BACK

 夢の中では覚えてるんだ。ずっと音符の中に居てくれたこと。

 影で染まるビルの向こうから、金色の光が射している。
 空は街の方から茜色に燃えて、宇宙の透けた紺色にグラデーションしていく。蹴り上げたボールが光を受けて、せっかちな月のように落ちてくる。
 スニーカーの底を鳴らして、落ちてくる月を追いかける。〝おうち〟の庭は世界に比べれば狭いが、子供が駆けまわるには十分に広い。つま先でボールを受け止めて、蹴り上げたら再び月が昇る。そんなことを繰り返す。
 土埃の香り。遠い車の音。他の子どもたちの笑い声。庭に落ちる影は長く長く伸びて、やがてその影が全てを塗りつぶしたら、その日も夜がやってくる。
 そして、いつの間にか闇に包まれた世界から、別の光がやってくる。おうちの窓から射す明かりの中、あの声が聞こえてくる。

 振り返ればそこにいる。
 淡い色の髪が明かりに透けて、太陽によく似て輝いている。
 夢の中の少年は、弾んだ声で呼び返す。
「けい兄!」
 御山京。
 たった一人の兄の名前。世界で一番大好きな音。
 満天の星が顔を出し、街の明かりも色とりどりに煌めいている。暖かなおうちに漂う夕飯の香りに、子供たちが賑やかに騒いでいる。京に優しく手を取られ、穣もその賑わいの中に帰っていく。隣で笑う京の笑顔が、夜の世界を真昼のように照らす。照らされた世界は鮮やかに、幸せな記憶となっていく。
 世界は数多の色に溢れ、無数の音が穣を包んでいる。
 ぱちん。
 白い光が瞬いて、静けさがやってくる。
 御山穣の夢は、いつもそうして終わりを迎える。

 施設の名前を、穣は覚えていない。
 ただ、暮らしていた子供たちは皆〝おうち〟と呼んでいたから、倣ってそう呼んだ。たしか三十人前後の子供たちがいて、殆どは小学生くらいの年齢だった。
「ちぇ、負け越しかぁ。今日は穣のシュートにやられたよなぁ」
 外履きのスニーカーを脱ぎながら、短髪の少年が言う。穣は嬉しそうに、グーで自分の頬を軽くこすって笑う。
「あは、すごいでしょ。オレの必殺シュート! 名付けてスーパーシュートクリーム!」
「はぁ、独特すぎる名前だけど、どの辺がクリームなん?」
「こないだオヤツに出たシュークリーム美味しかったから、そこから名付けた!」
「や、わかんねーわそのセンス。でも強いもんなー。穣、明日はオレとチーム組んでよ」
「いーよ! じゃあ伝授しちゃうかな~、スーパーシュートクリーム」
「マジで? やった。でも名前別のにしない?」
 玄関でワイワイ駄弁っていると後が詰まるので、大人たちにやんわり促される。
 子供たちの世話をする〝先生〟と呼ばれる大人たちは十人に満たない。彼らに見守られながらおうちへ入ると、真っ先に食堂へ向かおうとして京に止められる。
「穣、ちゃんと手を洗わないと」
「はーい!」
 返事だけは元気にするけど、蛇口の水にザバザバ手をさらして手洗いを終える。廊下まで漂ってくるカレーの香りに、体が勝手に急いでしまう。
 駆け出そうとする服の裾を京に掴まれて、穣はしぶしぶ石鹸で手を洗いなおす。それも結局雑なので、京が手を添えて洗うまでがいつもの流れだ。
「けい兄~、早くいこうよ。ご飯なくなっちゃうよ~」
「なくならないから大丈夫。ほら、ちゃんと爪も、指の間もしっかり洗って」
「サッカーだったから足しか使ってないもん」
「だーめ。穣、からあげカレーの日だからって急ぎすぎ」
 口を尖らせ、もどかしげにパタパタ足踏みする。けれどこうして京にお世話してもらうのが、穣はとても好きだった。
 手洗いを終えると、小走りで食堂に向かう。
 六人掛けのテーブルがいくつも並んでいて、それぞれに違う柄のテーブルクロスがかかっている。穣と京の定位置は壁際のテーブルで、クロスの柄がピアノの鍵盤になっているのがお気に入りだった。
 近くの壁にはコルクボードがあって、そこに「おうち」の子供たちが作った工作や絵が飾ってある。先週描いたクレヨン画は、先生にも褒められた穣の自信作だ。けれど京の描いた色鉛筆の絵のほうがもっと褒められていた。京はよく先生に褒められる。ちょっぴり悔しいけど、穣にはそれ以上に嬉しさが勝る。
 しかし京の絵の右隣にある、折り紙の犬を見るのは心が痛む。穣が友達とじゃれて遊んだ時に引っかけて破いてしまい、それを作った女の子に泣かれてしまった。その時は穣も泣きながら、京に手伝ってもらって、どうにかセロハンテープで直したのだ。幸い仲直りはできたものの、まだ新鮮な苦い思い出だった。
 食事は一人分ずつトレーに用意されて、その日は具の控えめなカレーに大きな唐揚げがふたつ。小鉢にキャベツのサラダ。デザートにカットりんご。ごちそうだ。
「からあげカレー……!」
 マンガみたいによだれが出そうになるのを、穣はなんとか我慢する。
 みんな揃って「いただきます」するまで、目の前で立ち上るカレーの香りを前に、おあずけを食らった子犬のようにソワソワする。その様子を京がクスリと笑うので、わざとらしく背筋を伸ばしてみたりする。
 待ち時間の間、テーブルクロスに描かれた鍵盤を指でたたく。タタン、タン、タタン。リズムは「ねこふんじゃった」をなぞる。
「穣のピアノ、すごく上手になったよね」
 隣に座る京の眼差しは暖かい。穣は歯を見せて満面の笑みで返す。
「えへへ、ほんと? けい兄には敵わないけど」
「そんなことないよ。一緒に弾けるようになって嬉しい」
「オレも嬉しい、けい兄といっしょ」
 ふふ、と互いに笑い合う。幸せな時間。けれど長くは続かない。
 食堂に人が増えて行くにつれて、少しずつ京の顔が曇っていく。こめかみを強張らせ、何もない口の中を噛むような仕草が増える。
 ハッと気づいて、穣が手を上げる。すぐ傍にいた男の先生が近づいてくる。
「穣くん、どうしたんだい?」
「先生。けい兄が」
「ああ……そっか。京くん、今日はダメそうかな」
 屈み、目線を合わせてくる先生に、京は耳を塞ぎながらこくりと頷く。先生は他の大人に目くばせをし、京を立たせると、カレーの載ったトレーを持って食堂の外へと連れて行く。穣もトレーを持って、後をついていく。振り返った京が申し訳なさそうにする。
「穣は良いよ。みんなと一緒に、ご飯食べて」
「ううん。オレ、けい兄と一緒がいい」
 それ以上のやりとりはしない。
 静寂に包まれた廊下を、先生と京と穣、三人で歩いて行く。
 暖かな気配を感じる背後から、大勢の声で「いただきます」。お調子者の子たちが、元気よく手を合わせる音が聞こえる。
 ぱちん。

「ごめんね、穣」
 防音の効いた部屋の中だから、京の声がはっきりと届く。
 〝おうち〟には、養護施設としてはしっかりした音楽室があって、普段は子供たちが思い思いに使っているけれど、時には京の避難所となっていた。この頃、京の鋭敏な聴覚は今以上にデリケートで、日常の雑音に被る苦痛も大きかった。
 穣もそれを承知していて、京が音楽室に籠る時にはよく一緒に付き合っていた。
「なにが? オレ、ここでご飯食べるの好きだし」
 半分以上は本心で、穣はそう答える。ほんの少しだけは、賑やかな食堂が恋しい気持ちもある。その気持ちより、京の存在が大きいだけだ。だからあまり、申し訳なさそうにはしないでほしい。
 机を一つ食卓にして、二人だけの晩餐を始める。
 穣は手を合わせて、カレーの上に載った大きな唐揚げをひとつ掬う。カリっと揚がった表面をかじれば、ジューシーな腿肉の歯ごたえと、鶏の味が口の中に広がる。
「んーまぁーい!」
「穣は本当に、からあげ好きだね。良かったら、僕のも食べる?」
「え、いーの!? こんなに美味しいのに!?」
「うん。僕はすぐお腹一杯になっちゃうから。残すよりは、穣に美味しく食べてもらったほうが、からあげも嬉しいかなって」
「そっかぁ……! じゃあじゃあ、けい兄とからあげのため! いただきます!」
 大きな唐揚げを幸せそうに頬張る穣。その姿を見守る京の表情も、負けず劣らず幸せそうにほころんでいる。控えめに掬ったカレーを口に運んで、京は穣に話しかける。
「穣、今日は大活躍だったんだって?」
「逆転シュート決めたからね。オレ、エースストライカーなんだ」
「凄いな。穣は将来、サッカー選手になれるかもよ?」
「うーん、確かにミリョクテキだよね、サッカー選手。でも、やっぱり消防士さんがカッコいいからな~」
「ふふ。ずっと憧れてるもんね、消防士さん。こないだ皆で見た働く車の動画も、消防車に釘付けだったし」
「だってけい兄。あれはフツーの消防車じゃないんだよ? スーパーポンパーっていう、超カッコいいやつなんだよ? ハイパーレスキューっていう人たちが使うの。専用ロボみたいで憧れる~!」
 地区の防災訓練で放水体験をさせてもらってから、穣はすっかり消防士に夢中だった。赤くて大きな車も、銀色の服も、特殊チームの名前もカッコいい。
「なれるよ。穣ならきっと、凄く格好いい消防士さんに」
「えへへ、そうかなあ。けい兄は? 将来なりたいもの、できた?」
「うーん、なかなか思いつかないな」
「けい兄ならさ、音楽家になれると思うんだよね。ピアニストとか、作曲家とか」
「確かに音楽は好きだけど、仕事にできるかな……」
「じゃあ、いっそアイドルとかどう? かっちょいー衣装着てるけい兄見たい!」
「えっ。……ぼ、僕にあんなキラキラしたの、似合わないよ?」
「あっ、まんざらでもなさそうな顔してる~!」
「してないよー……!」
 恥ずかしがる京を、穣がニコニコして少しからかう。それから少し間を落ち着けて、改めて穣が質問する。
「じゃあじゃあ、他にないの? なりたいもの」
 スプーンの持ち手を指の腹で撫でながら、京は困ったような、恥ずかしいような笑顔を浮かべる。
「一番なりたいものには、もうなれてるからね。ずーっと前に」
「え、どういうこと? けい兄、何になれたの?」
 きょとんとする穣の顔を見て、京が笑顔の目を細める。
「穣がこの世に生まれてくれたから、僕はお兄ちゃんになれた。それだけで幸せすぎて、満足しちゃってるみたい」
「……けい兄~!」
 思わず涙がこぼれて、カレーの味が少ししょっぱくなった。穣はスプーンを置くと京のもとに寄って、ぎゅう、と抱きしめる。
「けい兄、食べ終わったら一緒にピアノ弾こ。オレ、こないだの曲ちゃんと弾けるようになりたい」
「トロイメライだね。いいよ。穣なら、今日は上手に――」
「違うよ! けい兄が作ったやつ!」
 京は目を見開いて、それからはにかんだように頬を染めた。
「あれは、気分のままに作っただけの曲だし……楽譜もなんとなく書いただけだし。上手に弾けなくても」
「ううん。オレ、あれが弾きたい。けい兄の作った曲が一番好きだもん。あれって、オレたち兄弟二人で弾けるように、考えてくれたんでしょ?」
「穣……」
 涙がこぼれそうになる瞼を、京は微笑みで閉じる。
「わかった。それじゃあ今日はあの曲をちゃんと完成させよう。二人で」
「うん! 一緒に弾いて、一緒に作ろう」
 空になったお皿を片づけて――京が食べ切れなかった分は穣のお腹に収めて、向かい合って食事をしていた二人は、隣り合ってピアノに並ぶ。
 譜面をなぞり、京の白く細い指が鍵盤を叩けば、穣の指が音色の後を追う。時折指を止めて、穣が感じたことを口にして、京が譜面に書き込んでいく。それは兄弟二人だけができる、五線譜の上のかけっこだった。
 外の世界が邪魔できない二人だけの音楽を、青い月が静かに照らしている。沈むことを惜しむように。夜が明けることを惜しむように。
 二人の日々が巡ることを惜しむように、子供たちの夜はゆっくりと更けていく。決して時間を止めることは出来ないと、どこか嘆くように瞬いて。
 ぱちん。

 事務室の風景は、〝おうち〟のどこよりも灰色に見える。
 先生の机は中央に小さなノートパソコンが置いてあって、仕切りのついたペン立てには、文房具が窮屈そうに捻じ込まれている。ブックエンドの間にはぎゅうぎゅうと本が敷き詰められ、平積みされた書類が天板の上を占め、どこで字を書くのか不思議だった。
 先生は積まれた書類の束の中から、崩さないようにクリアファイルを一枚引っ張り出して、穣に見せた。
「こんくーる?」
 穣は微妙にピンと来ていないイントネーションで返す。
 先生が糸のように目を細めて頷く。人の良さそうなその男性は、何人もいる先生たちの中でも、特に御山兄弟を気にかけていた。音楽の心得があって、兄弟にピアノを教えたのもこの先生だった。
「そう。穣くん、最近ピアノがめきめき上達してるよね? こういう場所で、腕試しをしてみるのはどうかなって」
 渡されたパンフレットには、随分立派なホールの写真が載せられている。穣に詳しいことは分からないが、どうも楽しい発表会というレベルには見えない。普段、音楽室で楽しく弾くピアノと、スポットライトに照らされたグランドピアノは全然違う楽器に見える。
「うーん……」
 穣はちらりと窓の外を見る。遊ぶ約束をしていた他の子どもたちが、既に庭でボールを蹴り始めている。その中に京の姿はない。音楽室でピアノを弾いているのだろう。
 穣は首をかしげながら、先生を見返す。
「なんで? そういうの、けい兄のほうがよくない?」
「ああ……もちろん京くんにも勧めたんだけどね。やっぱり、雑音の多いお外に行くのが心配みたいで」
「そっか……」
 京の耳の問題を理由にされれば、穣は納得した。音嫌悪症――大人たちは京の症状にそういう病名をつけたが、穣はいまいちピンと来ない。
 穣からしてみれば、京はただ、綺麗な音を愛しているだけだと思う。人より多くの音が聞こえてしまうから、雑音の中では疲れてしまう。だけどその分、綺麗な音に寄り添うことができる。ただそれだけのことを、病気だとか才能だとか、そう呼んでいる。
 呼び方をどう変えたって、京を取り巻く現実は変わらないけれど。
「でもなあ。オレあんまり自信ないよ。けい兄のほうがずっと上手なんだもん」
「そんなことないよ。先生が聴く限りでは穣くんだって、すっごく上手だ。コンクールに出たって、何も恥ずかしくないくらいにね」
「そうかなあ……」
「楽譜もしっかり読めるし、その通りに弾く技術だってある。何より、穣くんはその曲がどんな世界観を表現したいのか、汲んで演奏できる感性がある。先生が保証するよ」
 先生がそんなに自分を買ってくれているとは、穣には少し意外だった。やはり先生も、どこか京のほうを評価していることを、穣はうっすら感じていた。穣も褒めてくれなかったわけではないが、ここまでベタ褒めされるのは初めてだったからだ。
 実際のところ、穣だって本当に自信がないわけではない。引っかかっているのはやはり、京を差し置いて選ばれる後ろめたさだ。それをきちんと読み取って、先生は言葉を選んでいる。
「それにね、穣くん。これは京くんのためにもなると思うんだ」
「けい兄の?」
「そう。京くんは雑音に敏感で、なかなかお外には出ていけないだろ? だけどいつか、君たちも大人になって、このおうちを巣立つ時が来るよね」
「うん。……たぶん?」
「音楽は、外の世界と君たちを繋いでくれる手段になる。いつか京くんが音楽の力で生きて行こうとしたとき、今回の穣くんの経験が助けになると思うんだ。きっとね」
 誰よりも京のことが好きで、誰よりも京の凄さを知っている穣に、それは極めて冴えた提案に聞こえた。
 活発であった穣は、自然と皆の輪の中で生きていられた。明るい性格も運動神経の良さも、穣を取り巻く世界に歓迎されていた。対して、決して皆が京を疎んでいたわけではないが、その体質のせいで、蚊帳の外に居ざるを得なかったのは確かだ。
 せめて、京と共に育んだ音だけでも、広い世界に歓迎されて欲しい。もし穣のピアノが凄い賞を取って、「でも、けい兄の方が上手なんだよ」なんて言えたら、どれほど素晴らしく、誇らしいか――。
 大舞台で眩しい光を浴びながら、京と練習したクラシックを奏でる。想像するだけで、穣の胸は躍る。スタッカートで弾む鍵盤のように、心が鳴った。
「わかった。先生、オレ、コンクール出てみるよ」
 穣の笑顔に、先生は今までで一番嬉しそうな笑顔を向ける。差し出された穣の手に、バトンのようにコンクールのパンフレットが手渡された。
 ぱちん。

「ピアノコンクールに出るんだね」
「うん」
 京が隣で、首を小さく傾ける。おやつの時間の後、天気が良いから子供たちの大半は外に遊びに行って、遊戯室は静かだった。今日はサッカーも無かったし、京と話がしたかったから、穣は室内で遊んでいた。
 遊戯室には1ピースが両手ほどはある大きなブロックがあって、人気のおもちゃだったのだけど、その日は人が居ないから沢山使えた。穣はブロックで囲いを作り、一緒に置いてあったジョイントマットを繋げてカーペットにして、子供が二人すっぽり収まる秘密基地をこしらえた。
 その秘密基地の中で、穣は京にコンクールの話をした。他の皆には話したのに、京に伝えるのが遅れたのは、やっぱり少し後ろめたかったからだ。穣は膝を抱いて、口元を隠しながら告白する。
「ショージキ言うと……オレで良いのかなって思うんだけど」
「何言ってるの。穣はピアノ、すごく上手だよ。皆に聴いてもらおうよ」
 京は小さな秘密基地の中で体を寄せて、笑顔で穣の頭を撫でた。嬉しいけれど、穣は口を尖らせて「でもさ」と続ける。
「引き受けちゃったけど、やっぱり凄くキンチョーするんだよね。誰かの前で一人で弾いたこと、あんまりないし」
「でも先生が、穣が良いって言うんだから。きっと先生から見て一番上手だったんだよ」
「けい兄、自分をカウントするの忘れてそう。誘われたんでしょ?」
 穣は口を尖らせる。京はぱちぱちと瞬きして、目を丸くする。京は音楽が好きで、とても優れた才能を持っていたけれど、技術が優れているとかいないとか、そういう所にはあまり興味がなさそうだった。
 京にとって音の良し悪しは、もっと漠然として、心に従っていたのだと思う。
「曲は?」
 京は穣の顔を覗き込むように、小首をかしげて尋ねる。
「おうちにある楽譜の中で、穣と一緒に弾いたのだと……ショパンかな。定番だろうけど、子犬のワルツなんて、凄く穣らしくて良いよ」
「ねー、オレのこと犬っぽいって言ってる?」
「穣がボールを追いかけて走ってる時は、よくあの曲が頭の中に流れるんだよ」
「やっぱ犬っぽいって言ってるじゃん! わんわん!」
 穣が吠えながら、噛み真似をして京にじゃれつく。くすぐったそうに笑う京と揃って、秘密基地の中で転がる。
「あはは。じゃあ他には……ブルグミュラーも良いと思う。おやつを食べてる時の穣は、タランテラのメロディーがぴったりだよ」
「うーん、あれもタランチュラっぽくて好きだけど」
「タランチュラっぽくはないよ……?」
「そうじゃなくて、オレもう弾きたい曲は決めてるんだよね」
「そうなの? なになに、教えて?」
 京が目をキラキラさせて尋ねて来る。そういう顔を見ると、穣は京のことを、本当に音楽が好きで、本当に穣の事が好きなんだと感じて嬉しくなる。穣はブロックで出来た壁の継ぎ目をなぞり、少し照れ臭そうに告白する。
「あのね。オレ、あの曲が弾きたい。けい兄の作った……」
「……えっ」
 京は、ぽかんと口を開けた。
「そんな。もっとちゃんとした曲が一杯あるよ」
「だって、コンクールって皆で競うんでしょ。皆、一番良いと思ってる得意な曲を演奏して、一番良い音を選ぶんでしょ。だったらオレ、あれが良い」
 穣はちらりと、伺うように京を見て。
「……オレ、けい兄の音を連れて行きたい。そしたら一人でコンクールに出ても、二人一緒だもん。オレのピアノとけい兄の曲、どっちも凄いって見せて来るんだ」
 それを聞いて、京は今度こそ時間が止まったようだった。
 たっぷり数秒はかけて、京の瞳が潤うのが見えた。それから京は穣のほうに体を倒して、ぐしぐしと髪と髪をすりつける。
「あは、けい兄のほうが犬っぽいよ」
「そうだね……うん、そうだね」
 二人そろって頭を傾け、互いに髪をすり合わせた。内緒話をするみたいに声を殺して、くすくすと笑った。
「あの曲の譜面、コンクールまでに一人用に直すよ。たぶんできると思う」
「ほんと! やった、けい兄大好き!」
「うん、僕も穣が大好きだ。世界で一番、大切なんだ」
 そうしてじゃれ合っていると、ふと視線を感じた。顔を上げれば、いくつもの笑顔があった。ブロックで作った秘密基地には屋根が無かったから、丸見えだった。
 サッカーをしに行ったはずの子供たちが帰って来ていて、ニコニコと御山兄弟を見つめていた。その中で、まず短髪の少年が口を開いた。
「邪魔してごめんな、京。でも俺たちも、お前と穣を応援したいんだぜ」
「みんな……」
 声を上げる京を見て、前髪を真っ直ぐにそろえた少女が続ける。
「私たちのおうちから、凄いピアニストが出るかもしれないんでしょ? 私、二人ならできると思う。このおうちで一番仲良しの二人だもん。頑張ってね」
 穣と京は一度お互いの顔を見て、ぱちぱちと瞬きしてから、皆に向き直って頷いた。
 あの頃、京は皆の輪に入るのが難しい体だった。けれど、穣の存在が京と皆を繋いでいた。だから多分、あの〝おうち〟は幸せな時間だった。二人の笑顔の場所だった。
 穣はそこから、光の下へと羽ばたいていくのだ。
 大好きな兄と、背中を押してくれる家族の期待を背負って外の世界に飛び立てたら、それはとても素晴らしい事だと信じられた。
 それはよく晴れた日だったと思う。太陽は燦々と煌めいて、風は強く吹いていた。
 窓の外には小鳥が飛んでいた。群れからはぐれた渡り鳥の、若い一羽だった。好奇心の旺盛なその一羽は、どこからか迷い込んできた風船と戯れながら、深い青空を高く羽ばたいて、不意に風船の割れた音に驚き、高架線へと落ちて行った。
 ぱちん。

 目を開いたとき、穣が見たのは真っ白な天井だった。
 知らない部屋だった。天井も、壁も、シーツも、穣の着ている服すらも漂白されたように真っ白だった。入口は一つ。窓はなく、鼻孔に吸い込む空気は乾いていて、消毒液のようなツンとした香りが混じっている。
 戸惑いはあった。けれど頭の奥にぼんやりとモヤがかかったようで、視覚から入ってくる情報が、上手く心に結びつかない。こめかみから目の奥にかけて、杭を刺したような鈍い痛みがあって、身体を起こそうとすると随分と重く感じた。
 真っ白な部屋の中に、一点の黒が見えた。数秒して、それが人であることに気が付いて、穣は戸惑いながら声をあげた。
「……けい兄?」
 人影が振り向く前から、穣は気づいていた。京とはまるで別人だった。
 薄暮の空色の黒髪に、煌々と映える金の瞳は明星のようだった。或いは黒猫を思わせるその少年は、手に持っていた本をパタンと閉じてから、穣に視線を向けた。
「起きたか。NO6
 黒髪の少年の声に、穣は戸惑った。
 無言の時間が数秒あった。きょろきょろと部屋の中を見渡して、穣が恐る恐る自分を指さすと、少年は静かに頷いた。その無機質な番号が、自分を呼んだものだという実感は無かった。穣はその実感が追い付いてくる前に、自分の名前を口にした。京と同じ苗字と、京が愛情をこめて呼んでくれる名前を合わせたフルネームで名乗った。
「オレ、穣だよ。御山穣」
「そう。じゃあその名前は忘れろ。今日からその名前で呼ばれることは、もうない」
 淡々と告げられる。冗談を言っている風ではない。頭痛が引くにつれて、穣の思考が鮮明になると、混乱が追い付いてきた。部屋の中で、穣に分かることは何もなかった。
 何も分からなかったから、まずは目の前の相手の名前を聞いた。
「……えっと、キミは?」
「俺はNO5
 また、人名とは程遠い番号が聞こえてきた。自分を6と呼んだ少年の番号が、5。その事実をどう処理すべきか、考えても答えは出そうにない。
 穣はベッドから体を起こすと、部屋の中を散策し始めた。白い壁には継ぎ目がなく、やけに頑丈そうなツルツルの化粧板で出来ている。よくみれば天井の隅にはスリットがあって、どうやら空調管理されている。唯一の出入り口であろう扉は固く施錠されていて、穣が押しても引いてもビクともしない。静かに様子を見ていたNO5が口を開く。
「今は施設の清掃時間で、自由に出入りできないんだ。出歩きたいなら食事の時間と、その後の自由時間まで待てよ。もっとも、外には出られないけど」
「施設? 施設ってなに? ここ、オレのおうちじゃないよね。どこなの? 別のおうち? けい兄は? 他の皆はいないの?」
「ここはアルタートリガー社が管理する、ファントメタルの生体実験施設。検体は各居室に二人収容されてて、このC居室がNO5と6用。だから、いるのは俺とアンタだけ」
 NO5はどこか吐き捨てるように、しかし明瞭に穣の質問に答えた。単語の意味は殆ど理解できなかった。聞こえてくる情報量と現実感の無さを受け止め切れず、穣はただ目を丸くする。
「……オレ、帰らないと。けい兄に教えなきゃ。ピアノコンクール、頑張ったよって。オレ、大賞貰ったんだよって……オレ、上手に弾けたよ、って……」
「帰れない」
 NO5が淡々と告げる。その迷いのない声音に、穣はもうなんとなく分かっていた。NO5は恐らく嘘を言わない。ただ事実を口にしている。
「外から連れて来られたアンタには気の毒だけど、もう元の場所へは帰れない。俺も、誰もここからは逃げられない。これからずっとこの白い部屋で生きて行くんだ」
 聞こえた音を穣が声として受け取るのには、数秒が必要だった。痺れた頭の奥から、気持ちの悪い物が膨らんで、胸に染みて、流れる血が冷えていく。その冷たい血が巡りきるころ、悲鳴に成りきらなかった感情が、頭の中で弾けた。
 ぱちん。

「いたたた……」
 まだ目の前がチカチカする。NO5と白い部屋で生活を始めて、たぶん十日は過ぎた。
 NO5は、ろくに感情を顔に出さない。それでも今日はその瞼が、微かに呆れの色を浮かべているのが分かった。
「バカなことするからだ。確かに食事の搬入の際は連絡通路が開くけど、そこから逃げ出すのは現実的じゃない。監視カメラがどれだけあると思ってるんだ?」
「試す前に言ってよ……痛っ。あのビリビリ棒、痛すぎ……」
「電気警棒を食らう奴なんて、久しぶりに見た」
 NO5が呆れを顔に出す――目に見えてわかるほどに。
 最初の三日は、穣にとって戸惑いの日々だった。それから三日、現実を理解し始めた穣は泣き続けた。そして最初の一週間が過ぎたころから、穣はたびたび脱走を試みていた。今ではすっかり施設の要注意対象になっている。
「NO6……アンタさ、たぶん、この施設が出来て以来の問題児だよ」
「だからさ~、その呼び方やめてよ。オレには穣っていう名前があるの」
「まだそんなこと……セキュリティのためなのか、ここでは職員ですらIDで呼び合うんだ。個人の名前なんて、本の登場人物にしか必要ない」
 ページをめくりながら、NO5が言う。職員が時折差し入れてくれる本は、この施設において数少ない娯楽の一つだ。問題児の穣は要望を許して貰えず、NO5の本を貸してもらおうと思ったが、文字ばかりの堅苦しい内容で読めやしない。どうやら今読んでいるのは古典のSF小説らしい。
「必要ないことないよ。自分の名前だもん。……キミだってあるでしょ、ホントの名前」
「ない」
 まるで物品の在庫切れを告げるように、NO5は淡々と返す。
「俺は物心ついたときから、アルタートリガー社の施設で育った。ここに移送された際に割り振られたNO5っていう番号が、初めてでただ一つの名前だ」
「そんなの名前じゃないよ。番号じゃん」
「今はアンタも番号が名前だろ。鬱陶しいからさっさと受け入れてくれ」
「やだ。俺はシックスじゃない、御山穣だ。キミもそう呼んでよ」
「……断る」
「なんで? 良いじゃん。キミはここの大人たちの仲間じゃないんだし……」
 言ってから、穣は思案気に首を捻る。それから不意に手を叩いて、NO5を見た。
「そっか。オレだけ名前で呼ばれるんじゃ変だよね! キミも名前で呼ぼ!」
「だから、俺に名前なんて……」
「だからオレがつけるよ! ちょっと待ってね……」
「は?」
 NO5は目を丸くして、瞼のゴミでも追い出すようにパチパチと瞬いた。驚いた黒猫によく似ていた。穣がウンウン唸りながら考え出すと、やがてまん丸に見開いた目をジトりと伏せてため息を付いた。
「NO6。俺は別に頼んでない……」
「イツキ!」
 びし、と穣がNO5――イツキと名付けた少年を指す。読書を唯一の娯楽としてきたNO5の脳内で、聴こえた音がタイピングのようにぱちぱち文字に変換されるようだった。
「それは……まさか俺がNO5だから、五つからとってイツキなのか……?」
「そう!」
「……先週読んだ小説に、マメシバだからマメと名付けられた犬がいたんだけど」
「へー、その犬可愛い?」
「俺は名前が無いから、安直なネーミングというものは合理的なんだと思っていたが、今ちょっと……あの犬が不満げだったのがわかった……」
「うん! じゃあこれからよろしくね、イツキ!」
「薄々思ってたけどアンタ、人の話を聞かないだろ!」
 不満げな様子が、ありありとイツキの顔に現れていた。
 そうだ。この頃のイツキには、ハッキリとした感情があった。どこか達観しながらも、年相応の驚きも、戸惑いも、滲み出るほどに豊かだった。
 ともかく、やっと感情を顔に出してくれた彼に、穣は嬉しそうに手を叩いた。
 ぱちん。

「イツキってさ」
 娯楽室の一つに備えられた、ピアノを弾きながら穣が言う。壁に持たれながら〝東洋料理の政治学〟なる本を読みふけっていたイツキは顔も上げない。
「イツキってさー」
「その名前、俺が振り向くまで呼ぶつもりか」
 溜息と共に、ようやく返事が返ってくる。穣は嬉しそうに、金色の瞳を見返した。
「だってNO5なんて呼びたくないもん。ロボットみたいじゃん。それとも、やっぱりもっと別の名前がいい? カッコいいやつ考える?」
「面倒くさいな……もう何でもいい。呼び方なんて好きにしろ」
「じゃあイツキ。イツキは外に出て、やりたい事とかないの?」
「ない。そもそも俺たちは外に出られない」
「もしもの話でも?」
「〝もしも〟なんて楽観的な言い回しが出来るのは、この施設でお前くらいだ。NO6」
「だから、オレは穣だって。御山穣。さん、はい」
 指揮者のように指を振る穣を無視して、イツキはゆっくりと本のページをめくる。穣は喋りながらでも悠々とピアノを弾きながら、イツキが読む本の表紙を見る。
「好きなの? 料理」
「別に。本は職員に定期的に差し入れてもらってるが、ジャンルは選んでない。だから別に料理に興味があって読んでるわけでもない。ここでは料理なんて出ないしな」
「あー、赤とか青とかカラフルな薬みたいなやつ。オレあれ嫌い。不味くないけどさ」
「栄養価は足りている。俺たちはあれを食べて育ってきたんだからな」
「栄養があっても楽しくないもん。あーあ、からあげ食べたいなー。カレー、ラーメン、オムライス! やっぱりからあげー!」
 穣が一曲を引き終わる。静けさが満ちるのを待って、イツキが口を開く。
「いつも弾いているな、その曲」
「うん。本当は連弾曲なんだけどね。けい兄と一緒に、よく弾いてたんだ。コンクールでも弾きたかったんだけど、これは二人用の曲だから」
「そうか」
「この曲、大好きなんだ。オレにとって、ピアノ曲のからあげかも」
「ピアノ曲のからあげって何だ……?」
 イツキは眉をひそめて困惑する。だいたい、十八番とかフェイバリットとか、そういう意味で言っているのだろうと理解して、改めて尋ねる。
「そんなにか」
「何が?」
「大好きな物の例えにするほど、そんなに美味しいのか、からあげ」
 ぱちぱちと瞬きをしてから、穣が笑う。
「オレの好きな四文字の言葉、一位がけい兄で二位がからあげだから」
 イツキは少し顎に拳を当てて、考える。
「いや待て。流石にオレでも兄と揚げ物料理が並んでるのは、おかしい気がする……」
 イツキが本を閉じて、穣に向き直る。
 ぱちん。

「あのさ、イツキ」
 汗ばんだイツキの手を握りながら、穣は静かに、穏やかに言う。
「穣って呼ぶのが気に入らないなら、お兄ちゃんでも良いよ」
 ふう、ふう、と浅い息を何度か吐いて、イツキの視線が動く。常夜灯だけが微かに照らす暗闇の中で、目と目が合う。穣が額の汗をぬぐってやると、イツキが口を開く。
「……まったく意味が分からないが、なんでそうなる」
「オレさー、お兄ちゃんがいるんだよね。けい兄、御山京って言うんだけど」
「その話は……何度も聞いたけど」
「お兄ちゃんって凄いんだよ。いるだけでさ、無敵なの。顔を見たら明るくなるし、隣に来てくれたらあったかいし、声を聞いたら笑顔になるんだよね」
「俺が読んできたどの本にも、そんな説明は無かった」
「でしょ? だからさ、今日からオレがイツキのお兄ちゃんやるよ。兄弟がいるって、安心するよ。暗い夜も、目を閉じても安心する」
「……べつに、不安だから、うなされてたわけじゃないぞ、俺は」
「そうなの?」
「投薬の副作用が、睡眠障害の出るタイプだっただけだ。薬の効果なんて、兄弟の有無だけで変わるもんか……」
「変わるよ。オレは、兄弟がいたほうが耐えられる……と思う」
 施される処置が違っても、同じ実験体。穣にも何か副作用が出ていてもおかしくない。
 そっぽを向いても、薄暗い部屋の中では視線が留まる場所が無い。彷徨うように目を揺らして、結局イツキは穣を見返した。
「……文句がある」
「え、なに?」
「とりあえず、記憶している身体データによれば俺とお前は同年齢だ。お前が兄だって決めつけるのは、おかしい」
「イツキって誕生日いつ?」
「知らない。興味ないし……必要も無い」
「じゃあイツキだから、いち、ごー……一月五日……いや、やっぱ一月十五日にしよ。オレは十月十日だからオレのほうがお兄ちゃん。おっけー」
「お、お前、自分が兄ぶりたいからってだけで、勝手に人の誕生日を設定するなよ」
「だってオレにはもうお兄ちゃんがいるもん。でも弟はいないから、出来たら嬉しいなって思って」
「……言いたいことばっかり言うやつ」
 イツキは深くため息をつく。荒い呼吸が少しは落ち着いた。呆れもリラックスには悪くないかもしれないと、痺れた頭の奥で考える。
「もういい、兄でも弟でも好きにしろ。……俺は寝直す」
「じゃあ、オレも近くで寝よ。おやすみ、イツキ」
「……」
「……」
「……認める」
「え?」
「こうしているのは、その……意外なほど、安心する」
 繋いだ手の力は、だんだん抜けて行く。それでも絡んだ指は離れなかった。
 気づいたら、瞼が落ちていた。
 ぱちん。

「オレはさ、将来の夢が消防士さんなんだけど」
「前にも聞いた。……ピアニストじゃないんだな、と返事したはずだが」
「そうだっけ?」
 昼食の後、白い廊下の壁にもたれて話す。娯楽室への道が塞がれていたからだ。
 隣の穣を見返して、イツキは怪訝そうに首をひねる。
「どうして消防士なんだ? 本で読んだだけでも、危険で過酷な仕事だと思うが」
「格好いいじゃん。勇気のある仕事って感じで。消防車も格好いいよ」
「あの真っ赤で管だらけの車が、外の世界では格好いいのか……。機能性が充実しているのはわかる」
「イツキは? 将来の夢とか」
「前にも言ったが、ない。この施設でそんなものを持ってる奴はいないし、オレたちの将来は、決まっている」
 イツキは廊下の奥を視線で指す。開け放たれた一室を、白いツナギに身を包んだ職員たちがテキパキと清掃している。運ばれて行った容器は、人ひとりが収まるにはかなり小さく見えたから、その部屋の子供がどんな状態で終わったのかは、ファントメタル実験の行きつく所を考えれば想像がつく。
 穣は努めて、そちらを見なかった。穣が来てから、施設の子供が廃棄されたのは初めてではない。最初は泣き叫んでいたことを思うと「早めに慣れたな」とイツキは考えたが、それが間違いであることは、震える穣の手を見てすぐに分かった。
「穣。部屋に戻っても良いと思うが」
「歩けなくって。足、すくんじゃって」
「そうか」
「だからしてよ。将来の話。ここから出たら、したいこと。考えてよ。……お願い」
「分かった」
 イツキは数秒目を閉じた。今まで読んだ本を思い出す。全てのページが鮮明に、プリントアウトされたように瞼に映る。常人離れした記憶力は、ファントメタル実験の偶発的な影響だという。嫌な記憶まで詳細に残るのは苦痛だったが、同居人の能天気な笑顔で記憶を埋めると少しはマシだった。だから、イツキも穣を笑顔にしたい。
「調理師は良いかもしれない」
「……コックさん? へー、良いね!」
「本で読む限り、レシピというのは綿密に設計されている。化学反応を駆使した調理、栄養や保存を考慮した上で味覚を満足させる調味、複雑で奥深いのに、レシピの手順を守れば再現できる……というのが、たぶん性に合ってる」
「ああ、たしかに。もしコックさんになったら、からあげ作ってよ」
「穣は本当にからあげが好きだな」
 いつの間にか、部屋の清掃は済んでいた。それでも職員がばたばた動いているのは、清掃作業で後ろ倒しになったタスクを進めているためだろう。
 廊下の一番奥の部屋が開いた。他のどの子よりも厳重に保護されながら、一人の少年が実験室への通路を歩いて行く。
「ゼロだ」
 イツキが言う。穣はやっと顔を上げて、そちらを見る。
 NO0は銀色の少年だった。白髪も、淡い瞳も、白い照明の下で見ると、ファントメタルその物が人になったような風貌だった。
 穣たちが、ゼロと交わした会話は多くない。施設における最大の成功例は、常に別格の扱いを受けている。その分、実験も過酷であることは他の子どもたちにも想像できた。
 だからなのか――ゼロは、おそらく壊れていた。
 実験体としてではなく、人間として。イツキが会話したとき、ゼロは五、六歳の幼子のように無邪気に応じて、かと思えば急に大人びたり、静かに泣き出したり、成熟した男性のように喋り出したかと思えば、明らかに女性の口調に変わったりもした。
「ゼロはいつも、何をされてるんだろう」
 穣が言う。イツキが応える。
「さあ。分かっているのは、あいつは実験頻度も、実験室に搬入されるメタルの数も段違いだということだけだ。外部から回収されたメタルまで使っているようだからな」
「じゃあ、俺たちの実験よりずっと苦しくて、辛いんだよね」
「だけど、たぶんアレが、施設の大人たちが目指すことに一番近いものだ。俺たちが目指すことになっている姿だ」
 それは、イツキ自身も感じている恐怖から滲み出た言葉だった。
 実験室に入る前。不意に、ゼロがこちらを見た。
 穣とイツキは思わず体を強張らせた。ゼロは何も言わなかった。
 ただ、少しだけ悲しそうな顔を見せて目線を外した。それがイツキを見たのか、穣を見たのか分からなかった。
 ゼロはフラつきながら歩いて行った。
 実験室の扉が閉まり、使用中のランプが灯った。
 ぱちん。

 消毒液の香りが鼻をつく。
「これよりNO6の第二種負荷実験を行う」
 実験室に入るたび、広い部屋の真ん中で密集した明りに照らされる、ビニール状のシートで覆われたベッドを見るたび、穣は足がすくんで動けなくなった。
 職員たちが穣を運んで、ベッドに寝かせると、太いバンドで体を留められた。薄い病衣越しに食い込む感触が痛くて、穣はうなった。
 歯科医療で使われるマウスオープナーに似た器具で口を開けられ、その日の実験用のメタルが舌に乗せられた。幻影が表れる。
 歪んだ螺旋階段のようなそれは、最初はピアノの鍵盤の形をしていた気がする。職員たちは幻影の変化について、つぶさに記録していた。
 かちゃかちゃと金属的な音がする。台車に乗せられたトレーの上で、何らかの器具を扱う準備が進む。それが針であることに気づくと、穣は「やだ、やだ」と話そうとして、口が固定されているため、唸るにとどまった。
 針は点滴に繋がれたチューブにセットされる。穣の右腕がゴムバンドで縛られ、肘の内側の薄い肌から、鋭い感触が入ってくる。穣は注射が嫌いだ。けれど腕にはもう幾つも鬱血の痕が残っている。左腕は使い過ぎから右腕になって、この後は脚を使うらしい。
「微細粒子化したメタルの静脈投与を開始。適合率の変化を見つつ投与量を上げろ。くれぐれも自然排出の限界量に注意するように。また検体をダメにするなよ」
 体中を巡る血に、異物が混じるのが感覚でわかる。穣は研究所に来てから、ここの物を食べ、ここの空気を吸い、ここの薬品を投与され続けている。
 イツキが言うには、人間の体は代謝するらしい。こうやって研究所の物を体に入れ続けたら、自分はここに来る前の自分と、同じ人間と言えるのか――穣は不安になる。
 投与が終わると、別の器具が運ばれて来る。
 穣は必死に首を振る。あの器具が痛い事は決して忘れない。嫌だ。嫌だ。職員は二つのパッドを穣の肌に張り付けて、スイッチに触れる。
 ぱちん。

「……はあっ! はあっ……」
「大丈夫だよ、イツキ……大丈夫……」
 暗い部屋の中、イツキの手が弱弱しく穣にしがみつく。時計の無い部屋だから、時間帯は深夜としか言えない。
 その日のイツキは、実験室から帰った時から様子がおかしかった。恐らくまた新しい実験に曝されたのだと、穣はすぐにわかった。自分も同じだったからだ。
 イツキの目の焦点が合っていないのがわかった。見開かれた瞳は室内の闇ではなく、実験の後も幻影を見ているようだった。
 穣がここに来たときから、イツキは記憶力が良かった。良すぎた、と気づくのには時間がかかった。イツキには見たもの、体験したことを、鮮明に記憶する能力があった。メタル実験の副産物らしい。
 イツキの記憶力は、実験のたびさらに強くなった。比例して、イツキには眠れない日々が増えていた。消毒液の香りも、注射針の痛みも、大人たちの顔も、仲間が廃棄される光景も、瞼を閉じれば鮮明に浮かぶのだという。だから苦しみが終わらない。
「……大丈夫、大丈夫」
 イツキを囲む暗闇の中に、数多の苦痛の記憶が映る。その恐ろしい闇から守るように、穣はイツキの頭を胸に包み込む。優しく、優しく語り掛ける。
「オレがいるよ、イツキ」
 穣は辛そうなイツキをなだめる時、いつも京を思い浮かべた。
「お兄ちゃんがいるから、大丈夫だよ」
 その声音は、少しだけ京に似せた。自分自身にも、京がそう言ってくれると思いたかった。イツキの手が、強く穣の服を掴む。見開かれたイツキの目が、穣の顔を見返す。
「目を閉じないと眠れないよ、イツキ」
「いい。どうせ眠れないから。だから、覚えさせてくれ」
 イツキの声が震えている。
「苦しい記憶ばかりは嫌だ。穣の記憶で薄めさせてくれ。顔を、声を、覚えさせてくれ。暖かいことも、安心することも……兄弟が居れば大丈夫だって、覚えさせてくれ……」
「うん。実験の時間より、ずっと多く一緒にいよう。楽しい思い出を増やそう」
 ――そう言えば、ここに来てからどれほどの月日が経ったろう。
 まだ、京と過ごした時間よりは多くないはずだ。けれどこの場所で覚えた苦しみが、京の思い出より多くなったら、どうなってしまうのだろう。
「……兄、さん」
 イツキの声が、とても、とてもか細く聞こえた。
 穣は恐ろしい考えを追い出すように、軽く自分の頬を叩いて、イツキを抱きしめる。
 ぱちん。

「記録開始。……トラップ反応についてはようやく納得の行くデータが取れつつある。結局、トラウマという検体の経験に依存した要素に左右される反応は、施設内の環境しか知らない検体ではサンプルに乏しいのが問題だった」
 職員の声が聞こえる。
「だがそれも解決したと言って良いだろう。検体に苦痛を与えるというのは、単純だが効果的だった。無いトラウマは作ってやれば良いわけだ」
 穣は汗ばんだ体をよじろうとしたが、拘束で上手く行かない。筋肉を強張らせると、針が入っているのかと錯覚するような痛みがある。肌がヒリヒリするのは、電流を流された二の腕や腿のあたりだ。
「データの通り、メタルと反応する脳の活性領域は格段に広がった。NO6にはまだまだ伸びしろがある。ホッとしたよ。定期報告には良い結果を提出できる」
 一際弾んだ声を出しているのは、穣の実験を主導している男だ。助手を務める他の職員たちも笑顔を見せている。
「よし、今回は呼吸に負荷を与えてみよう」
 居住区で身の回りの世話をする職員たちと比べ、穣は実験室で会う職員たちを、人間のようには感じなかった。いつも意味不明な言葉を並べ、淡々と穣に苦痛を与えてくる。昆虫のように感情の見えない目をしている。
「脳に供給される酸素量を制限することで、意識レベルを意図的に低下させて形成される幻影を観測する。苦痛も与えられるから効率が良い」
 口と鼻を覆うように器具が取り付けられる。液体が流れ込んでくる。水だ。穣は体をよじる。あっという間に水面が口と鼻を覆い、呼吸が全て泡になる。
 息苦しさに藻掻いていると、右腕がやけに強く固定される。鋭い物が肌に触れる。穣の体が強張る。上げた悲鳴は泡になって水の中に消える。
「ピアス型メタルの使い勝手も悪くない。出血で反応するのは手軽で良い」
 酸欠に薄れていく景色の中で、幻影が揺らめいている。ピアスが一気に肌を刺す。
 ぱちん。

「記録開始。NO6の実験は順調と言って良い。トラウマの構築に伴い幻影像に変化が起きたことを論理的に記録できている。今後も検体へのストレス付与によりメタルとの反応を確認していく方針を取る」
 実ケンの前から痛みがある。両手の指の全てにケンサ器具がついている。
 指がイタいのは器具のためではなく、日に日に増やされるタトゥーのせいだ。使用する実ケン器具の目印として、最初はペンで印を書かれていたが、効リツのためとしてタトゥーを、タトゥーを……キザまれるようになった。
「本日は新型の電気パルス発信機を用いて痛覚の再現実験を行う。検体と接続器具のマークを間違えるなよ。よし、ではパルス発振開始」
 唐突に、穣のウデにゲキ痛が走る。刃物で切られたようなスルドい痛みに、穣は悲鳴を上げる。咥えさせられたプラスチック製の筒をカみ締める。
「ボリュームを上げろ。意識レベルに注意するように」
 痛みが強くなる。腕の中にいきなり、焼けた釘がウめ込まれたようだった。筋肉に伝わる激痛と骨の中を、骨の中を、骨の中をムシバむ鈍痛が、腕から肩、肩へ上がっていく。ピアス型メタルを刺されたようだが、そのテイ度の痛みなどもうワからない。
 ぱちん。イシキと痛みが消える。
 ぱちん。目がサめる。全身が痛い。もういやだ。
「――気ショック成功。意識レベル回復を確認。……馬鹿め、気絶させてどうする。痛覚の刺激中は常に脳波に注意を払え。初めからやりなおしだ」
 穣は悲メイを上げる。再び職インの手が器具のスイッチにフれる。やだ。やだ。
 ぱちん。

「記録開始……幻影の形象崩壊は、やはり進行している。メタルの浸食による認知能力、記憶能力の低下が影響しているとみられる。これ以上は回復が望めないだろう。一方で、脳波の測定によると脳の活性領域自体は広がっている。パルス発振開始」
 ぱちん。イタい。プラスチックのクダを噛みシめる。ギリギリと音をたて、プラスチックを噛みクダく。ハヘンがクチとホホを傷つける。ぱちん。
「認知能力、記憶能力の低下と比例し、NO6の身体能力は向上している」
 アバれる。ベルトは前よりもジョウブな、ジョウブナ? 物になって、アバれるたびに食いコんで血がニジむ。引っパると、ベルトよりサキにベッドのカナグが壊れる。
「メタルの影響により、脳の何らかのリミッターが外れつつあると推測される。言わば原始的というか、動物的な……人間の脳が進化前に有していた機能が解放されつつある、と考える。NO6の人格には幼児退行も確認できる」
 ショクインたちが数人がかりでオさえつけ、キキキキンゾクのカセをハメて、何本ものベルトを、べるとを、ぱちん。やだやだやだやだやだ。あ。あ。あ。
「ある意味で、生命として純粋な状態に戻っている……これもまたメタルの可能性だ。正直に言えば想定していたわけではないが、これはこれできちょうな――」
 どこ 痛い痛い痛いのか、もうワかららららない。ナミダがカワいて、目がひりひりする。かちゃかちゃかちゃキグ 動く音。ショクインが何か、なにか、なにか。なにか!
 いたい! いたい! いたい! ――!
 ぱちん。

 自シツのベッドが、コワれたのは、穣がやッたのだとキづいた。
 ジッケンシツから帰って、イツキが「ダイジョウブか」と声をかけてくれたから、ダイジョウブだよ――、と、答えてヨコになった。
 それから、しばらくして、トラップ反ノウが来た。
 ジッケンシツでされた、嫌なコトがイッキに思い出されて、穣はアバれた。
 止めようとしたイツキが、……イツキ? が、ツきとばされて、壁のとこ でぐったりしている。
 ヨミガエってくる、デン気がばちばちと、ピアスのざくざくが、いっぺんにくる。
 穣はベッドをたたいた。ぱちん。
 穣は壁をたたいた。ぱちん。
 ミノリはミノリをたたいた。ぱちん。ぱちん。ぱちん!
 イタい。イタい。たたくのはイタイ。クルしい。ツラい。
 ずっと どうして、こんな と。
 ヒッシに、ジカンがすぎて行くのを待った。
 イヤな思い出ばかり 浮かんでくる。
 ぱち。ぱち。おかしく る。こんなこと かり、カンガ たくない。
 けい兄のこと 思いダす。けい兄のこ を。けい兄の、けい兄に、アいたい。タスケてほしい。ど して、アいにキ くれない。けい兄。けい兄の。けい兄の。

 けい兄  の カオ が、わからない、コトに   きづいた。

 それ わからな ったら、自ブンはダレな だろう。ケイニイのこと ワスれたミヤマミノリなんて、イるはず ない。だか ケイニイ アえないんだ。
 じゃあ、オレ ダレなんだろう。
 きっ ミノリじゃないん゛ 。オレはNO6だから、ミヤマミノリじゃ い。だってミノリがケイニイと、ハナれるはずな から。こん ことに、ナってい はずないから。
 そうおもう 、きゅ に、ラクになった。
 いろいろ ゲンエイ゛ みえる。いちばんトオいところ 、ふたり コドモがいた。
 ケ ニイと、ミ リが、なかよく、よりそ て、テをつな で ハシ ていく。
 よかった。ミ リが、イエ カエって く。
 ふたりがハシっ いく、ケシキの   から、しろ ヒカリ マタタイて る。
 ふ りはイッショ キえ いく。オレ そ スガタ ミ  。
 ミヤマミ リ    は     。
 ごめ  、   。           。


 ぱちん。

 ――――。
 ――――……。
 ……最初の記憶は抱きしめられる苦しさと、イツキ兄の泣き声だった。
 部屋の中があちこち壊れてて、なんとなくオレがやったことは分かる。でも何も思い出せなかった。たった今、産まれたみたいだった。
「   ――目が覚めたのか?」
 オレは思わず顔をしかめた。
「   ?」
 その三文字でオレを呼ばれるのが、なんだかとても嫌だった。
 イツキ兄はしばらく呼び掛けて、オレが   と呼ばれて分からないことと、嫌がっていることに気づくと、とても悲しそうな顔をした。とても、とても。
 頭の良いイツキ兄は、その時のオレを見ただけで、色々なことが分かったらしい。
「そうか」
 イツキ兄はしばらく目を閉じて、開けた。
「……NO6だから、そうだな。ロクタ。お前は、ロクタだ」
「うん! オレ、ロクタ!」
「……ははは。参ったな。安直な名前だなんて、よく言えたものだ」
「お兄ちゃんはだれ? なんていう人?」
「――っ、俺は」
 その時のイツキ兄は、急にしゃくりあげるように喉を鳴らした。月みたいな金色の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「俺は、イツキだよ」
「イツキ? イツキお兄ちゃんは、だれ? 何をする人?」
「俺は……俺は、俺はっ……」
 ぎゅう、と抱きしめられた。イツキ兄の腕と、胸の中が暖かくて、オレは凄く安心した。
「俺は…………兄だ。ロクタの」
「お兄ちゃん? オレの!? やった! すごい、オレ、お兄ちゃんがいるんだ!」
「そうだ。だから大丈夫だ。お兄ちゃんがいるから、  は……ロクタは安心していい」
「あはは! イツキ兄! イツキ兄!」
 今思うと、イツキ兄の泣き方は少し変だった。
 涙はたくさん零れているのに、表情は真顔のままで――そう言えば最近は、イツキ兄が泣く所を見たことがない。
 不意に、部屋の中に声が響いた。
『NO5、十分後に実験を開始する。支度を済ませるように』
 機械を通したノイズの混じりの声が凄く不愉快だった。
 支度をしろ、と言われても、イツキ兄はギリギリまでオレを抱きしめていた。
「ロクタ。お前だけじゃない。俺もおそらく、もうすぐ壊れる」
「え?」
「分からなくなっているのが分かるんだ。嬉しいとか、悲しいとか、感じるのに、その感情がやけに遠い。メタルに活性化した脳が、苦痛から自分を守ろうとしているんだろう」
「なぁに、イツキ兄。オレ分かんない」
「だが……その代わり、俺には世界を鮮明に捉える目がある。見聞きした物を決して忘れない、記憶能力がある。だから」
 部屋の扉が開く。
 白い服を着た職員たちに連れられて、イツキ兄が出て行く。
「ロクタ」
 出て行く間際に、イツキ兄が言う。
「大丈夫だ。俺が忘れない。   のことも、ロクタのことも。これから喜びも悲しみも無くなっても、お前と過ごした日々のことを。お前が大切であることを。絶対に忘れない。お前が何もかも忘れても、俺が全部覚えてる」
 扉が閉まる前に、隙間から笑顔が見えた。
「だから、大丈夫だロクタ。お前には、兄がいる」
 オレが――ロクタが最後に見たイツキ兄の笑顔は、確かあの瞬間だった。

 夜風の冷たさを覚えてる。
 研究所が急に慌ただしくなって、気が付いたらイツキ兄と外に居た。
 車の走る音、子供たちの笑い声、街から響く音楽。色々な音が聞こえてきた。オレの声も足音も、どこまでも遠くに飛んでいく。壁も天井も無い世界は、果てしなく広がっているんだと分かった。
 息を吸うだけでも新鮮だった。冷たい夜風は少し埃っぽくて、微かに濡れた香りがした。草と土の匂いを初めて覚えた。なぜか不思議と懐かしかった。
 イツキ兄は小さなカードを持っていて、それでコンビニでご飯を買って食べた。オレたちは色々大変だったから、セーフからホショーキンが出たんだって。
 からあげが凄く美味しかった。たった一回で大好物になった。
 オレたち、本当は別の施設に行くこともできたらしいけど、もう誰かに管理されるのは嫌だから、お金だけ貰って自由になることにした。
 それから、最初はネットカフェっていう所に泊まったのだけれど、オレが煩くしてしまったから使えなくなった。イツキ兄は怒らなかった。なんだか色々考えるような顔をしたけれど、オレが笑うと頭を撫でてくれた。
 雨が降ると気持ち良かった。でもイツキ兄は風邪を引くって言うから(風邪ってなんだろう)屋根の有るところを探して、寄り添って眠った。
 夜は少し寒くても、イツキ兄といると暖かかった。風が吹いても砂がついても、あの白い施設よりずっとずっと、外で生きる時間のほうが楽しかった。
 お日様と一緒に起きて、お月様に見守られながら眠った。
 朝も夜もオレたちのもの。そう思うと凄く嬉しくて、走り回りたい気分だった。というか、走り回った。イツキ兄は息切れしてた。オレは人も建物もいっぱいで楽しかったけど、イツキ兄には情報の多すぎる景色は大変だったみたい。
 それから、色々大変なこともあったけど、二人で力を合わせて、生きて、生きて。
 そしてあの夜、大きなピアノを見つけた。
 ストリートピアノ。街中でピアノの音が聞こえて、最初は驚いた。
 誰でも弾いて良いっていうから、オレも弾いてみた、
 譜面なんていらなかった。指が勝手に踊るみたいに、オレはピアノを弾くことができた。どうしてだかは分からないけど、何も覚えていないオレの体は、この曲の音符をずっと握りしめていたみたいだ。
 皆、凄く褒めてくれたっけ。知らない人も足を止めて、いい曲だって喜んでくれた。お金をくれる人もいた。ピアノを弾くだけで、誰かと繋がれた。何よりその曲を褒めてもらえるのが、何故だか凄く嬉しくて。
 その時、初めて知ったけど、音楽って笑顔になれるものだった。

 暇があったらピアノを弾いた。
 寝て、起きて、からあげ食べて、順番を待って、ピアノを弾いた。
 いつだって傍にはイツキ兄がいた。ピアノを弾くと、周りに人が集まってきた。こんな日々もけっこう良いなって思った。きっとオレはピアノが好きだった。
 それに、不思議なことがあった。名前も知らないあの曲を弾くと、なんだか心も身体も凄く楽になった。ガチャガチャに欠けた心の何かを、メロディが埋めて行くみたい。
 音楽は風に沁み込んで、空気に溶けて辺りを漂う。その響きが優しく撫でてくれるみたいで、だからオレは、ピアノが好きだった。
 息をするように、立って歩くように、オレの指は迷わなかった。何処を叩けば音が出るのか、オレはずっと知っていた。
 そして――その日もオレは、ピアノを弾いていた。大好きなあの曲を弾いていた。
 影で染まるビルの向こうから、金色の光が射している。
「――ごめ――」
 空は街の方から茜色に燃えて、宇宙の透けた紺色にグラデーションしていく。
 風の香り。車の音。子どもたちの笑い声。道に落ちる影は長く長く伸びて、やがてその影が空を塗りつぶしたら、その日も夜がやってくる。
 そして、いつの間にか人だかりに包まれた景色から、あの瞬間がやってくる。
「――ごめんなさい、通して。前に、行かせてください」
 音楽が満ちる世界から、あの声が聞こえてくる。
「   !」
「えっ……」
「  リ! ……ミノ !」
 欠けている音がぴたりとはまって、振り返れば、そこに居た。
「穣!」
 淡い色の髪は明かりに透けて、太陽によく似て輝いていた。
 そうやってオレは、京ちゃんと出会った。
 初めて見た京ちゃんは、ぐしゃぐしゃの泣き顔で。だけど不思議と暖かくて。驚いたイツキ兄とオレは、二人で顔を見合わせて。戸惑ったけれど、怖くはなくて。
 それで――ああ、そろそろ夢は終わりみたい。
 白い光が揺らめいて、小鳥の歌う声が聞こえる。
 そろそろ瞼を開けなくちゃ。さん、にい、いち。
 ぱちっ。

 光に撫でられて目が覚めた。
 カーテンが少し開いていて、お日様がちょうどオレを照らしたらしい。
 イツキ兄より早く起きるなんて、珍しいからワクワクした。布団は少しだけ汗ばんでいて、嫌な夢を見たのかもしれないけれど、今朝は全部忘れていた。
 オレは静かにお布団から出ると、二人を起こさないようにこっそりと、着替えて朝の街に出た。京ちゃんにもイツキ兄にも内緒で出かけるのは、ちょっぴり悪い気がして、ちょっぴり楽しかった。今日は一人で世界を見たかった。
 お日様はまだ低いところに居る。早朝の景色は柔らかくて、風の色は透き通って、世界はまだ寝ぼけているみたいだった。
 昨日雨が降ったから、アスファルトの窪みに水溜まりが出来ている。鏡みたいに景色を映すそれは、剥がれて落ちた空の欠片みたいに見えた。
 お気に入りのスニーカーで地面を叩くと、足音がいつもよりはっきり聞こえる。道の向こうからベルの音がして、赤い自転車が走ってくる。キュウン、と高い声が混じったかと思うと、リードに繋がれた犬が通りがかる。
 街は少しずつ目を覚まして、色々な音が混じり出す。そこに暮らす人たちが思い思いに奏でる音が、重なってオーケストラになって、新しい今日が始まっていく。それが賑やかになるにつれて、朝日は眩しさを増していく。
 オレはなんだか嬉しくなって、地面を蹴って走り出す。スピードを上げる。景色が流れて飛んでいく。視界の中で街の色が混ざって、真っ白な世界が色づいていく。
 家の近くをジョギングして、通りを大きく一周して、また家の近くまで戻ってくる。
 朝に馴染んだオレの体は、もっと走ろうって誘っている。
 家の入口を横切って、道の向こうへもう一度。
 今度はどこまで走ろうか――そう思ったところで、駆け足の子供とすれ違う。
 淡い桜色の髪。
 顔はよく見えなかったけど、どこかオレに似ているようで、どこかが違う気もして。
 なぜだかその子が気になって、オレは足を止めて振り返る。
 その子の姿は、もうそこには無かった。不思議と胸の奥が寂しくて、オレはその子を探すように、来た道をゆっくり戻り出す。
 ちょうど家から出てきた、京ちゃんとイツキ兄と目があった。
 二人ともパジャマ姿で、京ちゃんは寝ぐせが跳ねていて、イツキ兄はいつものコートを裏返しに羽織っている。きっとオレが居なくて慌てたんだろう。オレは少しバツが悪くなった。でも、二人の姿が見えた時、嬉しさの方が大きかった。
 オレはもう一度走り出した。
 笑顔で二人に飛びついて、ぎゅっとめて抱きしめた。「どこ行ってたの」って眉を下げる京ちゃんと、「苦しい」って唸るイツキ兄。二人とも心配しすぎだよ。京ちゃんと違って道に迷わないもん。帰る場所は分かってる。
 でも黙って出てきたのは、悪かったかな。
 だからいつも通りおはようって言う前に、今日は最初にこう言った。
「ただいま!」
 大好きな二人の口から、大好きな音が聞こえる。
 ロクタであるオレの一日が、こうして始まる。