、ついネイティブな発音で読み上げて、それから言い直す。
「Dig Da Groove……ディグダグルーヴ?」
「そう。屋外フェス形式の大型ライブイベントだ」
「それも、幻影抜きの─ですよね」
夏準が、アレンの言葉に続く。
「レコード会社のスポンサーがついた大きな大会ですよ。幻影ライブブーム以後、あちこちの地方を回っては散発的に開催され、有望なラッパーが次々メジャーシーンデビューへの足掛かりにしています。幻影ライブでなく単純な楽曲オンリーなのは、才能を発掘するための側面が大きいようです。新参者の登竜門でしょうね」
「……もしかして、二人もそれに出るの?」
アレンと夏準が、ほとんど同時に頷く。
それは、単純にそういう取り決めを交わしているというより、それぞれが明確な意志をもって、挑戦しようとしている姿勢の表れだろう。
けれどこういう時、冷静で、少しシニカルな視点から付け加えるのが、夏準だ。
「まあ、近場のイベントや大会で、最近実績を出しているラッパーにはインビテーションが届くんですが。ボクらは抽選枠での参加ですけどね。応募チームに辞退が出たので、プログラムの穴を埋める補欠ですよ」
「いやいや、補欠でもスゴいんじゃないの?」
「一応、ボクとアレンは、クラブの開催したラップバトルイベントで結果を出しているんですよ。……あれは高校生オンリーの大会ですがね。今回は社会人のセミプロクラスが参加してくるようなイベントだからでしょう。홀때를 받따(はっきり言ってナメられている)」
「構うもんか」
ぱしん、と乾いた音。アレンが拳を掌に叩きつけ、低く唸る。
「抽選でも、摑んだチャンスだ。この舞台で、音で、〝俺たち〟を証明してやればいい」
そう宣言するアレンに、アンは少し気圧された。
先ほどまでの弱々しさはない。
陽炎を纏うような、揺らめく熱が、アレンの瞳に宿っている。涼しげに見える、夏準の細めた目の奥にも、静かに滾る光がある。
それは〝本気〟の人間だけが宿す輝き。
初めてこの教室を訪れたアンが目にした、眩しさの正体だ。
「……二人はさ。どうして、ラップやってるの?」
「決まっている」
「決まっています」
答えは、ほとんど同時だった。
「俺の音楽で、世界に俺を証明する」
「誰が一番なのか、この世界に教えてあげるんですよ」
声に、迷いはない。
それは自信を超えた領域の宣言。確固たる意志の表れ。
その決意が声に乗り、アンの耳に届く。─声は空気の振動。その空間そのものを震わせて、世界を、そこにいる者を揺らす。
振動が、アンを揺らす。
夕方の教室、斜陽を背負って立つ二人の姿が、アンにはずいぶんと大きく見える。
「……ラップなら、それができる?」
「できる」
アンの問いに、アレンが頷く。
そして、射しこんだ太陽の光に、手をかざす。長く伸びたアレンの影が、味気ないタイルの上を跨いで、スクリーンのように壁に焼き付く。
「ラップは、HIPHOPは元々、影から生まれたアートだったと、俺は思っている」
「影?」
「そうだ。ゲットー、ギャング、弾圧、抗争。クソッタレな世界に、苦しみに抗うための暴力のエネルギーが、やがて形を変えて音楽になった。街角で繰り返すケンカを、ダンスやアートに変えて、それがディスコに持ちこまれてラップを生んで、今は世界に溢れてる」
「……けっこう、ネガティブな背景があるんだね」
「ああ。でもネガティブな根があるからこそ、魅力もあると俺は思う。……俺たちをとりまく世界。世間の視線。大人の声。それは、たぶん強い光だ」
「……光」
「そう。でも暖かな物じゃない。肌を焼いて、目を潰す。攻撃的なクセに、我が物顔で高いところから降り注ぐ、景色が白むほどの、炎のような光」
アンは顔を上げる。街の輪郭すらも溶けそうな夕日が、射しこんで、目の奥が痛んで、思わず瞼を強張らせる。
「その光が─」
アレンがその視線を誘導するように、手を振り上げる。
「─俺の体を通して、映し出す、黒く濃い影の形。うっとうしい、うんざりする、そんな世界の中だからこそ浮かび上がる、俺自身の音の形。それがたぶん、ラップなんだ」
くっきりと映りこんだアレンの影が、アレン以上に大きく見える。
影。─幻影。
ぼんやりとしていた単語が、アンの中で形をもっていく。
「……っし、なんかアガってきた。再開しよう、夏準」
「良いですね。ボクも今日は、もうちょっといけそうです」
夏準がペットボトルのミネラルウォーターを一口呷って、アレンに手渡す。アレンもまた、それで喉を潤す。それは単に回し飲みしているというのではなく─なんだか、喉を、同じ音を共有するという、決意の表れのようにも見える。
アレンの指がスマホを操作し、トラックを流す。
世界を刻むように踊るスネアドラムの音。リズムが跳ねる。HIPHOP。そう名付けられた意味を示すような弾む音色。
「HOUSE寄りの高BPM……夏準、ノれるよな?」
「良いですね、今の気分です」
「だろ」
大会形式のバトルみたいにジャンケンはしない。入れると思ったほうから、ビートに飛びこんでいく。今は、まずアレンから。
トラックが耳から沁みこんで、脳みそに振動が届いたら、声にして出力する。焦ってはならない。まずちゃんと〝聴く〟。そして声を音に〝乗せる〟。
そうすれば、劈くような力強い声も、トラックと踊る。
下腹から放つ、叫ぶような歌い回し。韻より先にまず曲と対話して、乗りこなし、捻じ伏せる。
多少強引なフロウでも、聴いてみれば「それ以外の答えはない」と思える。声に確かな力があるから、〝自分〟を表現している。
トラックとフロウが馴染んだ手ごたえを感じたら、手癖で韻を踏む。アレンの中に韻を踏む感覚が根付いていて、しりとりのように、前に歌ったフレーズの母音を拾って繫げれば、自然とラップになる。テクニカルより、ナチュラルに作っていく。
やがて夏準に交替する。
一転、メロディの輪郭を優しく撫でるような、セクシーなニュアンス。アレンとはまた違う解釈で、声を奏でる。語尾で軽く吐息を抜き、囁くように耳を愛でる。
甘いチョコレートのような声の中に、隠した毒が溶けだすようなワードチョイス。それが織りなす、チクチクとしたバイブスが心地いい。
浸りたくなる、夢に誘うようなリリックに、落とし穴のように意地悪なディス。鋭い棘を持つバラのような夏準の韻。懐いてくれない猫のように切ないフロウ。
時折、日本語と英語と韓国語を器用に選択して、リズムに適切な言葉を選んで組み立てる。それもまた、夏準のラップ。
二人の音は違う。二人の声は違う。ぶつかり合う。譲らない、各々の哲学。
それでもなぜか、似た色の振動が教室の空気を震わせる。
交互に繰り返すラップバトルが、交替の一瞬、パート分けされた一つの曲に溶け合うような時がある。そうなる瞬間が、アンは好きだ。
あと一つ、何かが〝間〟を繫げばきっと完成する。そんな期待感。
アレンは、HIPHOPを影のアートだと言った。
クソッタレな世界を暴力的に壊すより、滲み出たネガティブな物を使って創造へと昇華する。そういうアートだとアンに言った。
もうビルの向こうへ顔を隠す、赤い夕陽が断末魔のように、ひと際強い光を射して、声を張り上げる二人を照らす。そんな二人の影が教室の壁で、一幕の影絵劇のように踊り続ける。幻影。その二文字がアンの脳裏をよぎる。
きっと藻搔いているんだ、と思った。叫んで、藻搔いて、その藻搔き方がどれだけカッコいいか。もしかしたら、それがHIPHOPなのかもしれない。
アンはこの時間が好きだ。二人のバイブスが高まっていく、世界の中に浸るのが好きだ。自分たちはここにいる。この世界の中に確かに在る。そう叫ぶような青く若い言葉の応酬が、たまらなく好きだ。
好きで、好きで、愛しくて。胸がいっぱいになって、苦しくなる。
そしてなぜだか、ある瞬間に、急に泣きたくなるのだ。
「まったく。進路希望調査、あれほど早く出せと言っておいたのに……本当、HIPHOPのこと以外はしょうがないですね、アレンは」
「あはは。否定できない」
すっかり暗くなった生徒玄関で、夏準とアンは、職員室へ向かったアレンを二人で待っていた。
もうこの時間になると残っている生徒も少なくて、二人のラップがなくなった校舎は、眠りについたように静かだった。
いや、それだけではない。放課後は、アレンと夏準がすでに練習を始めているところへアンがやってくる、というパターンが主だったので、夏準と二人きりになるのは、アンにとっては実は珍しいことだった。だから、二人きりでする話というのが、それほど無かった。
アレンも夏準も、普段揃っている時は互いに会話があるので、そこに挟まる形でアンも会話に加わっている。けれど一人の時は……どこか、外の世界に対して身構えるような、殻を被っている。
たぶん、一言二言話す程度の関係では気づかない。
ラッパーとしてのアレンと夏準を知った、アンだからこそ分かる、歪さ。
きっと二人とも、ラップを通して出会っていなければ、あんな風に軽口を叩きあうような関係にはなっていなかった……そういう確信が、アンにはあった。
「夏準はさぁ……どうしてラップやろうと思ったの? アレンと」
「何ですか、藪から棒に」
「ちょっと気になってさ。話したくないなら、良いんだけど」
いつもの夏準なら、軽く流してはぐらかしていた。けれど、日の落ちた生徒玄関の、互いの表情すら見えない暗闇の中だからだろうか。答える気分だった。
「アレンって、コミュニケーション下手でしょう」
「そだね」
本人はそのころ、クシャミでもしていたかもしれない。
「目つきが悪くて、愛想がなくて。かと思えば、好きな物のことになると見境がなくなる。面倒ですよね。正直喋りたいタイプじゃありませんでした」
「言うねー、本人のいないとこで」
「いたとしても言いますけどね。でも……」
一呼吸。少しだけ照れ臭い気持ちを、夏準は、今は胸の奥へしまいこむ。
「彼のラップは、〝いいな〟と思ったんです」
アンは、目の動きだけで視線を夏準に向けた。表情は、見えなかった。
「一年前後、アレンとHIPHOPに関わって少しは理解しました。アンにとってのその恰好と、HIPHOPは、たぶん同じものです」
「僕の恰好?」
アンは軽くスカートをつまむ。アレンには「男でもびっくりするから」なんて、ちょっと窘められる仕草。
「ええ。〝堂々と自分を示す〟アウトプットの手段。あんな口下手の、コミュニケーション不全の不器用な人でも、ラップで語ればあんなにも、如実に〝自分〟を伝えられる。面白いでしょう? だから─」
暗い天井を見上げながら、夏準はアンに見えないように、少し笑った。
「─そういうのも〝あり〟か、と。そう思ったまでです」
そんな夏準を見て、アンは長いまつ毛をぱちぱちと瞬かせた。
「……アレンにもそう言ったの?」
「言うわけないでしょう」
夏準が噓をつく時の声音を、アンはまだ聴き分けられなかった。
「あっは。夏準もけっこうめんどくさいよ」
「アン。ボクが優しくないのは、アレンにだけではないんですよ?」
「うわ、怖い」
威嚇するような笑顔を向けてくる夏準から隠れるように、アンは身を縮める。くすくすと笑う口元を、両手で覆って、
「……堂々と、か」
苦々しく歪む口元を挟み潰すように、アンの呟きは、掌の間に消えた。
「─本当に良かったのかよ、アン」
「別にボクは自分で買えるんですけどね」
土曜日。アレンと夏準は唐突にアンに呼び出され、一日中ショップを連れまわされ、着せ替え人形にされた。
何かと思えば、アンからの、二人へのステージ衣装のプレゼントだという。アンなりに学んだ、現代HIPHOPの流行から、センスを活かして選んだものだ。
アレンには、ビビッドな色合いを取り入れた王道なストリートファッション。HIPHOPらしさを背景に、今らしく、それでいて存在感を主張する。
夏準には、ラグジュアリーな印象をメインにしつつ、ややユニセックスなコーデ。夏準自身の上品なセクシーさが際立つように。
「餞別。日曜……明日でしょ? 例の、Dig Da Groove。だからさぁ」
アンは頰を搔いて、曖昧な笑顔を向ける。
「ずーっと二人のラップ聴いてて、いてもたっても居られなくなったんだよ。衣装だって、ステージ演出の一種でしょ。僕にも一枚嚙ませてよ。スタイリスト的な?」
「だからって、これ安いもんじゃないだろ」
「いや安いよ。アウトレットからのチョイスだし」
「でもさぁ」
「あと僕、アレンよりずっと資金力ある。短期バイトもやってたし」
「うう……」
「アン、あまりアレンをいじめてはいけませんよ」
「夏準それ笑わせに来てるでしょ」
アレンは呻き、アンと夏準は笑った。そして、アンがその先を続けた。
「せめてさ、僕の選んだ衣装くらいは、ステージに連れて行ってよ。そしたら一番近い場所で、二人のバイブスが響くから」
「アン……」
アレンはしばし、商品の入った紙袋を握りしめて、それから再び口を開いた。
「昨日、アンにも聴かせたろ。大会用の曲。あれ、どう思った?」
「ん、格好良かったよ」
そう答えてから、アレンと夏準に視線をぶつけられて、アンはすぐに観念した。言葉を濁すのは、らしくなかった。
「格好良かったのはほんと。でもやっぱりちょっと、ギザギザしてた。纏まってないっていうか、コーデで言えばトップスとボトムスがケンカしてる感じ」
「はっきり言いますね」
夏準が呆れたように、しかし、納得したように肩をすくめる。アレンも、分かっていたと言わんばかりに落ち着いた様子で口を開く。
「トラックは良いものになってると思う。俺のフロウも夏準のフロウも、あの曲なら映えると思う。でも」
「ボクとアレンがチームとして使うと、テーマが今一つ纏まらない……ですよね」
「うん、たぶん僕以外の人が聴いても、そう思う」
お世辞や気休めは、なんの意味もないと、アンは分かっていた。けれどそれでも、訊かずにはいられなかった。
「あの曲で、出るんだよね。Dig Da Groove」
「ああ」
アレンが真っ先に頷く。
「これから一晩詰めても、たぶんブラッシュアップしきれない。未完成もいいとこ。それでも無難に纏まるより、あれが俺と夏準の全力になると思う」
「まあ、確かにチームの曲としては60点止まりかもしれません。けれどボクとアレン、それぞれの100点を出せばいい話ですから」
「言うじゃん」
アンは笑った。不安がなくなったわけではない。それでも、挑まずにはいられない─俺たちがいる、と叫ばずにはいられない、アレンと夏準の姿を否定できなかった。
「僕も。見に行くからね。そういえば、チーム名なんだっけ」
尋ねると、アレンと夏準は一度視線を交わして、それから同時に答えた。
「「Furthermore」」
「いいね。行っちゃえ、ずっと先へ」
その名は、二人の宣言のように、アンの耳には聞こえた。
どこか高く、遠くから響いてくる声のように、そう聞こえた。
世界に嫌われたような、静かな夜だった。
「……ふう」
門限にはギリギリの時間。
アレンと、夏準と別れて、アンは公園の男子トイレにいた。
駅のトイレではいけない。男子トイレで着替えても女子トイレで着替えても、目につけば妙な騒ぎを呼ぶ。噂になってしまうのが一番よくない。誰かの耳に伝播する。
淀んだトイレの空気の中で深呼吸はしたくない。が、それでも深く息を吐いてしまうのは、意思とは関係ない。そうしないと、胸が苦しくて潰れそうだった。
着慣れた女物の服を、丁寧に脱いでいく。
男物より一回りタイトなシャツを。脚が綺麗に見えるように丈を詰めたスカートを。
ヒールの高いブーツを。インナーカラーも兼ねたエクステを。
一つ、一つ、外すたびに、アンが欠けていく。ジグソーパズルをバラすのに、よく似ている。鮮やかなピースを外したら、残るのは絵のない下地だけ。
ロッカーに預けていたボストンバッグから、代わりの服を取り出して着替えた。
サイズが合わないわけではない。けれど細いアンの体には、少しブカブカに感じる太めのスラックス。テーパードなら少しは良いんだけど、なんて呟きながらベルトを締めて、シャツのボタンを留めて、ジャケットを羽織って、バッグにスカートなどを詰めた。
個室から出ると、手洗い場のミラーが出迎えた。
無機質で白い、電灯の光の下、アンだったものの姿が映る。
短い髪。男子の服。メイクだけが残っていて、なんだか、酷く浮いている。
「……ははっ」
クレンジングオイルを、コットンに落とす。─これ、肌にキツイけどしっかり落ちるんだよなぁ。なんて呟きながら、額から鼻にかけて拭っていく。
なんだか、自分に消しゴムをかけているみたいで、少し笑えた。
バイトをしていたのは、高校を出た後、一人暮らしする資金を貯めたかったからだ。それがアンの、ただ一つの野望だった。
アレンと夏準を見た後だと、なんて受け身で待ちの姿勢だろうと思った。二人の服代になったほうがまだ前向きだ。
確かに曲は粗削りだった。でもアンの選んだ服を着て、スポットライトを浴びて、ステージに立つ二人のラップは……誰かの記憶に焼き付くと思った。
無謀でも、粗削りでも、なお〝挑もうとする者〟がいることは、きっと世界に刻まれると思った。
公園を出て、帰路についた。寄り道をして、ロッカーにバッグを預けた。スカートとウイッグに、〝自分〟に、「バイバイ」を言うように鍵をかけた。
遠い車のエンジン音に交じって、スニーカーの擦るような足音が響いていた。
安っぽい街灯の明かりに、蛾が藻搔くように纏わりついていた。重い足取りで家に着くと、玄関の扉が妙に重かった。
「おかえり、安仁」
いつも通りの母が、出迎えた。すぐに言い訳を用意した。
「今日は遅かったのね、どうしたの?」
「必要な参考書がどうしてもなくって。少し遠くの本屋まで行っちゃったんだ」
「そう。でも、遅くなる時はなるべく連絡してね? 心配してしまうもの。悪いお友達でもできたんじゃないかって」
「うん、ごめんね。大丈夫だよ」
「貴方に限って、変な付き合いはないと思うけど」
「本当に、大丈夫だから」
そんな会話をしたと思う。
思う、と表現してしまうくらい、意識が曖昧だった。どうか瞬く間に夜が明けてしまえば良いと思った。
「とりあえず着替えてくるよ。お風呂も入りたいし」
そんな言葉で会話を区切って、自室へ向かった。その背中に「あっ」と、つい気づいたように、母の声がかかった。
「少し、髪が伸びたわね」
耳から伝わった振動が、毒のように回って、一瞬、足が止まった。
「明日カットしてらっしゃい。美容室、予約しておくから」
フリーズした脳を動かすために、呼吸が大きくなった。指先から血液を回して、赤血球が酸素を運んで、喉の感覚を戻して。やっと声が出た。
「─うん、そうだね。そろそろ、鬱陶しいね」
それだけ言って、部屋に入って、扉を閉めた。
なぜ怒らなかったのだろう。なぜ友達のことに口を出されて、文句を言わなかったのだろう。なぜ勝手に髪を切ることを決められて、不満を言わなかったのだろう。
情けなかった。情けなかった。
言いたいことは山ほどあるのに、自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
血が通ってないみたいに、頭から胸が妙に冷めていて、無音の部屋の中が、いつもよりもずっとシィンとしていた。部屋の空気は微動だにせず、止まっていた。
それから、部屋が暗いことに気が付いた。明かりをつけた。
目の前に、姿見があった。
没個性な服を着た青年が、ひきつった、媚びるような笑顔を張り付けていた。
「……誰だよ、お前」
苦々しい呟きと共に、鏡の中の青年が唇を動かした。
分かっていた。これが自分の姿だ。だがこれが自分で、本当にいいのか? こんな自分で、本当にいいのか?
一人の部屋の中、問いかけに応えてくれるものは、その時は誰も居なかった。
そして、その日はやってきた。
アンの姿は、日曜日の熱狂の中にあった。Dig Da Groove。屋外フェス形式のイベントは収容人数の多さもあって、クラブとはまた別種の盛り上がりを見せていた。力のあるイベンターが協力しているのだろう。ステージも大きく、オープニングにはアンも見たことのあるような幻影ラッパーが挨拶をして、そのまま審査員席に収まった。
美容室の予約は、夕方からだ。
アンは早い時間から会場に来て、前列に位置取ることができていた。間近で見上げるステージの大きさは、このイベントの権威を形にしたかのようだった。
プログラムを見る限り、アレンと夏準のステージを見てからでも間に合う。結果発表とその後のエキシビションまでは居られないが、仕方ない。
参加者はプロではないが、この地域のヘッズにはそこそこ知られたような顔が集まっているようだった。
アンはもちろん、そんな顔ぶれには明るくない。
しかしそれでも、アレンと夏準の練習を眺めていた時間が、アンに大会のレベルを悟らせた。
「……この人たち、上手い」
多くの参加者は、主催者サイドからインビテーションが送られているだけあって、なるほど、スキルも表現力もハイレベルだ。
時に韻を踏まず流れるようなフロウ。ダウナーな曲にはあえて声を張らない。トラックの間を抜群に生かしたパフォーマンス。〝音〟そのものへの理解が深い。あえて格好よくやらないという選択肢を選べる。
ラップを〝韻踏みゲーム〟にしない。表現したい世界観で、音楽性を打ち出して、ステージを作れるアーティストたち。
アンから見てもはっきり分かる水準のなかで、アレンと夏準が通用するのか。いや、それでも情熱は、負けていないはずだ。そんな自問自答を繰り返す。
やがて時間は飛ぶように過ぎて─アレンと夏準が、ステージに上がった。
アンの選んだ服を着て、二人が並ぶ。アンの狙い通り、グラフィティの掲げられたステージセットには、よく似合う。
大丈夫。いける。
曲が流れる。低く攻撃的なビート。アレンにも夏準にも、似合う曲ではある。後から思えば、それは『FRE∆KOUT』に似た雰囲気のトラックだった。
戦える。きっと世界に、何かを刻める。
─いけ。アレン、夏準。かましてやれ。
そんな、アンの静かなエールをあざ笑うように─おそらくは、機材的なトラブル。
トラックの音が、飛んだ。
最初は夏準のパートからだった。
順調だった。堂々たるフロウだった。フリースタイルで慣れさせた感覚と元々の度胸で、歌い出しは完璧にハマった。アレンも、夏準のラップが響いていることを確信していた。
「─あ、」
そして突然、トラックの音が飛んだ。
ラップとトラックのリズムが、ワンテンポずれた。聡明な夏準だからこそ、その違和感に敏感に気づいてしまった。
ドミノ倒しのように、崩れ出した。ビートとラップを合わせなければという焦りと、先に用意してきたリリックを順守しなければ、という意識がぶつかった。
普段であれば、夏準はそこまで動揺しなかったはずだ。フロウでテンポを調整し、軌道修正することもできただろう。
「くっ、─」
だが、余裕を失って初めて─屋外ステージの恐ろしさが牙を剝いた。
薄暗く密閉感のあるクラブやライブハウスとは違う。自然光の照らす、広大な観客席からステージへ注目する視線が、はっきりと見えた。それは夏準に、自覚していた以上のプレッシャーを与えた。
リリックは、この日のためにアレンと協力し、練りに練ってきたものだ。必死に組み上げたライムは、ワンフレーズのズレすら許してはならないという強迫観念を、夏準に与えていた。重ねた努力は、今や重荷になっていた。
結果、夏準はリリック通りに歌うことに拘って、ラップとトラックが完全に乖離した。
─まずい。
その焦りは、アレンに伝播した。
舞台度胸も、思い切りもあった。それでも、その時点でのアレンと夏準は、まだ未熟だった。パートを交替したアレンは、まず夏準のミスを補おうとした。
「……─っ!」
アレンは、客席が白けていくのを敏感に感じ取っていた。しかしそれ以上に、その空気が夏準を追い詰めることを恐れた。
だからこそ声を張り上げた。非難なんか聞こえてくる前にかき消そうと、力強く叫ぶようなフロウを放ち、リリックをその場で変えた。それほど、アレンは夏準を大事に思っていたし、この勝負に負けたくなかった。
だがそれは〝アレンたちのラップ〟ではなかった。強すぎる声の主張と、客席を沸かそうと挟んだアドリブが、夏準パートとのミスマッチさを決定的なものにした。
「─! ─っ!」
アレンが先走れば先走るだけ、夏準のミスが際立った。その焦りは二人を傷つけた。
だったらもっと、もっと─……そう意気込んで熱を上げていくアレンは、トラックを聴くことすら忘れたようだった。うんざりしたような審査員の顔が見えた。口端を歪める夏準の顔が見えた。
アレンはやがて、自分の声すら聞こえなくなった。
景色がモノクロに感じられて、ステージ外から射す太陽の光だけが嫌に眩しく見えた。
そして、トラックを聴かない、仲間の声を聴かない、自分の声を聴かないその耳が、嫌に鮮明に、客席の声を拾った。
「─これさあ、もうラップじゃなくね」
その呟きが、アレンのラップを、とうとう殺した。パフォーマンスはそこで、決定的に崩れていた。
アンは、ステージ間近の客席で呆然としていた。
こんな筈ではなかったと思う。確かに、二人の曲は粗削りだった。けれど、それはここまで酷いものではなかった筈だ。
実力を出し切ることすら許されない、トラブルさえなければ。だがしかし、不運だったにしても、このステージは─、
「ひっでぇラップ」
一瞬、アンは自分の声かと思った。隣の席の客がうんざりした顔で呟いていた。
やがて、呟きは確かな非難と罵倒となって広がっていった。ラップどころか、大音響のトラックすら覆い隠すほどの、ざわめきが滲んでいった。
「アベレージ高いと思ったんだけどな」「誰だよこんなガキ呼んだの」「ワックっつーかもう普通にクソ」「ダジャレ聞きに来てんじゃないんだよ」「浅いテクでステージ立つんじゃねえよ」「寒すぎ。萎えるんだけどガチで」「そういうの学芸会でやれよ」
「─違う!」
思わず、アンは近くの観客に向かって叫んでいた。
だって、叫ばずにはいられなかった。あまりにも酷い言葉が、アレンと夏準のステージを、消えそうなろうそくの炎を、本当に吹き消してしまいそうだったから。
「アレンは、夏準は─」
知らないくせに。アレンのことも、夏準のことも。あの二人の本気のラップも、放課後の努力も、本当のバイブスも知らないくせに。
「─あんなもんじゃないんだ! もっと先へ、もっと行けるんだ! アレンのことも、夏準のことも! 〝Furthermore〟を何も知らないくせに─」
「は? 誰だよ。知らねえよ」
当たり前だ。たった一度のステージで、初めて聴く観客に、関係があるものか。履歴書も人柄も、その場所では関係ない。
たった三分前後のステージの成否が、観客たちから見た全てだ。
もどかしかった。伝えたかった。アンが見てきたアレンたちの全てを。それを否定されてしまったら、アンが心地よいと思ったあの時間すら、唾をかけられる気がして。
だが、そんな思いをいくら言葉にしたところで、伝わるものなど何もない。
「アレンは、凄いんだよ。夏準は、格好いいんだよ。二人とも、本当に、本当にラップが大好きで─」
「だから知らねえってんだよ! っつーか─」
その観客からすれば、いい迷惑だった。だから彼には文句を言う権利があったし、見も知らぬ人間に食って掛かられたのだ。だから、そう言う権利もあっただろう。
「─お前、誰だよ」
「僕は」
その一言が、アンを刺した。
それはずっと、自分で自分に問い続けていた言葉だったから。
アンの中のアン自身が、探し求めていたことだったから。
そして、はじけた。アンの中に溜まり続けた鬱屈としたものが、限界まで膨らんだ風船のように、その言葉の針で、破裂した。
「僕は……」
次の瞬間には、アンは、ステージへと飛び乗っていた。
自分の中の自分が「示せ」と叫んでいた、自分が誰だか。どう生きるのか。今示さなきゃクソだと言っていた。その瞬間、時間が止まったかのようだった。
突然の乱入者。
アンを知らぬ人々も、アンを知っている二人も、一瞬、目を奪われた。鮮やかな長いウイッグをなびかせて、スカートから長い脚を躍らせて、アンはステージに立った。
カン、と、高いヒールの音が、狙ったようにトラックのビートに重なった。
「僕は─!」
アンはもう、うんざりだった。
何も知らないくせに。誰も知らないくせに。アンが好きな人々のことを、アンが好きなもののことを、何も知らないくせに。好き勝手言われることが、もう我慢ならなかった。
お前は誰だ。僕は誰だ。
らしくない自分は、もう嫌だ。
アンは、驚いたままのアレンから、マイクをひったくるように奪い取った。
そして、唱えた。
「─僕は、アン・フォークナー! それ以外の、何者でもない!」
ただの自己紹介。それが綺麗に、トラックのリズムに乗った。
それがラップである条件はなんだ? 韻か? 歌い回しか? たぶん何方でもない。
自分を証明する。世界に証明する。その意志が音に乗ったなら、それがアンの、人生で最初のラップだった。
そして三人が最初に、一つの音を共有した、最初のラップだった。
アンの口から、言葉が溢れた。用意してきたリリックはない。韻を踏むテクがあるわけもない。ただトラックの音を聞いて、感じるままに、言いたいことをぶちまけた。
「─小手先のラップに用はない! 見たい物は、そんなんじゃない!」
不思議な現象だった。本来そこにあるはずのなかった、アンの声とラップは、まるで欠けたピースが溶けこむように、そのステージにハマった。
アレンとも違う、夏準とも違う─フェミニンで、滑らかに伸びる声。けれどなぜか、アレンと夏準と、同じバイブスを放つ声。
誰も知らないなら聞かせてやる。音楽で、世界に自分を証明する。
なるほど、確かに、こういうやり方も悪くない。
アンは肺の中身を吐き切るように、渦巻く心を吐き出すように、言葉を紡ぐ。
「─君たちは誰だと、僕が聞きたいんだ!」
そのバースとともに、マイクが投げ返された。
拙いリリックだったはずだ。けれど、十分だった。
アレンは一瞬、頭を強く揺らされたようだった。けれど、それは心地よい衝撃だ。突然の乱入には驚愕した。けれどそれ以上に……魅了された。
滑らかに、しかし強く響く声。鬱憤を音と言葉に乗せて表現に変え、世界に対して反撃するようなラップ。それはアレンの心を打ち、〝HIPHOP〟を思い出させた。
残響するアンのバイブスは、その名残を宿したマイクごと、アレンが受け取った。一瞬の間、アンを見つめ……そして、微かに微笑んだ。
「サンキュー、アン。目が覚めた」
たった一言。ラップとは関係ない言葉。余計な棘が、声から抜けていた。
そこからは、ステージの景色が変わった。
〝アレンのラップ〟が、炸裂した。
半端なアドリブが失敗に繫がったなら、〝まるごと新しいラップ〟を生み出せばいい。
用意してきたリリックなど、その場で全部捨てていた。紡がれる言葉はアンのバースへのアンサー。
俺はこうだ。お前はどうだ。
譜面通りのルーティーンをたどるのは、もはや無意味だ。
力強い声が本来の魅力を取り戻し─それどころか、むしろ加速していた。拍手のようなビートに、キレのあるフロウがよくノった。それは焦りも強がりもなく、その場にいる仲間と〝音〟を〝楽〟しむだけの、純粋な音楽。
バトンのように、マイクが夏準に回った。「できるだろ?」「魅せてやれ」そんな言葉が伝わったようだった。
「─本物を教えてあげますよ」
途端、アレンの力強い空気を纏ったまま、〝夏準のラップ〟が躍った。
あろうことか夏準は、ミスをなぞるように、わざとトラックとリリックのリズムをずらして、それを演出に落としこんでみせた。定石破りの変則フロウ。フリースタイルのアドリブが、日本語と韓国語を織り交ぜ、切り刻むような韻を踏んだ。
自分のミスすら皮肉るようにリリックに取りこんで、シニカルでサディスティックな魅力を存分に発揮する。それでいて、独りよがりじゃない。共に歌う。攻撃的な夏準のラップが、アレンから継いだ音のニュアンスを織り交ぜて、洗練されていく。
マイクは再び、アンへ返った。
アレンのフロウと、夏準のライムを受け取って、アンのラップはより洗練されていった。
トラックに任せ、パッションに任せ、自然と言葉を紡げばそれがラップになった。次々にマイクを回して、前のバースへアンサーを続ける。それはライブというより、リレーの様相だったが、不思議と一つの曲になった。
「届かせる声─」「─音の向こうへ」「우리들의 노래─」「─Just go ahead」「限界超えて─」「─遠雷の果て」「ココロ重ねて─」「─此処で輝け」「─誰よりも─」「─誰よりも─」「─誰よりも─……」
次々と言葉が生まれた。欠けたピースが埋まったようだった。
まるで最初から、三人のための曲だったかのように、一つのバイブスがステージを支配した。アレンと夏準の声を、アンの声が繫いでいた。
そしてとうとう最後のフック。三人の声が重なった。即興のはずのステージで、まるで通じ合ったように、一つの言葉が結びの詞となった。
それ以外の言葉はないと、三人が確信していた。
「「「─誰よりも先に!」」」
圧倒した。反響した。初めての手ごたえがそこにあった。
ブーイングはいつしか消えていた。
屋外ステージの光の中で、三人の影が幻のように踊った。
空気は弾み、全てが音になった。鼓動はビートになって、呼吸はパーカッションになった。全てが音になった。全てがHIPHOPだった。
トラックが止んだ時─その後の無音を、自然に歓声が満たした。理屈ではなく、客席に沁みこんだ音が形を変えて跳ね返ったように、拍手が返ってきた。
その瞬間、確かに世界は、三人だけのものだった。
「─優勝者は……チーム〝Dam.D.AM〟!」
結果─アレンと夏準のチーム〝Furthermore〟は、アンのステージ乱入による規定違反もあって〝審査対象外〟という扱いになった。
「まあ、当然ですね。ハプニングですから」
「ごめんね、二人とも。僕が勝手なことしちゃってさ」
「そう言いながら、実はあんまり後悔してないだろ、アン」
「もちろん。だって気持ち良かったからさ」
結果に文句は無かった。
アレンにも、夏準にも、アンにも、後悔はなかった。やりきった、やってやった、という気持ちが胸を満たしていた。
「よう」
そんな調子で、ステージ袖を後にしようとしていたアレンたちに、審査員の一人が声をかけた。アンすらも顔に見覚えがある、著名な幻影ラッパーだった。
「君たちのステージ酷かったな。メチャクチャじゃないか。あれじゃ優勝どころか点数もやれやしない」
「知ってるよ」
アレンはぶっきらぼうに返した。ケンカを売りにきたのかと、文句の一つでも続けてやろうかと思ったが、「だが─」と相手が言葉を続けるのを聞いて、止めた。
「正直キいたよ。HIPHOPってのがなんだったのか思い出した。……名誉も賞品もやれないが─あの歓声は、君たちのものだ」
それだけ言って、その審査員は三人に背を向けた。
しばし啞然とするアレンたちの耳に、会場の歓声が響いてきた。優勝者を讃える声ばかりだ。けれど、あのステージの最後、確かに自分たちもあの歓声を耳にした。
「今のさ……褒められたってこと?」
「……いや。あれで喜んじゃダメだろ」
「あんな上から目線の評価では、満足できませんからね」
「……ははっ。だよね、そうこなくっちゃ」
笑いながら去っていく三人を、先ほどの審査員が、ステージ袖から見つめていた。微笑ましさと……微かに複雑な感情を織り交ぜた表情だった。
その様子を見て、スーツを着た男が声をかけた。
「どうしました。気になるチームでもいましたか?」
「いいや、青いヒヨッコを見て和んでただけですよ。アルタートリガーさんがチェックしとく程じゃあないでしょ」
「そうですか。……まあ良いでしょう。今回の優勝者はそれなりに有望そうです。あとは今日得た〝栄光〟という後ろ盾で、どこまでムーブメントに貢献してくれるか……」
「熱心ですね。アンタたちが何しようとしてるのかは知りませんけど。……カネ儲けだけってわけでも、ない気がするんですがね。……あんな機材トラブル、普通ないでしょ。あからさまに無様な〝ビリ〟を作ることは、トップの輝きをいっそう際立たせる……なんて、俺の考えすぎですかね」
「貴方がたラッパーが知る必要はありません。無意味な邪推などせず、どうぞ今まで通り、幻影ライブでシーンを盛り立ててください」
それだけ告げて、スーツの男も去っていく。
審査員の男は、その背を見て苦い顔をした。有望な才能を発掘するという今回のイベント自体は、楽しいものだと思う。しかしアルタートリガー社がスポンサーについていることには、ひっかかるものがあった。
「もう勝手に育っていくブームをさらに加熱させて、何がしたいってんだか。……まさか武雷管の再来でも期待してんのかね。確かに幻影ライブは流行ったが、あの絶頂時代はもう、な。CLUB paradoxだって、とっくに無いってのに─」
─まだ体の中に、熱が残っていた。
今までに経験したことのない熱さだった。鼓動と一体化したようなビート。脊髄から湧いてくるようなライム。釘付けになる人々の視線。嵐のような歓声。
全てが未知で、強烈だった。
その正体は、世界に〝刻んだ〟という手ごたえだ。自分たちの音が、誰かに響いたという確信。表現者だけが味わえる、無二の絶頂。けれど、結果は負けに変わりない。確かに歓声を上げさせた。失格であっても、オーディエンスは沸かせた。
でも、だったら……勝者は?
頂点に立った者には、いったいどれほどの熱が与えられるのか。
そう考えてしまったら、もう戻れない。音楽は一人でも楽しめる。けれど誰かと共有し、競いあう。そういう世界の熱さを知った者は、もはや虜だ。
Dope─HIPHOPにおいては、格好いいとか、イカすとか、そういう意味合いで使われる言葉。しかしながら、その語源を考えるならば─こう表現するべきだろう。
もう、〝病みつき〟だった。
だからライブに飛び入りしたその日の夜、アンは久しぶりに母親とケンカをした。
髪を切るどころか、長いウイッグを着けたまま帰ってきたからだ。どうしても、もう偽りの自分ではいられなかった。
それでスカっとするわけでもなかった。母は泣いたし、自分の心も荒れた。家族は家族だ。何も傷つけあいたかったわけじゃない。ただ、分かってほしかった。けれど─分かり合えないということを確認するのも、きっと、必要な一歩だった。
それから、心も身支度も、きちんと準備を整えて……高校を卒業したその日、アンは母の住む家を出た。
「……─さよなら、ママ」
苦しみも懐かしさも、どちらも籠もる家の扉に別れを告げて、アンは自分の足で歩きだした。行先は決まっている。
キャリーバックを引きながら、新しい季節に芽吹く木々を横目に、春の風の中を、長く伸ばした髪をなびかせて歩いていく。
やがて、待ち合わせ場所に選んだ広場へたどり着く。
そこに、アレンと、夏準がいた。
「ハーイ、お待たせ」
「結局、アンも一緒に住むんですね……」
「とか言って、夏準も一緒に空き部屋片づけたじゃないか」
「つか、僕必要でしょ。生活的にも、チームとしてもさ?」
「意外と使えることは間違いないですね」
「相変わらず可愛げないなー、夏準は」
くすくすと笑うアン。まだどこか斜に構えた笑顔の夏準。
アレンだけが妙に真面目に、何やら咳払いしている。
「どうしたんですか、アレン」
「え、もしかして僕の加入、不満?」
声をかけられて、少し間があって、気づいたようにアレンは顔を上げた。
「いや、実は三人なら、チーム名変えようと思って……今日までに考えてきたんだ」
「良いですね。今までのボクたちと同じじゃあないんですから」
「何かある? 僕今のままも良いと思うけどな、〝もっと先へ〟……」
「いや、もっと俺たちに相応しいのがある」
そして、ラップをするのと同じように、真剣に考え紡いだ言葉を、アレンは高らかに口にした。それが、彼らの名前になった。
「俺たちは─〝BAE〟だ」
「………〝BeforeAnyoneElse〟……〝BAE〟。あれから、ずいぶん経ったよね、ほんと」
散らかった部屋の中、かつてアレンに贈ったその服を手に、アンはしみじみと呟いていた。その一瞬の呟きの間に、ずいぶん長い記憶の旅を終えたような気がした。
でも、全てを思い返した時、胸にあった思いは……懐かしさではなかった。
「ねえアレン、夏準」
アンは振り向き、そのジャケットを広げた。
初志を象徴するような、その褪せてなお鮮やかな色のジャケットは、御旗のようだった。
「僕たち、まだまだ止まれないよね」
「当たり前ですよ」
夏準が、肩をすくめて笑った。
「アレンの言う通り、結局負けました。武雷管への挑戦権すら勝ち取れなかったんです。このままじゃ、〝BAE〟の名折れでしょう?」
「ああ、そうだ」
アレンが、力強く頷いた。
「Paradox Liveが終わっても、俺たちのラップが終わるわけじゃない。まずはcozmezだ。新しい王冠を勝ち取ったあいつらを超えて、武雷管も超えて……そしていつか必ず、俺たちの音で、誰も見たことのない、もっと高い場所に行ってやる」
「うん、僕たちのHIPHOPで」
「ええ、ボクたちのラップで」
「俺たちの音楽で、俺たちを証明する」
「「「─きっと、誰よりも先に」」」
Paradox Liveは一応の決着を見せた。けれど三人は……BAE。その名前に込められた意味を、未だ見失っていない。まだまだ終わらない。まだまだ満足できない。きっとこれからも、ラップを続けていく。ずっとこれからも、走り続けていく。
いつか誰の背も追い抜いて、一番先頭に立つために。
BAE─その名にはそういう意味が込められている。
……けれど、それはあくまで直訳だ。スラングとしては、実のところ、もっと別の意味がある。
─〝一番大切な人〟。
志をまた、確かめ合った三人。自分たちの名の意味を、再び唱えた三人。
けれど彼らはきっと、その名の持つもう一つの意味も……今も大切に、胸に抱き続けている。
同じバイブスの中で生きる限り、これからも、ずっと。